43.面会人
フェールの意識が戻り、アンジェリンの死が彼に伝えられた後でも、アンジェリンは実際にはまだ生きており、城内の半地下の牢に囚われたままだった。
アンジェリンに思いを寄せていた警備兵のレクト・セシュマクは、アンジェリンとの面会を望んだが、正規の方法では面会は叶わず、裏から手を回して、アンジェリンの独房の鍵を借りることができた。
レクトは、アンジェリンの裁判が終わった日の翌朝、鍵を手に、アンジェリンの牢へ急ぎ足で向かった。
「アンジェ」
久しぶりに聞いたレクトの声に、アンジェリンは目を開けゆっくりと半身を起こしたが、寒くて体がだるく、寝台から出る気にはならなかった。毛布にくるまったまま、寝台上に座り込んだ状態で元同期の友人を迎えた。
「レクト……鍵をもらって来たの? よく来られたわね。面会人なんて、ここへ来てから初めてよ」
「俺が初めて? 誰も来ないなんてひどいじゃないか、アンジェ、その髪……!」
レクトはアンジェリンの髪を見て絶句した。
「さっぱりしたでしょう? 斬首予定だからばっさりと切ってもらったの。どうやってここの鍵を手に入れたの?」
「ココルテーゼが警務総官様に口利きしてくれたんだ」
「エフネート・ヘロンガル様に口利き? ああ……すっかり忘れていたけど、ココちゃんってエフネート様の姪だったわね」
アンジェリンは、ココルテーゼがずっと前に話していたことを思い出した。小柄でも胸が大きくて、ふわふわした茶金色の髪、そして愛らしい顔立ちをした同僚の侍女ココルテーゼ。彼女の父親はヘロンガル家の庶子……エフネートの腹違いの兄だと聞いたことがあった。
ココルテーゼの父親が名門ヘロンガル家のこぼれ種であることは多くの人が知る事実だった。その父親を生んだ母の身分が低かったため、ココルテーゼの父親は、今でも本家から認められていない。ゆえに、ココルテーゼの家は、ヘロンガル家とは無関係の廃貴族としての位置付けだった。ココルテーゼは、本当ならヘロンガル家を継ぐのは自分の父親のはずだったといつも悔しがっており、だからこそよけいに身分にこだわって家のためにも王太子妃になりたがっていた。彼女は本当ならば、シドともいとこ同士ではあるが、そういう家の事情で親戚付き合いもなく、血のつながりを認め合った関係でもない。
「あのエフネート様でもココちゃんの言うことは聞くのね」
アンジェリンはエフネートの青く冷たい目を思い浮かべていた。アンジェリンをさげすみ、汚物を見るように扱い、不快感を丸出しにしていたエフネート。あの警務総官は、ココルテーゼにはあんな顔をしないらしい。
「俺も無理だと思ったけど、頼んでみるものだな。彼女、ちゃんと鍵を預かってきたから俺も驚いたよ。ココルテーゼだって、君を助けたいんだ。がんばってくれたんだと思う」
「そう……でも、ココちゃん、私が王太子殿下を誘惑した罪で囚われていると知って怒っていたでしょう? あの子ね、王太子殿下のこと、すごく好きだったの。私、彼女の気持ちを知っていたのに……ココちゃんに申し訳ないことをしてしまった」
「怒っていたなら、鍵なんか借りる訳がないよ。彼女は今日もいつも通り元気に自分のことばかりよくしゃべっていたから、全然不機嫌な感じはしなかった。それよりも、アンジェ、すごく具合が悪そうじゃないか。すぐに薬師か医術師を呼んでもらうよう手配してやる。囚人でも手当てを受ける権利はあるから」
「気持ちはうれしいけれど必要ないわ。私はもうすぐ処刑されるから、薬も治療もいらない。もったいないもの。早く処刑してほしいって首切りをやってくれる人に言っておいてくれる? 死ぬことは怖くないけど、ここはとても寒いから、待ち続けるのが辛いの。こんな格好でごめんなさい、ここから立てないほど寒くってね」
「暖炉もないのか? 毛布もそれ一枚だけ?」
レクトは牢内を見回したが、暖炉はなく、ガラス戸も入っていない天窓からは風が吹きこんでいた。
