59.新たな出発
「大丈夫、私はまだ生きているわ。死なずに済んだのだから」
アンジェリンは自分にそう言い聞かせながらも、しばらくの間、心臓の動悸が激しく、息苦しく、あふれてきた涙を止められなかった。こんなに簡単にお金を失ってしまった。フェールが残してくれた大切なお金だったのに。
目頭を押さえて、涙を収める努力をする。
──みっともない女ね。汚くて、お金もなくて。でも、私はかわいそうな女じゃないわ。あの人と一緒に旅に出て幸せだったんだから。
今がどうなっていても、これは受け入れるべき運命だ。
結局ヴェーノ家に向かって歩いている。
どんな顔で父や使用人たちに会えばいいのだろう。こんなときに密かに泊めてくれるような女友達はひとりもいない。
アンジェリンは十歳まであまり人と接することなく高原の家で育ったため、王都の学校になかなかなじめず、友人はいても親友と呼べるほど仲のいい友達はいなかった。お嬢様ばかりがいるような学校に通わせてもらっていても、自分は泥棒の娘だからみんなとは違う、といつも一歩ひいて生きてきたせいでもある。
アンジェリンの頭の中に、一瞬だけ同僚の侍女ココルテーゼの顔が浮かんだが、彼女の家の場所は知らないし、王太子殿下と旅に出ていた自分が、殿下に恋をしていたココルテーゼを頼るのは無神経すぎる。
どう考えてもヴェーノ家に頼るしかないのだ。頭を下げて今夜の宿だけお願いしよう。馬屋を宿として借りるだけでもいいから。
ロイエンニと住んでいた家の前に立ち、二階建ての白い壁の建物を見上げた。シドがフェールからの手紙を持ってこの家を訪ねてきた日のことは、色あせた思い出になり、ずっとずっと昔のことだったような気がした。
今日が何日なのかはわからない。フェールと王都を出てから何日が過ぎたのだろう。シドの家で数日置き、その後に行ったマニストゥの家、薬師の村、ささやき亭、そして牢獄での日々。日を追って思い起こせば、手紙を受け取った日から、少なくとも七十日か八十日ぐらい経っていると思う。いつの間にか季節は真冬になっていた。
玄関前に立ったものの、扉を叩くことをためらった。城通いに便利な町中の小さな屋敷。敷地は奥に細長く、馬車置き場になっていた中庭は、日当たりがよく、アンジェリンのお気に入りの場所だった。何年も暮らしたこの家には思い出が染みついている。
二階の窓の一室には明かりが灯っていた。ロイエンニが不在だったとしても、使用人のターニャはいるようだ。
何度か深呼吸し、勇気を出して玄関扉を叩いた。
「どちらさまですか?」
ターニャの声が聞こえる。
「どなたですか?」
中からもう一度声がする。
アンジェリンは出しかけた声を飲み込み、屋敷に背を向け、来た方向へ急ぎ足で歩き出していた。
──私、何を考えていたのかしら。ここに泊めてもらって、お父様からお金を借りるつもり? それはおかしいわ。その気になって体を売れば、私だってお金は作れるじゃない。自分のことは自分でどうにかしなきゃ。
何も言わない不気味な訪問者に警戒したターニャは、扉を開けずにロイエンニを呼んだ。
ロイエンニがそっと扉を開けると、そこには誰もいなかった。玄関から出て道を確認すると、大きな毛布を肩にかけた女性が、夕闇に追われるようによろめきながら歩いているのが遠目に見えた。
「あれはアンジェリンだ!」
「お嬢様、お嬢様ですか! 待ってください!」
ロイエンニとターニャは大急ぎで追いかけた。
「アンジェリン、待ちなさい」
すぐに追いつかれたアンジェリンは、ロイエンニに深く頭を下げた。
「お父様、申し訳ありませんでした。黙って出て行って、大変なご心配と迷惑をおかけしました。私は自分勝手で――」
アンジェリンの言葉は途中で途切れ、毛布がバサリと音を立てて後ろに落ちた。
アンジェリンはロイエンニに強く抱きしめられていた。
「おお……無事でよかった、釈放が決まったと連絡を受けたから城まで馬車で迎えに行ったのに、おまえはすでにどこかへ行ってしまった後だった。心配していた」
温かな抱擁。アンジェリンはこみあげる思いに声を揺らした。
