42.慟哭
フェールが意識を取り戻したのは、アンジェリンの裁判が終わった日から二日後の深夜だった。
目を開いたフェールは腹部の激痛に顔をしかめた。息ができないほど痛い。
「っ……」
すぐ横にいた人物が喜びの声を上げた。
「王太子殿下がお目覚めになられましたわ!」
フェールはゆっくりと首を周し、周囲を確認した。部屋の隅の燭台が灯されているが、日除け布越しに見える窓の外は、黒く、今は深夜らしい。
ここは見覚えのある自分の寝室。声を上げたのは、よく知っている丸い顔、侍女長のマリラだった。
「侍女長……か。私は城に無事に戻れたのか……」
「すぐに陛下の元へ連絡させます」
歓喜の声を上げたマリラは、急ぎ足で戸口へ向かった。
マリラと場所を入れ替えた医術師のテイジンがフェールの脈をとった。
「殿下、お加減はいかがでございますか。私のことがわかりますかな?」
「テイジン……」
「意識ははっきりなさっておられる。これは喜ばしき回復の兆し。すぐに痛み止めの薬湯をご用意いたします。お目覚めのうちに、できるだけ水分をお取りください。軽い脱水症状を起こしておられますゆえ」
フェールは目を細めた。見える範囲にいるのは、テイジンと、今、連絡の手配を終えて戻ってきたマリラだけだった。大切な女性の姿はない。
カラカラに乾いた口が薬湯で潤うと、生きている実感がわいてきた。
「アンを……アンジェリン・ヴェーノをここへ。今すぐに連れて来い」
フェールは自分の声のかぼそさに苦笑いしたくなった。腹に力が入らず、カスカスの小さな声しか出ない。
あわれな声で命令したフェールに、マリラは軽く頭を下げた。
「申し訳ございません。アンジェリンが殿下と共に帰還したことはわたくしも存じておりますが、その後のことは……」
「彼女は私と共に戻ってきたことは間違いないのだな? よかった……」
アンジェリンをイガナンツ村の宿に置き去りにしてしまったことは、常に頭の中に居座っていた。
「アンジェリンのことは、後ほど陛下にお尋ねくださいませ」
「わかった……彼女と城を出たのは遠い昔のような気がする。私は何日眠っていたのだ。川中の砦はどうなったのか」
「期日まであと七日、今のところ、まだ戦争にはなっておりません」
「まだ期日内……どうにか間に合ったか。くぅ……しかし、これでは動けぬ。なさけないことだ」
テイジンが傷の状態について説明してくれているが、熱で頭が回らず、聞き流した。
「殿下は多くの血を失っておられる。傷が原因と思われる発熱も認められます。当分は安静にお過ごしくださいませ。まだ命の危機が去ったわけではございません」
「死にかけていることぐらい、自分でもわかる。アンジェリンを今すぐ呼べないならば、侍従長を呼んでくれ。私は彼に申し伝えることがある」
フェールは、アンジェリンを勝手に連れ出したことを、ロイエンニに詫びるつもりだったが、ほどなくして入室してきた男は、フェールが思っていた人物ではなかった。
フェールは眉を寄せた。
「私は侍従長を呼べと言ったのだぞ。ロイエンニ・ヴェーノに用がある」
「恐れながら殿下、現在の侍従長はわたくし、リモン・アキアークでございます。ロイエンニ・ヴェーノは城での勤めを辞退いたしました」
「……それは知らなかった。では、そなたは別の者を呼びに行ってもらおう。今から、シド・ヘロンガルかその従者のゾンデを呼んできてくれ。大至急ですぐにここへ来るように伝えろ。シドは王都にいない可能性が大きいが、ゾンデならいるかもしれぬ」
新しい侍従長は深夜でもすぐに動いてくれたが、しばらく時間をおいて戻ってくると、残念そうに頭を下げた。二人ともヘロンガル家の本宅どころか、王都エンテグア内にはおらず、連絡が取れない状態にあるという。
フェールは痛みを抱えながら大きなため息をついた。ここに今自分がいるということは、ゾンデは裏切ることなく誠実に行動してくれたのだろう。
──ゾンデの行動を見る限り、シドは信用できる。ならば、エフネート叔父上はどうなのだろうか……叔父上はマニストゥとどこまでつながっているのか……
体が熱っぽく、考えがまとまらない。
やがて、フェールの意識回復の知らせを受けた父王ラングレが、部屋へ入って来た。
夜着に上衣を羽織った姿で現れたラングレは、フェールの寝台に駆け寄り、息子の顔をのぞいた。
「フェール! ようやく目覚めたか。どれだけ心配させれば気が済むのだ」
「……怪我をして申し訳ありませんでした」
叱られると思っていたフェールは、ニコニコしている王に驚いた。
フェールに対しては、いつも怖い顔しか見せたことがない父王は、異様なほど上機嫌。
──父上は政略結婚の道具が生きていたからうれしいわけか。
「そなた、シャムアにてすばらしい功績をあげたそうだな。その報告は届いておるぞ。安心するがよい、ゾンデ他二名の兵は全員帰還し、シャムア軍の情報を多数入手できた。シャムア軍が砦決戦に使うはずの船団を失ったことは間違いない。期日を迎えても、何もして来ないかもしれぬ」
