45.毒蜘蛛と仕込み指輪
アンジェリンは牢に囚われたまま、ずっと処刑を待っていた。
食事は日に二度。鉄扉の隙間から差し入れられる。
それ以外は誰も来ない。レクトもあれ以来姿を見せていない。
食事を運んでくる見知らぬ兵たちにフェールの容態を訪ねても、誰も教えてくれなかった。
小さな天窓から入るわずかな光を見上げては、愛する人の回復を祈る。
──あの人はきっとまだ生きておられるはず。意識が戻ったのかどうかはわからないけれど。
城の緊急時にはすべての鐘が打ち鳴らされる、と言われている鐘の音は、まだ聞こえてこない。だから、彼は生きている。
──あの人は、私が処刑されたと聞いたら、いったいどんな顔をなさるのかしら。
そんな報告を彼が涼しい顔で聞き流せる訳がない。
──あの人は私のために泣いてくれるわ。それでもいつかは……その悲しみも癒えて、私は思い出になる。
元気になった彼は、王女の手を取って、前を向いて歩いていくのだろう。
ついこの前まで肌を重ねていたことが遠い昔のことのよう。
「いつになったら処刑してくれるのかしら。ここは寒いから早く執行してほしいって言っているのに……」
フェールの意識はもう戻っていて、アンジェリンの処刑を止めてくれているのかもしれない、と考えたりもする。彼がこの独房へやってきて、救い出して、ぎゅっ、と抱きしめてくれるかも……。
「そんな都合のいい話、あるはずはないでしょう?」
すべては想像の中。何もわからない。
アンジェリンひとりきりの時間が静かに過ぎていく。
当のフェールは、アンジェリンの死を信じ、動けない体で自責の念に駆られ続けていた。
一方、クレイア王女は、故国からの指令を受け、セヴォローンを崩壊させる計画を実行に移すべく、サラヤを連れてザース王子の部屋へ向かっていた。面会の約束はすでに取り付けてある。
──今から、ザース様に死んでいただきましょう。
クレイアは、フェールの部屋へ行く時のように、女性としての自分を強調した衣装を選んだ。胸が大きく開き、谷間まで見える白いドレス。明るい色の長い髪はきちんと結い上げて首筋をしっかり出し、胸元に視線を集めるため大きめの金の首飾りも付けた。そして、毒を仕込んである指輪も注意深く装着する。
クレイアは、歩きながら、暗殺の手順を頭の中で何度も繰り返した。サラヤと練った作戦だ。失敗はできない。
──わたくし、ザンガクムのために、必ず成し遂げてみせますわ。セヴォローンを地図から消して、ここはすべて我が国の物に。
クレイアは、ドレスの前ポケットに浅く手を入れ、感触を確認した。そこには、先日密かに届けられた毒蜘蛛の死骸が入っている。サラヤは、毒茶の用意を持ってクレイアの後ろに続く。
毒蜘蛛の死骸、仕込み指輪、毒茶。第二王子を殺す準備は整った。
クレイアはザース王子の部屋に問題なく通された。
ザースは、これから殺されるとも知らず、愛想よくほほ笑んでクレイアを迎えてくれた。この弟王子は完全に母親似で小柄。どちらかと言うと中性っぽい顔立ちであり、琥珀色の目と、明るい髪色以外はフェールと似たところはない。
「クレイア様、お出ましありがとうございます。何かお話があるそうですね。どうぞ、おかけください」
クレイアはソファを勧められたが、座りはしなかった。ここでゆったり腰かけていてはこの王子に近づきにくく、殺しにくい。
「ザース様、人ばらいをお願いしてよろしいかしら? 大事なお話がありますのよ。できればバルコニーでお話したいのです。サラヤはお茶の用意をしなさい。ザンガクムの名品の紅茶を持ってまいりましたの」
「外がよろしいのですか? 少々お待ちください」
ザースは控えていた侍従の一人に近寄ると、何か耳打ちした。「大至急頼む」という部分だけはクレイアまで聞こえたが後は聞き取れなかった。侍従は頭を下げて姿を消した。
「クレイア様、バルコニーは寒いです。もう冬ですよ?」
「かまいませんわ。わたくし、ザース様と二人きりで月が見たくて」
「……わかりました」
クレイアは強引にザースをバルコニーへ連れ出した。
夕食後で、外はすでに暗く、下の庭園には、巡回する警備兵が持つ灯りがゆっくりと動いているのが遠目に見える。ここは四階であり、初冬の夜風の当たりも強い。
