46.悲しみの鐘
エンテグアの王城の中にあるすべての鐘が、けたたましい程大きな音で鳴り響いた。いろいろな場所から、カーン、コーン、と鳴り渡る鐘の音はいくつも重なり、ただ事ではない異変を告げる。
牢獄内のアンジェリンは、激しく打たれる鐘の音に身震いし、身を起こした。
外がざわついている。耳をすませて人の声を拾う。
「おいっ、大変だ、殿下がお亡くなりになったらしい」
「へえぇぇ、どうして?」
「それが……」
アンジェリンは息を引き、牢の鉄扉に張り付き、扉を拳で叩いて、大声で人を呼ぼうと試みた。
「どなたかいらっしゃいませんか? お願いです、教えてください」
アンジェリンが騒いでも誰も来てくれない。城内は混乱していて牢番は誰もいないのだろうか。
しばらく呼び続けていると、やがて、番兵が駆け寄ってきた。
「うるさいやつめ。なにごとだ」
「すみません、殿下が亡くなられたと聞こえたのですが、本当ですか?」
「そうらしいが、事情は我々もはっきりとは聞いていない」
「殿下が身罷られたことは間違いないのですね?」
「今それで城内は大騒ぎだ。忙しいときにどうでもいい用事で呼びつけるな」
兵は去ろうとする。
アンジェリンは呼び止めた。
「お待ちください。私、死刑になることが決まっているんです。今すぐ私を処刑してくださいませんか? この場でいいですから、早く首をはねてください。どうか、お願いします。殿下の元へ行かせてください」
「刑の執行は我々の仕事ではない。執行人が来るまでおとなしく待て」
「誰が執行しても同じではありませんか。この通り、髪を切って斬首を待っているんですよ。死んでからも殿下にお仕えしたいんです」
涙声で処刑を懇願しても、兵は取り合ってくれず、足早に去って行った。
アンジェリンは冷たい石床によろよろと座り込んだ。
「あの人が逝ってしまった……ああ……」
牢獄の小さな天窓から差し込むわずかな光の下に身をさらし、祈りをささげた。
やがて、鐘の音は止んだが、城内のざわめきは小さな天窓からでもかすかに伝わってくる。やはり葬儀を執り行うらしい。
「あの人は助からなかった……あの傷で死んでしまった……」
自分を元気づけるための駄洒落を考える気にもならない。
駄洒落を捧げる相手はもういない。
「こんなの、いや」
捨てられた赤ん坊だった自分。それを大切に育ててくれたヴェーノ家。だけど、自分は捨て置かれた盗人の娘。ロイエンニ夫婦にかわいがられても、実の両親が犯した過ちを知ってからは、いつも心のどこかにある後ろめたい黒点は消えなかった。
──私は、お嬢様と呼ばれても、本当はお嬢様ではなかった……。
「ディン、あなたが私を救ってくれたのです。こんな私のことを必要だと、何度も言ってくださったじゃないですか。今もそう思ってくださるなら、私を一緒に……お願い」
たとえ引き離され、生涯会えなくても、彼が王女と幸せに生きていけるなら、自分もそれでいいと何度も言い聞かせつづけてきた。共にいたい気持ちは心の隅から追い出せないままでも。
でも、彼が逝ってしまうならば、共にゆきたい。
「私を迎えに来て……ディン、どこにいらっしゃるの?」
アンジェリンは冷たい石床に倒れ伏して大声で泣いた。
◇
フェールは夢を見ていた。
アンジェリンとどこかの知らない町を二人で歩いている。アンジェリンが笑いながら何か言い、手を離して走り出した。
『待て、こらっ、私を置いて行く気か』
アンジェリンが声を出して笑い、振り返った時、その首がコロンと落ちた。
『ひっ! アン!』
悲鳴をあげたフェールは、ハッと目を開けた。
夢だ。ここは自分の部屋。繋がれた手の先にいるのは、自分の母親である王妃マナリエナだった。彼女の小柄な体つきに上品な口元は、弟ザースとよく似ている。
「目覚めましたか。うなされていました。アン、という名を何度も呼んでいましたよ」
城の奥にある白花館にこもってばかりの母親がここにいることが珍しいとフェールは思った。母親らしく愛してもらった記憶はほとんどない。それでも、息子が死にそうになっていたらさすがに見舞いにくるのか、とぼんやりした頭の中で考えた。
「母上、夢を見ていました……アンジェリンが夢の中で死んでしまって……現実でも父上が彼女を殺してしまった」
マナリエナは小さな声で息子を慰めた。
「そなたの心の傷は大きかったことでしょう。そなたがアンジェリン・ヴェーノに特別の思いを抱いていたことは、みな知っていたこと。ですが、これは仕方がないことでした」
フェールは強い不快感を覚え、意識して周りの者まで射殺すような怖い目をして母親をにらみつけた。
「母上もそのようなお考えとは残念でございます。私の様子を見にお越しになったのならば、私はもう大丈夫ですから、ご退室願いたいです。大切な女性が罪を着せられて無残に殺されたのに、それを仕方がないと平然と口にできる母上のお顔など、拝見したくありません」
「フェール……」
「母上も父上と同じです。人の心はお持ちでない。私が今すぐにでも死にたいと願うほど心を痛めていることなど、たいしたことではないとお思いでしょう。好きでもない父上と結婚させられて、人を本気で愛したことがない母上には、伴侶を失った私のこの痛みは絶対にわかりはしないのだ」
マナリエナは驚きと悲しみが入り混じった顔をして、しばらくの間、何か言いたそうにフェールの顔をじっとみていた。