「お喜びいただき光栄でございます。それでこそ、シャムアまで行ったかいがありました」
フェールは少しの間目を閉じた。天井がゆがんで見え、気分が悪い。
「苦しいか?」
「目が回っていて……目を閉じたままで失礼します」
一歩下がっていたテイジンが口をはさんだ。
「陛下、薬の副作用だと思われます。強い痛み止めを使っておりますので、頭痛、眩暈、幻覚などの症状が出ます」
「では長くは話さぬほうがよいな」
「父上、ご心配はいりません。会話はできます。私の功績を認めてくださるならば、お願いがございます。今回の協力者、アンジェリン・ヴェーノを私の妃に迎えたいのです。彼女は危険な旅に同行し、私の危機を救ってくれたことも――」
ラングレは途中でさえぎった。
「それはならぬ。そなたはザンガクムのクレイア王女と結婚するのだ。王女は何日も前にすでにこの城に到着しておるというのに、今更こちらの都合で花嫁を送り返すことなどできぬ。近日中に、ザンガクム王も婚礼式に出席するためにここへお越しになる予定である」
「予定ならまだ変更できます。シャムアとの戦争はありません。それならば、ザンガクムと手を結ぶ必要もない。優秀なザースを手離してはいけません」
「婚約破棄はザンガクムへの侮辱行為となる。そなたは、ザンガクムと戦争を始めるつもりか」
「侮辱ではありません。必要のない政略結婚を推し進めて無駄に財をかけることなどない。あちらもそれは同じはず。ザンガクムを信用してはいけません。婚礼話二つとも破棄すべきです。シャムアとザンガクムは、裏で手を結んでいる可能性があり──」
「くだらぬ。そなたは根拠のない理由をつけて、王女との結婚をやめたいだけであろう。アンジェリン・ヴェーノのことはあきらめよ。彼女はすでに処刑された」
フェールは、驚いて身を起こそうとしたが、テイジンに制された。
「なっ………」
「アンジェリン・ヴェーノは斬首刑となった」
「う、嘘をおっしゃらないでください。父上は私から彼女を放そうとして嘘をついておられる」
「いいや、彼女はすでに死んだ」
王は控えていた侍従の方を振り返った。
「あれを見せてやれ」
呼ばれた侍従が進み出て、白い布の包みをフェールの前に広げた。
「これは……」
突きつけられた包みの中には、長い茶金色の髪が入っており、数本の紐で束ねられていた。
「これは斬首前に切ったアンジェリン・ヴェーノの本人の髪である。あの女はもう存在せぬ。忘れよ」
フェールは襲ってきた眩暈に耐えた。
「そ、そんな……斬首……なぜ……」
「王太子誘拐罪、および、メタフ村における殺人罪、そして、シャムアとの密通の疑い。さらに、我が国では薬師以外の所持売買が禁止されている薬を所持していたことなど、複数の罪と疑惑があったからである。マニストゥ・カラングラの家での窃盗、ゾンデ・マクエを脅迫、という明らかな罪もある。これだけの罪を犯した女を生かしておくことなどできぬ」
「くっ……それは断じて違います。私は誘拐されたのではありませんし、彼女は人を殺していない。メタフ村でのことなら、私が全部説明できます」
「今更、死んだ女をかばってもよいことなどひとつもない」
「マニストゥ・カラングラの家で殺人を犯したのは私です。私がイルカンと名乗っていた若い男を……ザンガクムと関係していると思われるその情報屋をこの手で殺しました」
「終わったことである」
「終わっていません。真相を説明させてください。あの時、私が剣をふるったのは、イルカンが私を侮辱しただけでなく、アンジェリンに乱暴しようとして故意に怪我をさせたからです。彼女は被害者で、真の人殺しは私です。なぜ、もっときちんと調べないうちにそのような……っ」
フェールは腹に走った鋭い痛みに顔をしかめた。
テイジンが駆け寄る。
「陛下、王太子殿下はお疲れのようです。体力が著しく落ちておられますので、そろそろお休みになっていただいた方がよろしいでしょう」
「では余は退室する。そなたが残念がる気持ちは理解できるが、殺人に関しては、証人もいて証拠品もある。彼女の短剣が死人に刺さっていたのだ。その短剣は彼女自身が自分の物だと認め、商人の証言もあった」
「えっ? それはおかしい。そうか! あの男、マニストゥが! なんということだ。彼女はあの男に陥れられたのだ! マニストゥを今すぐ捕まえてください」
王は身をかがめ、必死で起き上がろうとしているフェールの体を押さえつけた。
「動くな、傷が開くぞ。マニストゥはアンジェリンの裁判の直後から姿をくらましており、今は行方不明である。あの者には怪しい点もあるが、今はこの城はそなたの結婚準備で手いっぱいである。逃げた者を追う兵を割く余裕は全くない」
「父上は最初から彼女を殺すつもりで急いで秘密裁判を進めたのですね? 彼女が私の妃としてはふさわしくない、クレイア王女との婚姻に邪魔になるとのお考えで。父上がどんな刑罰にしようとも、彼女は無罪だ。今すぐ彼女の名誉を回復してください」