冷たい夜風に、ザースは首をすくめた。
「クレイア様、やはりかなり寒いから室内の方が」
「いいえ。わたくし、寒くてもかまいません。今日はどうしてもザース様とこうしてお話がしたくて」
クレイアはザースの腕に自分の腕をからめ、広いバルコニーの端まで歩いて行った。
「あらあ、残念ですわ。月は見えませんわね。月を見ながらお話なんて素敵だと思っておりましたのに」
「これでは寒くてお話どころではありません。月もないことですから、さっさと中へ入った方がよろしいでしょう」
「急がせないでくださいませ。せっかく二人きりなれたのですから」
クレイアはザースの腕に胸を押し付けるように身を密着させ、ザースに悟られないように気をつけながら、指先で毒の指輪の準備をした。
「クレイア様、月見ならば、もっと暖かい日にいたしましょう。お部屋に入ってご用件をうかがいます」
「いいえ、もう少しだけ、こうしていたいのです。わたくし……ザース様のことをお慕いしております。フェール様とではなく、ザース様と結婚したいのです。それが今日の大事なお話ですわ」
「クレイア様……」
ザースは戸惑いを隠せない声を出した。
――ふふふ。思った通り、この王子、今は隙だらけ。指輪の毒針を刺し、蜘蛛の死体を足元に投げれば、彼は蜘蛛に刺されたと思い込むわ。
クレイアがサラヤに調べさせた限り、この十八歳の第二王子は、確かに評判通り頭がよく、どんな分野にも長けている逸材だとわかった。しかし、女性とのうわさは一切出てこなかった。
──ザース様はわたくしにくっつかれてあせっておられるわ。頭がどんなに良くても、女性との経験はなさそう。それならば、そういう方向から攻めれば簡単。毒茶の用意は必要ないかもしれませんわね。今、ここで仕込み指輪を……。
クレイアがまさに、指輪に組み込まれた毒針を出そうとした瞬間、ザースはすっと身を引き、絡んでいたクレイアの腕を簡単に切り離してしまった。
「クレイア様、正気でいらっしゃいますか? 私はあなた様の国に行くことが決まっている身。このように身を寄せ合うなど、互いを滅ぼしかねない危険な行為はよしましょう。誰が見ているともしれません。お話はそれだけですね? 私からも話があります。話は中で」
ザースはクレイアの思惑など知らぬようで、背を向けて室内に入ろうとする。クレイアは必死で腕をつかみ、泣き声で引き留めた。
「ザース様、お待ちください。今、我が国の紅茶が入りますから、せめて、それをここで二人だけで飲むことをお許しくださいませ。これからは二人きりになりたいとは絶対に申しませんわ。わたくし、本当にザース様のことを……もうこうして会えないなら今お茶を飲むだけ、お願いします。そんなことすらわたくしたちは許されないのでございますか?」
「……わかりました。そこまでおっしゃるなら……ただし、寒いから、お茶を飲んだらすぐ中へ入りましょう」
広いバルコニーには石のテーブルと椅子が置いてあり、ザースはしぶしぶクレイアと向かい合って冷たい石に浅く腰かけた。そこへサラヤが、茶を淹れたティーカップを盆に乗せて運んできた。
「どうぞ、お飲みになって。我が国の自慢のお茶ですの」
ザースは勧められたお茶のカップを持ち上げたが、口をつけることなく皿に戻した。
「せっかくご用意していただいたのに申し訳ありませんが、私はこういうお茶の香りは好みではありません」
「あら、残念ですわ。それは失礼しました。せっかく二人きりのお茶会ですのに」
クレイアは、ザースが毒茶を飲まないとわかると、自分の分のカップもすぐにサラヤに下げさせた。その様子をザースは静かに見ていたが、サラヤの姿が見えなくなると即座に口を開いた。
「クレイア様、はっきり申し上げますが、今の侍女に何を探らせておいでですか。彼女が城内でこそこそと何かをしていることは気になっておりました」
ザースの鋭い目に、クレイアはかわいく見える笑い顔をして見せた。
「わたくしはこのお城のことがまだまだわからないので、サラヤに頼んで情報を集めさせて、いろいろと勉強しているところですのよ。わたくしがザンガクムから連れてきたのはあの子しかおりませんもの。婚家に連れて行く侍女はひとりだけの決まりを守っておりますので、仕方のないことですけれど、ここは、わたくしにとっては、わからないことだらけの外国。情報を得るにはあの子を使うしかありませんわ」