「俺が後で毛布も差し入れてやる。それよりも大事な話があってここへ来た。俺さ、ごめん、実は、アンジェからの手紙、届いていたんだけど、一緒に入っていた王太子殿下からの手紙を誰にも渡さずにそのまま放置していた。俺はアンジェを連れて逃げた王太子殿下が許せなくて……どうしても手紙を読む気にならなくて……。三通届いたけど、一通だけ残して後は全部燃やしてしまったよ。殿下が君と出国してしまったこと、俺は君の手紙で知っても、ずっと誰にも言えなかった」
「いいのよ、私の方こそ、ごめんなさい。私が変な手紙を送ったから迷惑だったわね。あの時は確実に受け取ってくれる人を思いつかなかったの。勝手だけどその件は忘れていいわ」
「裁判で手紙の話が出ていて、俺、あの手紙のことを思い出して、昨夜やっと開封してみた。そしたら内容がさ……中身が国王陛下宛てとは知らなかったんだ。あれを君の裁判の前に先に陛下に見せていたらって思ったら、俺、いてもたってもいられなくなった。君が王太子殿下を誘拐って、違うだろ!」
「そのことはもういいから」
「それにしても、あのマニストゥって証人、とんでもないやつだな。あんなやつの嘘の証言のために君が悪く思われて処刑されることなんてない。俺が王太子殿下からの手紙を陛下に渡して、無罪を証明してやる」
「ありがとう、レクト。でもこれでよかったのよ。私は王太子殿下と無断で国外へ出かけ、怪我を負わせた。それだけで死に値する罪。マニストゥがいてもいなくても結果は同じだったはず。心残りは父のことだけ。私の父、ロイエンニ・ヴェーノはもう解放されたかしら」
「ロイエンニさんなら今朝、城門を出て行くのを見たよ」
「よかった……国王陛下が約束を守ってくださったのね。これで安心して死ねる。後は王太子殿下が回復なさればいい。殿下は大怪我を負われたけれど、最悪のことにはなっていないでしょう? 非常時に鳴る鐘の音が聞こえてこないから、殿下はまだ生きておられるわよね?」
「王太子殿下のご容態については俺にはわからない。殿下のことは公式には病ということになっていて、俺たちは普通にお部屋の扉を守ってはいたけど、部屋の外へは全然出ていらっしゃらない。裁判を見ていてやっと状況がはっきりわかったよ。殿下はシャムアでお怪我をなさったんだね?」
「ええ、とても深いお怪我なの。私のせいで、あんな……」
アンジェリンは押さえていた感情が急にこみ上げ、涙をこらえきれなくなった。
別れた日のフェールの姿が、いやでも思い出される。
目に焼き付いている大きな傷跡。
大量に流れ出た彼の血。赤く、そしてそれが徐々に固まって黒く。
真っ青な顔で意識は全く戻らず。
さよならの言葉すら届くこともなく。
ぽろ、ぽろ、とアンジェリンの頬を伝わる涙に、レクトは驚き、アンジェリンを慰めるようにしゃがみ込むと、彼女の冷たすぎる両手を、自分の両手で包み込んだ。
「アンジェ! 泣くなんて君らしくない。俺の知っているアンジェは、駄洒落好きで、いつも明るく笑っている。何か洒落を言おうか。そうだな、この【牢】には【ろうそく】しかない」
アンジェリンはレクトの手を、ゆっくりと、ひきはがすように離した。
「私の手、冷たいでしょう? ごめんなさい。私、駄洒落屋は店じまいしたの。ちょっと疲れてしまって」
「どうしたんだよ。辛い状況だけど、生きることをあきらめないでくれ。すぐに医者の手配をして毛布を差し入れる。俺、今日は非番だから、それぐらいならできるから。いいか、絶対にあきらめるな。俺が裁判のやり直しを申請してやる。他に俺に何かできることはないか?」
「ありがとう。じゃあ、一つだけ、お願い」
「俺にできることならなんでもするよ」
「父、ロイエンニ・ヴェーノに、私の遺体と遺品を引き取らないでって、伝えてくれる?」
「なんてことを言うんだ!」
「そしたら、この体は処刑された後、無縁墓地へ埋葬されて、ヴェーノ家は犯罪者とは無縁になると思うの。それから、父には娘にしてくれて感謝していたってことも言ってね。私の実の両親がヴェーノ家に迷惑をかけてしまったようだけど、それでも私を愛して育ててくれて、私は幸せだったって。こんな形で恩をあだで返して家名に泥を塗ってしまって申し訳なく思っているって。全部伝えて。それが私からの最期のお願い」
「アンジェを死なせはしない。王太子殿下が今すぐにでもお目覚めになれば処刑は回避できると思うけど、それを待ってはいられないから、今日中に国王陛下に裁判のやり直しをお願いしてみる。国王陛下の警備兵と代わってもらうように頼んで陛下に近づいて直訴──」