フェールは余計にいらだちを覚えた。
「その通りでしょう、母上? 父上のお部屋に隣にある王妃の部屋に、母上が何年も寄り付いていないことぐらい、私でも知っていますよ」
「……陛下とわたくしが離れてしまったのは、様々な事情があったのです。時が来たら、いつかそなたに話しましょう」
「そんなことには興味はありません。父上と母上が不仲なのは、それこそ、『みな知っていたこと』。夫婦なのに、どちらかが先に亡くなったとしても、残された方は涙すら出ないのでしょう? どうでもいい伴侶が死んだとしても問題ないわけで」
「何を言うのですか! 口が過ぎます。落ち着きなさい」
「ふっ、笑わせる。こんな状況で落ち着いてなどいられるわけがない。私はアンジェリンとシャムアで祝福式を受けました。賢い母上ならば、その儀式がどういう意味のものか、お分かりですよね?」
「……彼女と宗教上では正式な夫婦になった……と言うのですね? 彼女と結婚式を挙げたと」
「アンジェリンは私の正式な妻です。今は、私は愛する妻を失い、喪に服する時。アンジェリンの墓参りすら許されぬこの身が呪わしい。クレイア王女とどうしても結婚せよとおおせなら、式の場で結婚できないと大声で宣言して、父上に大恥をかかせてやってもいいと思っています。わかったら出て行ってください」
「フェール!」
「誰か、母上をお部屋までお送りしろ」
「待ちなさい、フェール……そなたは知らなければならないことが……っ」
マナリエナは突然声を上げて泣き始めた。フェールと同じ琥珀色の目から涙がぼろぼろ零れ落ちている。
「フェール……っ……話をきちんと聞きなさい」
急に泣きだした母親をフェールは驚いて見上げた。
マナリエナは肩を震わせて、鼻を真っ赤にして泣いている。母親が泣くのは初めて見る。
フェールは、少しきつく言いすぎたかと思い、とりあえずあやまった。
「このようなことになり、ご心配をおかけしたことは申し訳ありませんでした。でも私自身で決め、どうしてもやり遂げたかったことです。結果として私は最愛のアンジェリンを失い、怪我を負いましたが、国を守る作戦としては成功だったと信じています」
「それは陛下もお認めです。ですが――」
フェールは母親の言葉をさえぎった。
「私は父上に、アンジェリンの名誉回復を要求し続けます。母上もその件についてはご協力いただきたい。彼女は無実だ。私の作戦を成功させるために、彼女は精一杯尽くしてくれたのに、それを父上は」
「アンジェリンの裁判を見た感じでは、わたくしも、彼女が死に値するほど重い罪を犯したとは思えませんでした。そなたが彼女を強引に誘ったのでしょう? それよりも、今は……そなたはもっと残酷な現実を知る必要があります」
フェールは、よくやく、母親が見舞いに来ただけでなく、何か重大なことを言おうとしていることに気が付いた。
「もしかして、砦のことですか? とうとうシャムアと開戦しましたか」
「いいえ、シャムアはまだ沈黙しています。陛下はシャムアに、しばらくの間、砦問題のことを延期し、戦闘行為を行わないよう申し入れました。ザースのことで」
「ザースがどうかしたのですか」
マナリエナはかすれた声で告げた。
「ザースは……亡くなりました」
「えっ……?」
「あの子は……そなたの弟はもういないのですよ」
◇
セヴォローンの王城に衝撃が走った。
第二王子ザースが転落死。転落を防ごうとした侍従一名も同時に落ちて死亡。
この訃報はフェールの婚礼の経済効果に湧いていたセヴォローンを悲しみに落とした。
クレイアはザースの最期を知る者として、国王ラングレから直々の尋問を受けたが、しおらしく涙を流して演技した。ザース王子は毒蜘蛛に刺されてよろめき、転落を防ごうとした侍従も一緒に落ちてしまったのだと。
クレイアは、警務総官であるエフネート・ヘロンガルからも直接質問をいくつも受けたが、そもそもエフネートは影で手を結ぶ味方。クレイアの言い分はすべて疑われることなく済まされた。
重要証拠になる毒蜘蛛は、踏み潰された死骸となって残っており、ザースの体には、蜘蛛に噛まれたかのようなポツポツとした二つの小さな傷があったことから、クレイアの証言は正しいと認められた。
クレイアがザースを毒入りの指輪で刺し、毒でよろめいたところを、サラヤがバルコニーから放り出したことは、この二人以外誰も知らない。
毒蜘蛛を持ち込んだ者がいたのかどうかは、後日調査ということになったが、クレイアは自分が疑われることはないだろうと確信していた。各方面に顔が利くエフネートがこちらの仲間である以上、何の心配もいらない。おそらく、毒蜘蛛を運んだ犯人を仕立てあげるぐらいのことは、黙っていてもエフネートがやってくれる。
自分の部屋に戻ったクレイアは、思い通りの展開に、ふふっ、と満足の笑いを漏らした。
「うまくいきましたわよ。サラヤ、祝杯を用意してちょうだい。こんなにも簡単に事が運ぶなんてね。セヴォローンが地図から消えるのは時間の問題ですわよ」
あとは、もう少しだけ時を稼ぐだけ。父王キャムネイが、葬儀という名目の元に、大軍を率いてこの城に到着するまで。そのころにはシャムア国も動き出すはずだ。それまではラングレ王に取り入ればいい。
クレイアは笑いながら、薄い唇を酒で湿らせた。