ザースは「っ」と声のない笑いを出した。
「侍女の不可解な行動は見逃すとしても、もうひとつお訊ねしなければならないことがあります。このところ、最近、毎日のように廃貴族の奥方ばかり部屋に招いて、どういうお話をなさっておられるのですか?」
「よく御存じでいらっしゃるのね。たまたま知り合いになってくださったご婦人方からのお誘いで、このお城の行事や礼儀などを教わっておりますのよ。みなさん、親切な方ばかりで助かりますわ」
「そうですか。この城の作法などについて勉強するおつもりならば、きちんとした階級のある者とお付き合いするべきです。廃貴族は、貴族の血を持っているとはいえ、身分としては平民と同様。間もなく王太子妃になられるお方が平民ばかりひいきにしておられては貴族たちがよく思わないことでしょう。平民がすり寄って来てもほどほどにあしらうこと。貴族を差し置き、廃貴族だけを招いてのお茶会など、貴族への侮辱にもなります。この国ではそれはとんでもない無礼行為だとご認識いただきたい」
クレイアは大げさに驚いた顔を作った。
「廃貴族が平民と同様なのですか……それは存じませんでしたわ。祝賀会などがあれば廃貴族も出席することがあると聞いておりましたので、普通の貴族と同じと考えていました。これからは気を付けますわ」
クレイアは心の中で舌打ちした。ザースの鋭い指摘に落ち着いた物言いは、三つ下の少年を相手にしている気がしない。
――この王子、うわさ通り、かなりの切れ者ね。サラヤが探りを入れていたことも、わたくしが廃貴族を味方にしようと必死になって努力していることも知っているなんて。この王子は情報網を持っているのかしら? でも情報網があろうとなかろうと関係ないわ。必ず今夜ここで仕留めてやるのよ。
クレイアは、指輪とポケットの中の毒蜘蛛の死体の感触を確かめながら次の話題を探した。
対峙するザースの顔からは、社交的な微笑はすっかり消え去り、冷え冷えとする目でクレイアの顔を凝視していた。
「クレイア様、もうひとつ、お答えいただきましょうか。どうしてこの私を殺しそうとしておられるのです?」
さらっと言われ、クレイアは顔をひきつらせた。
「えっ、ザース様、そんなっ!」
「今のお茶に何か入れましたよね? あの香り、あれは私でも知っている毒の香りだ。私も一応王族の端くれ。暗殺に備え、いろいろな毒をかぎ分ける訓練を受けておりますから、あの香りぐらい存じておりますよ。あなた様の目的は、ザンガクムのために私を暗殺することですか? それともこの国の誰かから個人的に暗殺依頼がありましたか? 今、この部屋の外には、あなたの息がかかった廃貴族の手の者が溢れているのですか? あなたが滞りなく私を殺すことができるよう見張っているのでは?」
「な、なんてひどいことをおっしゃすのですか。それは誤解です。扉の外に廃棄族なんて、いません! それに、あのお茶は体を温める効果がございまして、特殊な香りがするのです。毒ではありませんわ」
「二つのカップの中身の色が微妙に違っていました。ここは暗いから私が見落とすとでもお思いでしたか?」
クレイアは大きく目を開き、精一杯の驚き顔を作って見せた。
「カップの中身の色が違ったですって! そんなこと、気が付きませんでした。偶然、お茶の淹れ方が均一ではなく、カップによって色が多少違っていただけではないのでしょうか。サラヤは経験が浅くて、お茶の煎れ方が下手で……申し訳ありませんでした」
「見苦しい言い訳はおよしください。暖かな部屋が用意されているのに、このような寒く暗い場所でお茶を飲みたいと仰せになること自体、おかしいのですよ」
「寒い外の方があのお茶の効果が実感できるのです。ザース様はどうしてもわたくしを暗殺者に仕立てたいのですか?」
クレイアは得意の泣きそうに見える自称かわいい顔を作ったが、ザースは全く表情を崩すことはなかった。
