6.二人きりのバルコニー
駄洒落を言い終えたアンジェリンは、フェールの部屋から出ると、全力で駆け出していた。
ほんの一瞬のことだった。瞬きするほど短い時間。
駄洒落を披露した後に、すっと身をかがめたフェールが。
アンジェリンは左の頬を手のひらで押さえた。ちょうどえくぼができる辺り。
確かに、ここに。
彼の唇が触れたことは間違いない。気のせいでもなんでもなく。
彼はその後、何事も無かったかのようにアンジェリンから離れ、楽しそうに笑っていた。
『今日の駄洒落も楽しませてもらった。明日も頼むぞ』
触れられた頬が熱を持つ。彼につかまれていた手首も。
すぐ目の前にやってきた琥珀色の瞳。彼がいつもつけている香水の香りが鼻を撫でた。
心臓がまだ跳ねまくっている。
お相手がいる王子様がどうして、という気持ちもある。
廊下を走っていたアンジェリンは、遠目にマリラの姿を認め、少し冷静さを取り戻し、走るのをやめた。廊下をはしたなくドタバタ走っていたらまた叱られる。
息を整え、何事もなかったかのように歩くように心がける。
「アンジェリン、待ちなさい」
マリラに声をかけられ、ひっ、と体がびくつく。
「よいですか、今度からは仕事が長引くようなら王太子殿下のところへ先に連絡しなさい。殿下に迎えにこさせることなど、あってはなりません」
「はい、今後は気を付けます」
「駄洒落で殿下に気に入られたからといって、調子に乗ってはいけませんよ。それは、高貴な方が、見たこともない変わったおもちゃを手に入れて、少々興味を示している、というだけのことです。あなたは殿下専属の道化師のようなものだと理解しなさい」
「道化師……」
「そうです。あなたは殿下を楽しませるための道化。道化ならば道化らしく、分をわきまえなさい」
「はい……」
マリラが去ると、アンジェリンはほっと息をついた。
――私は殿下専属の道化師と同じなのね。
そう言われてしまうと、少しすっきりした。ただの道化と思えば、高貴な人に何かを期待してしまう気持ちを捨てることができる。変に意識せずに済み、普通通りに駄洒落を言えばいい。頬に触れられたのは、駄洒落のほうびであって、特別な意味などない。舞い上がってはいけない。
翌日、アンジェリンは、自分は、やはり道化師同然で間違いないのだと確信した。翌日も駄洒落を披露したが、何もなかったからだ。手をつかまれることも、頬に口付けされることもなく。
王城内では、アンジェリンは『王太子殿下に駄洒落を言うことを許された特別な人間』として認識されるようになっていた。
その日の夜は、フェールの部屋には、彼の同い年のいとこで、親友でもあるシド・ヘロンガルが遊びに来ていた。王妹を母に持ち、軍の特殊部隊を指揮するこの黒髪青目の青年は、不規則な仕事の合間に気まぐれにフェールのところへやってくる。
シドは帰り際に、控えている侍女や侍従たちをぐるりと見回した。
「……で、どの子が駄洒落の子?」
「急に何だ」
「いやさ、フェールが駄洒落侍女にはまった話、ちょっと耳にしたから、どんな子かと思って」
シドは訓練で日焼けした黒い顔に、真っ白な歯を見せて笑った。
「そこにいるが、彼女はおまえのためには駄洒落を言わないぞ」
フェールの不機嫌そうな声にもシドはお構いなしで、壁際に並ぶ侍女たちの方に近づき、アンジェリンの前に立った。
「君がアンジェリン・ヴェーノか?」
「はい」
「へえー、普通のかわいい女の子じゃないか。この口が駄洒落を言う? アンジェリン、今度は俺のためにも駄洒落を頼むよ」
アンジェリンが顔を赤くして返答に困っていると、フェールが間に割って入った。
「さっさと帰れ。ここはおまえが女性を口説く場所ではない」
「はいはい、わかったよ。また遊びに来るからな」
シドが従者を従えて笑いながら退室すると、フェールはアンジェリン以外の使用人たちの退室も命じた。
二人きりになると、フェールはアンジェリンが何も言わないうちに、窓辺に向かって歩き出した。