食い下がろうとするフェールに、父王は哀れむような視線を投げかけた。
「よいか、そなたはセヴォローンの世継ぎの王子。どんなときも王太子であることを忘れてはならぬ。アンジェリン・ヴェーノはそなたをそそのかし、国外へ連れ出した犯罪人である。そして、あろうことか、そなたに大怪我をさせた。あの女のことは二度と口にするな。明日からクレイア王女にそなたの看病をお願いするからそのつもりでいるのだ」
「私はそそのかされてなんかいません。怪我をしたのは自分の力不足によるものであって、彼女はその場にはいませんでした。なんでもかんでも彼女一人に罪をかぶせるおつもりですか」
「さっさと怪我を治せ。回復次第、クレイア王女と挙式する。それが王子の義務である」
ラングレはさっと背を向けると退室していった。
「父上! お待ちください、父上……彼女の髪を返してください。ううっ……」
フェールは追いかけることもできず、寝台の中でこぶしを握りしめた。
涙が両眼から勝手にあふれ出す。
「嘘だろう? アンが……死んだ……というのか。罪人として処刑されてこの世には既に存在しないと。こんなことになるなら……いっそ私が死にたかった。アン……なぜ、弁解しなかったのだ。なぜ私を置いて死んでしまったのか」
テイジンが声をかけた。
「殿下、心痛はお体に障ります。お休みください」
「黙れ! 愛する者を無実の罪で処刑された事実を知って、ゆっくり眠れるわけがない。私は今から彼女の墓へ行く。彼女の墓はどこにあるのだ。罪人墓地か? それともヴェーノの家の墓地か? どこへでも行くぞ。案内せよ。父の非人道的なふるまい、彼女にわびたい。着替えの用意だ。痛っ」
痛みに耐えながら身を起こそうとするフェールに、マリラも駆け寄った。
「殿下、今は動いてはいけません。動くと悪化してしまいます」
「侍女長のそなただって、アンジェリンがどれほど純粋な娘だったか知っていたはずだ。どうして彼女が私を誘拐した罪に問われなければならなかったのか。理解できない。私が強引に誘ったのだ。誘拐罪と言うならば、それは私の罪名だ」
「王太子殿下があの子に罪はないと仰せならば、それが真実なのでございましょう。私はそのお言葉を信じます」
「そなた、彼女が殺されたことを知っていたのだな」
「いいえ、捕まったことは存じておりましたが、亡くなったとは……」
フェールに睨みつけられたマリラは泣きそうになっていた。
フェールは怒りにまかせて、シーツを引き裂こうとしたが、弱りすぎた体ではそんな力はなく、爪が寝具をひっかいただけだった。あまりの無力さに大声で泣きわめきたくなったが、大声すら出せない。
「私は彼女を死に追いやった。皆にはせっかく命を助けてもらったが、このまま死なせてくれ。薬はいらぬ。父上に利用され続ける人生など歩みたくはない」
「そのような悲しいことをおっしゃらないでくださいまし。先ほど飲まれたそのお薬、アンジェリンがシャムアより持参した物だと聞いております。彼女は身柄を拘束されたときに、弁解よりもまずは殿下にお薬をさしあげるようにと言ったと聞きました」
テイジンも口を添える。
「今使っておりますお薬はサユタタの実を砕いて煮詰めた物。セヴォローンで経験を積んだ薬師か医術師でないと所持扱いはできぬと定められている薬で、非常に危険でかつ貴重な物でございます。このお薬は、劇的に効く反面、使い方によっては猛毒にもなりまする。アンジェリンもおそらくはこれが禁じられている薬だと、無断で所持していれば罪に問われると知っていたことでしょうな」
「罪だと知っていたから処刑してもよいと? そなたらは彼女が殺されたことを正当化するつもりか。きれいごとを並べるな!」
テイジンもマリラも肩をすくめて口を閉ざした。
貴重な薬……フェールは、重い頭の中で理解した。アンジェリンはゾンデと共に、瀕死の自分を連れてあの薬師の村へ行ってくれたのだ。セシャから貴重な薬をもらい、無事に帰国を果たしたが、その後は。
――アンが処刑……された。
先ほど見せられた髪の束。何度も触れてその感触を楽しんだ長くしっとりとした茶金色の癖のない髪。見ただけでわかった。アンジェリンの髪に違いなかった。王はすぐに髪を遠ざけてしまったが。
後悔している、という言葉を吐き出すだけではあまりにも重い現実に心が覆われていく。目を閉じても開けていても、アンジェリンの笑顔と泣き顔が交互に浮かび、彼女の体温や匂いまでがすぐそこにいるようによみがえった。
緑色の瞳。
笑うとできるえくぼ。
そして突然飛び出すおかしな駄洒落。
その滑稽さに、何度笑いをもらったことか。時折見せるさみしそうな顔は気になっていたが。
彼女はこうなることがわかっていたのかもしれない。
――私たちの関係はやはり許されないことだったのか?