「クレイア様がお茶の毒の香をご存じなかったのなら、あなた様の侍女が私の方のカップにだけ何か仕込んだ、ということになりますね。では、あの侍女、サラヤという名でしたか、彼女を私の暗殺容疑で捕まえてもよろしいですね? 私の話は以上です」
ザースは立ち上がった。
クレイアも慌てたふりをして立ち上がる。
「ザース様、お待ちください。全部誤解です。サラヤを連れていかれたら、わたくしは──」
「あなた様には別の侍女をお付けします。あの侍女はこちらにお渡しいただきます。あなた様が最近なさっていることは父に報告済みです。兄の怪我と砦問題でこの城内が緊迫していることは承知しておられるでしょう。よけいなことで私や父をわずらわせるようなことはおやめください。これ以上、おかしな動きをこの城内でお続けになるのでしたら、今すぐにでもお国にお帰りいただきますよ」
ザースはきつく言い放った。クレイアは引き下がらず作り笑いでザースににじり寄った。
「わたくし、そんなつもりでは……ザース様を好きになってしまっただけなのです」
「そのような言葉で取り繕っても無駄ですよ。今後は、誤解を招くような行為は今後一切しないでください。この私の部屋に来て二人きりになろうとすることも」
「申し訳ありませんでした」
クレイアは形だけ謝罪したが、これではザースに近寄ることができない。ならば、次の手段に移る。
「あっ、ザース様! 大変です、大きな蜘蛛が御肩に乗っています」
クレイアは大げさに、怖がる顔をした。
ザースはちらっと自分の肩を見たが、蜘蛛など最初からいない。
ザースは嫌味の入った声で返した。
「何もいませんよ。そんなことで私の気を惹くおつもりですか」
「いいえ、ほら、そこに。今、お背中に移動しましたわ。危険です。サラヤ!」
クレイアは大声で侍女を呼んだ。
控えていたサラヤが駆け寄ってくる。
「サラヤ、毒蜘蛛がザース様の肩のところにいるわ。すぐに払い落としなさい」
サラヤがザースに近づく。ザースは警戒して軽く身構えている。
「サラヤ!」
クレイアの声に、ザースの正面に出たサラヤは、いきなり自分の服の腰のあたりに手をかけ、一気にまくり上げると生の胸をザースに向けてさらけ出した。まだ男を知らない小さく幼い胸が、ザースの顔の前で丸出しになる。
「なっ!」
さらけ出された少女の胸。予想外のサラヤの行動に、ザースが驚いた隙に、クレイアは、ザースの背後へすばやく周り込み、ザースの肩辺りに思いきり毒指輪の針を突き刺した。
「うっ!」
ザースは顔をしかめ、刺された場所を押さえた。
クレイアは彼の背をポンとはたき、用意してあった蜘蛛の死骸を落として踏み潰した。
「ほら、ザース様……蜘蛛は払い落としましたわよ」
毒針を刺すことに成功したクレイアはあでやかな勝利の微笑を浮かべた。
──わたくしの勝ちですわよ!
ザースはよろめき、テーブルに両手をついて体を支えた。全身が震えて、彼はその場で嘔吐した。
「ぐっ……クレイア様……蜘蛛ではなくて、あなたが毒針を私に……くっ、誰か……誰かおらぬか」
「殿下っ!」
男性が室内から飛び出してきた。先ほどザースから何か耳打ちされていた侍従だった。
侍従は倒れ掛かるザースの体を支え、室内へ連れて行こうとしたが、行く手にサラヤとクレイアが立ちはだかった。
侍従はクレイアをにらみつけた。
「クレイア様、道を開けてください。今、殿下に何をなさいましたか。自分は見ておりましたぞ。殿下は警戒なさっておられましたからな、何かされるのではないかと」
「……報告せよ。兵を呼べ……王女が私に毒針を」
ザースは声まで震えている。
まっすぐ歩けず侍従の肩にもたれかかっているザースに、クレイアはにっこりとほほ笑んだ。
「サラヤ!」
クレイアの命令は一瞬で実行された。サラヤは、簡単に侍従の手からザースの体を奪い取り、ザースを手すりの向こうへ放り出した。ここは四階のバルコニー。
鈍い音が闇に響いた。侍従はひきつった顔で大声をあげ、下を覗きこんだ。
「あぁぁぁ! 殿下ー!」
そう叫んだ侍従の体も後ろから突き飛ばされ、ザースの後を追って宙を舞った。
落下の音を確認したクレイアは、大声で叫んだ。
「きゃあああ! 大変です! ザース様がー! ザース王子様が転落なさいました。誰か!」