「駄洒落は後でよい。今からダンスの練習をする」
フェールは部屋の掃出しの窓を開き、アンジェリンを従えて広いバルコニーへ出た。
バルコニーの真ん中でフェールは立ち止まった。秋にさしかかる夜の屋外は、月がはっきりとして明るい。空気は乾燥し、肌に感じる風はひんやりしているが、震え上がるほど寒くもない。
「そなた、相手役を勤めよ」
「私ではうまくお相手できませんので、誰か他の者を呼びます」
アンジェリンは誰か他にいないかと振り返ったが、室内にはやはり誰もいなかった。先ほどみんな退室してしまったばかり。こういうときにココルテーゼがいてくたなら、彼女は喜んでお相手を務めることだろう。
「誰も呼ぶな。そなた、ダンスは踊れないのか? 廃貴族の養女ならば、それぐらいのたしなみはあると思うが?」
「一通りは学びましたが、私は、ダンスはあまり得意ではなくて……駄洒落を言うだけならどうにかなっても、ダンスとなると……」
「かまわぬ」
フェールはアンジェリンに拒む権利を与えず、アンジェリンに向かい、すっと手を差し出した。これではお相手をしないわけにはいかない。アンジェリンはためらいがちに手を重ねた。以前に手首をつかまれたときも感じたが、彼の手は触れればとても温かい。
「では、『ロマジエラ』を踊ろう」
『ロマジエラ』は、ゆったりとした甘い曲調のダンス曲で、必ずといっていいほど舞踏会の終盤で踊られる。
「曲は存じておりますが、うまく踊れるかどうか」
「下手でも問題ない」
フェールはつないだ手に力を入れてアンジェリンを引き寄せ、腰に片手を回した。
「忘れてしまったなら教えてやる。右にすり足で四歩、左に四歩、これを三回繰り返したら、そなたが左から回って場所入れ替えだ。まあ、口で説明するよりも、体が思い出すまで練習すればいいのだ」
ゆっくりと練習が始まった。右に左に、前に後ろに。
バルコニーに二人きり。ここは三階で、前は広い中庭が広がる。石と植栽で整えられた庭のずっと奥の方には、巡回している警備兵が持つランタンの光が、ゆっくりと移動しているのが見えた。
アンジェリンは誰かに見られはしないかと気がかりだった。成長した木々が、踊る二人の姿を覆い隠してはいるが、王太子と二人きりでダンスの稽古。後でどんなうわさを立てられるかわからない。
「遠慮するな。私に身をあずけて。そう、それでいい。顔を上げて私を見ろ。下ばかり見るな」
「はい……」
アンジェリンは緊張のあまり、躓きそうになった。つながれた手が汗まみれになっていることが恥ずかしい。しかも無意識に小刻みに震えてしまう。どうしても先日頬に受けた唇のことを思い出す。
――よけいなことを考えちゃだめ。あれは駄洒落のごほうび。私は殿下の道化師であって、恋人ではないもの。
失態のないように。
それだけを考えながら足を運べばいい。
アンジェリンの震えにフェールは気が付いたのか、握られている手の力が少し強めになった。
「そなた、ダンスは下手ではないと思うが?」
「そ、そうでしょうか」
ささやく低いフェールの声。目が回りそうなほど近く、息がかかる距離。月の光しかない暗さをうれしく思う。明るい場所なら、真っ赤になってしまっていることが彼にわかってしまう。心臓が跳ねてしまっていることはすでにばれてしまっているかもしれない。
すぐ目の前にある男性の顔。それだけで背筋が固まってしまうほど緊張する。駄洒落しかできない残念な女が相手役を務めていていいものだろうか。
月明かりの中、フェールはずっとアンジェリンを見つめ続けている。彼の艶めいた目が闇の中で時折キラリと光る。
片手は絡めてしっかりつながれ、彼のもう一方の手は、アンジェリンの腰の上にあてられている。
彼のぬくもりを感じながら、必死で体を動かす。
ぎこちないダンスはいつまでも終わってくれない。
気持ち悪い沈黙が続き、アンジェリンはとうとう耐えられなくなった。
「すみません、殿下」
「なんだ?」
整った顔立ちに見下ろされ、いよいよ緊張してしまう。