「やめて!」
アンジェリンは自分でもきつい言い方だと思った。それでも今はっきりと言わなければ、レクトによけいに気を持たせて迷惑をかけてしまう。
「何をしても無駄なのよ。私は王太子殿下のことだけでなく、シャムアの密偵の疑いをかけられている。真実は違うけれど、私は国王陛下の決定に従うわ。レクトの好意を利用して踏みにじるようなことばかりしてごめんなさい。もう行って。長く話していたら、あなたまで密偵の仲間にされてしまう」
「かまうものか。俺はいつでも君の仲間でいたい」
「だめ。私と関係していると思われたらあなただけでなくあなたの周囲の人まで迷惑がかかるわ。お願いだからすぐに出て行って」
「俺は君が無実の罪で死ぬことなんか認めないからな。ロイエンニさんだって同じ思いのはずさ。俺は絶対に君を無罪にしてここから出してやる。裁判後、十日以内に事件に関する新しい証拠が出れば、裁判のやり直しが申請できると思う」
「それは普通の裁判の場合でしょう? 王族が絡む秘密裁判の場合はそうではないと思うの。もう戦争が始まるから王族の関係者の皆様もお忙しくて、こんな女のためにまた集まってやり直し裁判なんてやっている場合じゃないわ。処刑でも、私、後悔していない。王太子殿下には感謝しているの。レクト、本当にありがとう、さようなら。最期に会えてうれしかったわ。ココちゃんにもよろしく」
アンジェリンは横になって毛布をかぶって顔を隠した。これ以上彼を煩わせるようなことはしたくない。
「アンジェ……俺が助けてみせる。待ってろよ」
アンジェリンは、レクトが鼻をすすりながら独房を出る音を背中で聞いていた。
その日のうちに、アンジェリンの元に、レクトの約束通り、暖かな上質の毛布が数枚差し入れられた。知らない医術師がこの独房まで入って来て、肩の傷の手当てをしてくれた。
アンジェリンはもらった毛布に身を包み、重い胸で息を吐いた。
「暖かい……レクト、ありがとう……」
レクトには本当に悪いことをしてしまった。利用するだけして、彼の愛情には何一つ返していない。シャムアからの出した手紙を彼宛てにしたのは間違っていた。冷静に考えれば、フェールはレクトの恋敵だった。レクトの気持ちを逆なでするような無神経なことをやったことは間違いない。
――私、最低の女だった。いやしいだけでなく、厚かましい女。処刑されて当然。
誠実でやさしいレクトが、前から自分に対して抱いている深い気持ちも薄々知っていた。彼のことを特別に嫌っている、というわけでもない。それでも彼を選ぶことはできなかった。
自分は盗人の娘だから、普通の恋などしてはいけないと思っていたのに、いつのまにか心に入り込んできたのは、琥珀色の瞳を持つ高貴な人。驚くほど強引な面があるのに、時に子供のようになり、傍にいて慰めて支えてあげたくなる。何度も何度も自分が必要だと言っては強く抱きしめてくれる腕。幸せすぎるひとときをくれた王太子殿下。
祝福式のときの、真摯なフェールの瞳を思い出すだけで、死への恐怖も、傷の痛みも、なにもかもが吹き消されてしまう気がした。
フェールの誓いの言葉が胸によみがえるだけで、熱い感情が全身を駆け巡る。
『私はアンジェリンを生涯の伴侶とし、この身が朽ちるその日まで、常にそばにあり、全力で守り、愛し、慈しむことを固く誓う』
――私もずっとディンのそばにいたかった。人生最期の日を迎えるまで。
それはかなわぬことだとわかっていても。
毛布の中でつぶやく。
「レクト、あのね、私ね……シャムアでは王太子殿下の妻だったの。だから、私は生きている限り、そしてこの命が尽きた後も、あの人を愛し続ける。もう他の誰も愛せない。ごめんなさい、ごめんなさいレクト……こんなに私のためにしてくれているのに」
愛することができるのはひとりだけ。
本当はレクトに、シャムアで得た祝福の札を自分の墓に入れてほしいと頼みたかったが、さすがにそれは言えなかった。
牢獄の天窓から入ってくるごくわずかな光に向かって、アンジェリンはフェールのために祈りを捧げた。