「わ……私は……本当にお父様に迷惑をかけてばかりで……もうここにいてはいけないんです。私の実の両親だけでなく、私も悪人ですから」
ロイエンニは大きく首を横に振った。
「関係ない。誰が何と言おうとも、私はおまえの父親だ。とにかく寒いから、話は家の中でしよう。あの方と一緒にシャムアに行っていたと聞いた。シャムアはどんなところだった? 今夜はゆっくりと話しておくれ」
アンジェリンは、数歩下がってロイエンニの抱擁から抜け出し、再び腰を折って頭を下げた。
「私は黙って家を出て、お父様を裏切りました。もう娘ではいられません。こんなにやさしくされる価値なんかない女です。ただ、行くところがなくて……今夜だけ……馬屋でいいから宿を貸りようと思って、扉をたたいてしまったのですけど、冷静に考えたら、それも図々しいことでした」
持ち金をすべて盗られてしまった、とは言えなかった。
「どうして馬屋だ? おまえの部屋があるじゃないか」
「でも、私はお部屋を使わせてもらえるような、いい人間ではありません。厚かましくお父様を利用しようと思ってしまって。私はやっぱり泥棒の娘です。身も心も下品でどうしようもない人間だと自覚しました」
ロイエンニに並び立っていた使用人のターニャは、ほくろの多い顔をくしゃくしゃにして泣き声を上げた。
「お嬢様、そんなっぁぁ……お嬢様はそんなんじゃないですよ。本当ならばお嬢様は──」
「ターニャ!」
何か言いかけていたターニャの言葉は、ロイエンニに強くさえぎられた。
ロイエンニは手を伸ばすと、指先で、アンジェリンのかさつく頬を撫でた。
「娘が父親を利用するのは当たり前だ。それよりも、どこか悪いのか? ずいぶん痩せたな。牢ではろくなものを食べさせてもらっていなかったか。ターニャ、今夜から栄養がある物を作ってやってくれ」
ターニャは涙まみれになって、ずびずびと鼻をすすっている。
「はい、旦那様。今夜は栄養満点のスープを作ります。お嬢様は足がふらついておいでです。こんなにお痩せになって……髪も短くばさばさに切られて、なんて痛々しい。お城で長い間虐待されていたに違いありませんわ。おかわいそうに」
「私は虐待されていないわ。大丈夫よ」
「お嬢様、せっかくお戻りになったのですから、もうどこにも行かないでくださいませ。私の留守中に出て行かれたと聞いて、後悔の念に駆られておりました」
「ターニャ……ありがとう。でも私はここにいてはいけないのよ。私みたいな自分勝手な女とかかわっていたら、ターニャまで不幸になるわ」
「いいえ。私はお嬢様に遣えるためにヴェーノ家に置いてもらっているようなものです。それとも、お嬢様にはターニャはもう必要ないのですか? あんまりでございます。お嬢様が赤ちゃんのころからお仕えしておりますのに」
アンジェリンは、涙を流し続けるターニャに、にっこりと笑って見せた。
「ターニャがいらない、とかそういうことではないのよ。泣かないで。ターニャにも感謝しているの。ターニャは私の小さいころからずっとそばにいてくれたものね。今までありがとう」
「いけません、お嬢様。とにかく、家へ入ってくださいませ。お顔色もよくありませんわ。こんなに寒いのにお帽子も上着もなしだなんて。早く室内へまいりましょう。馬屋に泊まるなんて、とんでもないです」
「私はお嬢様じゃないわ。もうそんな呼び方しないでちょうだい」
「いいえ、お嬢様はどこまでもお嬢様でございます。すぐにお嬢様のお部屋も暖めますから」
ターニャはアンジェリンの腕をひっぱろうとしたが、アンジェリンがいきなりうめき声をあげたので、驚いて手を離した。
「お嬢様?」
「ちょっと肩に怪我をしてね、急に動かすと肩がびっくりしてしまうの。もう治っているから、気にしないで」
ロイエンニは険しい顔になった。「城で拷問されたのか?」
「いいえ、旅の途中で襲われて……だいぶ前の傷だから、もう大丈夫です」
「それはいけない。すぐに医術師を呼んで診てもらおう。傷の他にも体の具合が悪いところがありそうな青い顔色をしているじゃないか」
──お父様は、私がシャムアで怪我をして帰ってきたことも知らなかったの?