「わ、私、楽師を呼びに行ってまいります。音楽なしでは練習しにくいですし、しかも私では下手すぎて練習になりません。誰かダンスが上手な者もすぐに連れてまいりますから、少々お待ちくださいませ」
フェールは、動きを止めなかった。
怒らせてしまっただろうかと、アンジェリンはさらに体を堅くした。
「アンジェリン」
「はい」
「楽師などいらない。うまく練習できなくてもいいのだ。私はそなたと踊りたいのだ」
「は、はい……」
――ああ、どうしよう。
『そなたと踊りたい』……そんな言葉だけで心臓が破裂しそうだ。
見下ろしているフェールの目は、まるで恋人を見ているようなやさしさと熱が入っているのを感じる。ドキドキするこの状況の中、自分が相手で申し訳ない気持ちと、王太子殿下をひとりじめしている状況に、愚かにもときめいてしまっている自分がいる。
そうしているうちに、頭の中に駄洒落が浮かんできた。この苦しい雰囲気をどうにかしたい。
「あ、あの、殿下」
「ん?」
「【ダンス】は練習すれば、【だん】だんと上手くなりますよね!」
「……」
空気が微妙に固まった。
アンジェリンは少しだけ時間を戻したくなった。
――もうだめ。失敗した。消えてしまいたい。余計なことを言わなければよかった……。
フェールは一瞬、不思議そうな顔をしたが、顔を崩してゲラゲラ笑い出した。
「くっ……あはははは! 静かだと思ったら、駄洒落を考えていたのか。本当におもしろいやつだ」
「お、お、お許しくださいませ。私、ダンスより、駄洒落を考えている方が得意です。舞踏会などに出た経験もなくて……」
フェールは笑い続けながらも、ダンスをやめない。
「この私と踊っている最中に駄洒落を言った女性は初めてだ。なんと貴重な人材か」
フェールの笑いはなかなか止まらない。アンジェリンは照れ隠しに自分もひきつった笑い声を出してしまった。自分の裏返ったおかしな声音の笑い声が、頭の中でいつまでも響いている。握られた手はさらに熱を持ち、自分の手汗がしたたり落ちそうだ。
「こんなので申し訳ありませんでした」
「謙遜しなくていい。私はそなたが侍女でよかったと思う。有名貴族の令嬢だったとして着飾って舞踏会になど出てしまったら」
フェールは言葉を切り、ようやく動きを止めた。
「中へ入る」
フェールは、アンジェリンの手を引いて室内へ戻った。
「あの、では私はこれで」
アンジェリンは帰ろうとしたが、フェールはまだその手を離さなかった。
「まだ帰るな。そなたといると心が安らぐ。私は毎日、そなたと過ごすわずかな時間を待ち望み、そなたが非番の日はさみしくてどうしようもない自分と向き合わねばならない。そなたが誰かのために駄洒落を言うかもしれないと思うと、胸が焼けるような息苦しさに苛まれる」
「今後は駄洒落を一切やめろ、とおっしゃるならきっぱりやめます」
「違うのだ。私はそなたが誰かと楽しく駄洒落を言い合うことを禁じたいわけではない。だが、私は……」
フェールはアンジェリンの手を取ったまま片膝をついて跪き、その手の項に唇を押し当てた。「今までこのような気持ちを抱いたことはなかった。そなたのことになると私は些細なことでも許せなくなる。そなたには感謝しているのだが」
「殿下っ! わ、私はそんなたいしたことをしておりません。おやめください。いやしい侍女に対して膝を折るなんて、いけません。私はただ、駄洒落を適当に言っているだけです。殿下に喜んでいただけたなら、それ以上のことは望んでおりません」
――私は殿下の道化師だから。
手を引っこめようとしたアンジェリンだったが、強く手をつかまれた。
「アンジェリン、真面目な話をしよう。私は、これからもそなたと共に過ごす時間をもっと持ちたい」
フェールの琥珀色の目が、瞬きひとつせず、アンジェリンを焼き尽くすように強い光を放っている。
フェールはアンジェリンの手を握って跪いたまま、低い声で告げた。
「私の妻になってほしい」