「真実を教えろ。アンジェリンは本当にもういないのか……本当に斬首されたのか? 答えよ」
「申し訳ございません。存じませんので……」
しんとした寝室は暗く冷ややかだった。抱いた夢の終わりは苦々しすぎた。
「父上の所業、生涯許さぬ。王女との政略結婚を押し付け、私が選んで望んだ女性に罪を着せて殺した。できることならこの手で父上を殴り殺して王位を奪い取り、即時彼女の名誉を回復してやりたい」
低い声を押し殺してすすり泣くフェールにつられ、涙もろいマリラも目頭を押さえていた。
「そなたらに頼みがある……私の―――――――――――」
テイジンがあからさまな戸惑いを見せた。
「おお、それは……そのようなことはできませぬ」
「不可能なことではあるまい」
「確かに、できなくもないですが……」
「ならば頼む」
フェールの頼みを聞いたマリラたちは顔を見合わせたが、少し時をおいて首を縦に振った。
マリラは涙目のまま頭を下げた。
「お引き受けしてもよろしゅうございます。ですが、きちんとお食事をして、お薬も飲んでくださることを条件とさせてくださいませ」
「このような気持ちを抱えたまま生きることなど、何の意味もない」
「殿下がお元気になられることは、アンジェリンの望みでございました。あの子がどんな気持ちで禁止されているお薬を差し出したのか、お考えくださいませ。あとはテイジン様の協力さえあれば」
水を向けられたテイジンは、喉の奥で唸り、唇を少し捻じ曲げた。
「殿下、そのお望み、叶えて差し上げたくとも、これは大ごとになります。どうなっても責任はとれませんぞ」
フェールは唇だけで皮肉な笑いを作ってみせた。
「そなたらに責任を問うことなどしない。事をあいまいにすれば何の問題もない。今の私にできることは他にないのだからな。ささやかな抵抗を示すことぐらい許せ」
フェールは再び目を閉じた。
ひどく頭が痛い。アンジェリンのことで打ちのめされ、父王に伝えるべきことは、何ひとつ伝えることができなかった。たくさんの重要事項があったにもかかわらず。
教皇が主権を握り、海賊を保護しているシャムアの現状。
マニストゥとザンガクムの密偵の癒着。そして、そのマニストゥを昔雇っていた叔父のエフネート・ヘロンガルに対する疑惑も伝えるべき重要事項だったが。
──父上はエフネート叔父上のことは何もおっしゃらなかった。私がシャムアからレクト・セシュマクへ送った手紙は届いていないのか。エフネート叔父上が裏切っていてマニストゥを動かしているとしたなら、我が国はシャムア教皇が動かす軍と、ザンガクム国軍の挟み撃ちに……。
フェールはそこまで考えて、それ以上、あれこれ考えることはやめた。
国の情勢は重大事だが、今はどうでもいい。
シャムアとの戦争は回避できる可能性はあるが、アンジェリンが死んでしまった今、世界の何もかもが色あせていた。そしてどうやら自分は予定通り政略結婚させられる。弟ザース王子の結婚も中止になっておらず。
──私は、彼女を連れ出して、怪我を負わせ、置き去りにし、守ることすらせず、処刑させただけ。
「っ……やはり、私は今すぐ彼女の墓へ向かう。すぐに出かける支度をせよ」
「殿下、なりません。お薬をもう少しお飲みください」
テイジンの手で無理やり口に突っ込まれたとろみのある薬にむせ返る。
咳をするだけで、腹部を耐えがたい激痛が襲う。
歯を食いしばっていても涙が自然に出てくるほどの強い痛み。歩くどころか、寝台から自力で出ることすら無理だった。
──肩に傷を負っていた彼女もこんな痛みに耐えていた……。それなのに、私は。
──アン。すまぬ……おまえを死なせてしまった……
フェールは涙を飲みながら、心の中でアンジェリンの名を叫び続けた。