アンジェリンは、このやさしい父には何の情報も与えられていなかったのかと思うと、作った笑顔を保てなくなってしまった。想像以上に心配させていたに違いない。申し訳ない思いが再び突き上げてきた。こらえきれず唇がわなわなと震え、押さえていた泣き声が、ふぇっ、と飛び出してしまった。
「お父様、ごめんなさい。私、本当に、自分勝手で……ごめんなさい」
「アンジェリン。戻って来てくれてこれ以上うれしいことはない。また共に暮らそう。私たちは家族だからな」
「っ……お父様ありがとうございます……」
「さ、何も気にせずに、家に入ろう。おまえの部屋で温まればいい。おまえの部屋はそのままにしてある」
「お嬢様、旦那様もそう言っておられますわ。参りましょう」
「私……ごめんなさい……っ……本当に、みんなに心配かけてごめんなさい……」
アンジェリンは、しゃっくりあげながら、ロイエンニとターニャに挟まれて家に入った。
アンジェリンが帰宅してから数日後、王都エンテグアに集結していた私服の義勇兵たちが一斉に動き出した。新王がついにザンガクムへ出撃するらしい。アンジェリンは、新王を一目見ようと、ロイエンニと共に城門近くの群衆に紛れて待機していた。間もなく正門の上に新王がお出ましになるという。
やがて、人々が大きな歓声を上げた。
城門の上に、黒衣のマントの人物が出てきた。
アンジェリンは高まる胸の鼓動を感じながら、爪先立って人々の頭の間から、新王の姿を必死でとらえた。
──あの人だわ。普通に歩けるほど回復なさっている。よかった……。
城門の上に立ったフェールは、ラングレ王の肖像画を頭上に掲げた。
「勇敢なセヴォローンの民よ、私は王に即位したフェールだ。この国を汚し、先の王と宰相を卑怯なやり方で亡きものにし、我が弟ザースの暗殺までやってのけたザンガクムを許してはならない。卑怯者たちにセヴォローンの力をみせつけてやるのだ。武器を取って私に続け!」
城門下にいる兵士たちが一斉に「うおおー」と声を上げ、拳を天に向ける。辺りは狂気じみた歓声に包まれた。
フェールの姿はすぐに消え、すぐに城門が大きく開かれると、セヴォローン軍の正規兵たちがぞろぞろ出てきた。立派な投石器なども荷車で運ばれていく。
行列は長く続く。
やがて、アンジェリンは、進んでいく騎馬隊の中央にフェールの姿を見つけた。先ほど見た黒衣のマントに身を包み、銀色に輝く丸い兜をかぶっている。顔の上半分は兜で見えないが、間違いない、あのすっきりした顎の感じ、彼だ。
集まっている人々の興奮は頂点に達した。
「国王陛下ばんざい!」
「セヴォローンばんざい!」
アンジェリンは通り過ぎる行列を見ながら泣き笑いした。
──あんなに王太子をやめたいっておっしゃっていたのに、ちゃんと王様しておられるし、馬に乗れるほど回復なさって……。あの人はあるべき場所に戻られたのね。どうかご無事で。今回はあんなにたくさんの人が守ってくれているからきっと大丈夫。
ロイエンニがふいにアンジェリンの顔を覗き込み、アンジェリンは慌てて涙を指でこすってごまかした。
「気が済んだか? そろそろ戻ろう。暖かい陽射しのある昼間のうちに向こうへ着くように、すぐに出発するぞ。ターニャが仕度をして待っている」
「はい、お父様」
「大事な体だからな。いつまでも寒い外にいてはいけない」
アンジェリンはうつむき、やわらかく微笑むと、自分の下腹にそっと手を当てた。無自覚だったが、小さな命がここに息づいている。長く続いていた体調不良の原因はこれだったらしい。
アンジェリンはロイエンニに手を引かれて家に戻った。すでに馬車に荷物が積みこまれていた。
薬師になるための本や数種類の薬草も一緒に持っていく。
これからは、幼少期を過ごしたサイニッスラ高原の家で、薬師の勉強をしながら密かに子を産み育て、静かに暮らしていくのだ。いつか薬師認定試験に合格できたら、薬師の村のセシャのように、高原の広大な敷地で薬草を育てて売り、少しでも稼いで、優しい父の愛に報いたい。
フェールが兵を率いて王都を出たその日、アンジェリンも王都を去った。




