41.罪と罰(2)
アンジェリンはあまりのことに顔に血が上り、真っ赤になっていた。後ろ手に縛られている手は爪が刺さるほど強く拳を握りしめる。そうでもしないと、下品な言葉でマニストゥをののしってしまいそうだった。
嘘ばかり吐くマニストゥは自信たっぷりで、嘘話をしているようには見えない。
──最初から、裁判はこういう流れにすると決まっていたのね……。
アンジェリンは、マニストゥの様子を見守っているエフネート・ヘロンガルを見て、確信した。
──エフネート様は裏でマニストゥを使ってザンガクムと通じているんだわ。
エフネートが悪人であっても、証拠がない話はここでは出せない。ここは警務総官であるエフネートを問い詰める場ではなく、アンジェリンが裁かれる場だ。王太子をたぶらかした女として。
「この巧みな演技、この女はすばらしい女優になれたことでしょうな。皆様方、騙されてはなりませんぞ」
マニストゥはアンジェリンを完全に殺人犯扱いにしていた。イルカンが死んだ現場に自分もいて、すべてを見ていたはずだったが。
王は途中から口を挟まなくなり、黙ってマニストゥに好きなように話をさせた。いかにも本当らしいマニストゥの作り話はいつまでも終わらず、そのうちにエフネートが別の証人の入廷を求め、王は許可した。
入廷してきた人物は、猫背で薄汚そうな髪の下からアンジェリンに冷たい視線を投げかけた。
「自分はヘロンガル家の従者をやっておりますゾンデ・マクエと申します。この女性、アンジェリン・ヴェーノの人柄に関する証言をということで入廷しました。自分はこの女性とはほんの少ししかかかわっておりませんが、この女性が人殺しもためらわぬ気質であることは明らかです」
――ゾンデ様!
アンジェリンは言い返そうとした言葉を飲み込んだ。これまでのことがめまぐるしく思い出される。この男はいったい何を言おうとしているのか。
──この人は信じてもいいと思っていたのに。
ゾンデは淡々と証言した。
「この女性は、王太子殿下がとても大切にしていた方ではありますが、恐ろしい面も持ち合わせています。瀕死の傷を負った王太子殿下とセヴォローンへ帰国する際、国境を超えたら急に、この女性は俺の背後から短剣を突き付けました。要するに、自分はここにいるアンジェリン・ヴェーノに脅されたということでございます。彼女はその時に『容赦しない』と言ったのです」
アンジェリンはすかさず反論した。
「それはあなた様が――」
王が片手をあげてアンジェリンを制した。
「ゾンデ、続けよ。なにゆえそのようなことになったのか」
「アンジェリン・ヴェーノは、俺がマニストゥ先生と組んで、王太子殿下を他国に売ろうとしたと、おかしな言いがかりをつけたのです。もちろん、そのような事実はございません」
ゾンデは、すぐそこにいるマニストゥと打ち合わせしてあったように頷き合った。
「陛下」
エフネート・ヘロンガルが手を挙げ発言を求めた。
「横から失礼しますが、この二人は当家で剣の子弟の関係でございました。二人とも誠実だったことは私が保証します」
アンジェリンは歯を食いしばった。怒りで汗びっしょりで、足がガクガクしていたが、必死で立ち続けた。ここで倒れたら負けを認めたようなもの。自分も手をあげて発言許可を得た。ロイエンニのことが気がかりだが、こんな状況では、罪をすべて着たとしても、ロイエンニの解放などないと思える。
「陛下、そのことに関して、説明させてくださいませ」
「ふむ。証人たちは、ヘロンガル家で知り合い同士だったということか。マニストゥ・カラングラの証言については概ね理解できたが……アンジェリン・ヴェーノよ。そなたの主張が真実であるか否かは余にはわからぬ。では、もう一度、深夜にイルカンと名乗る男が来た、というところから状況を述べよ」
「ありがとうございます、陛下」
アンジェリンは事細かに、窓から飛び降りることになった経緯、そして、誰がどの立ち位置だったか、という点まで話した。
王は額に手を当てて唸った。
「ううむ。そなたの話を聞いていると……どう考えても王太子がそなたを守るためにイルカンを殺した、と解釈できるが、そういうことでよいか?」
「……それだけはお答えできません。私の剣はその時にマニストゥが持ち去ってしまってそれきりで……」
アンジェリンは視線を落とした。エフネートの冷たい眼光を痛いほどあびていることもあったが、フェールがアンジェリンのためにイルカンを殺したのだとは言いたくない。
マニストゥは勝ち誇ったように大きな笑い声をあげた。
「皆様方、ご覧くだされ。この女は自分がイルカンを殺したから、誰が殺したかをはっきり言えずにいるのですぞ。この女は絶対にシャムアの密偵でございます」
王はマニストゥの話を無視してアンジェリンに訊ねた。
「それで、マニストゥの家を出てからはどうしたのだ」
「街道沿いの川原で梯子を見つけて渓谷を渡り、シャムアへ入国しました」
マニストゥがさらに得意げに鼻をひくつかせた。
「陛下、やはり、シャムアの密偵でございましょう。そんな調子よく密入国できる場所が見つかるはずがないですぞ」
「マニストゥはいったん下がれ。ゾンデは残ってよい」
マニストゥは不服そうな顔をしたが、文句を言うことは許されないまま扉の外へ連れ出され、アンジェリンは少し肩の力を抜いた。
「被告人は続けよ。偶然にはしごを見つけた、ということは信じてやってもよいが、なぜ川へ行ったのだ」
「……血だらけで……私は怪我をしておりましたから洗い流そうと思ったのでございます。そのままの姿では警備兵がいる吊橋を渡ることは無理だと判断しました」
フェールも返り血にまみれていた、とは言えなかった。
「そうか。で、その後はどこへ行ったのだ」
アンジェリンはすべて真実を話した。薬師の村チェペ、サンニの町、イガナンツの村へ、そして帰りは同じ渓谷から戻ったこと。サンニの町で祝福を受けたことは言わずにおいた。
王は、アンジェリンが話し終えると、頭が痛そうに自分の額を押さえた。
「そなたが禁止されている薬を持っていたことの説明は理解できた。そのことに関して余は、罪を問いたくない。法を犯してでも禁止薬を所持したのは、王太子のことを思ってのことであろう。証人、ゾンデはそれを証明できるか?」
「はっ、薬入手のことに関しては、この女性の言ったとおりで間違いはございません。彼女に悪意は感じませんでした」
ゾンデは薬を手に入れた経緯について正直に答えてくれた。彼は間違ったことはいっさい言わなかった。アンジェリンはますますこの男のことがわからなくなった。単に誠実なだけなのか、とんでもなく器用な、マニストゥの手先なのか。
「余はゾンデの証言は信用できると判断する。しかし、被告の不審な点はまだいくつもある。余はあらためて被告に問いたい。危険を承知で、なぜ王太子を連れ出したのか」
「きっかけとなったは、王太子殿下からのお手紙でございました。男女二人で旅をして、かけおちに見せかければシャムアに入国しやすいからと」
「その手紙は持っているか?」
「いいえ」
あの時の手紙は自宅の引き出しの中に置いてきた。アンジェリンはまだそこにいるゾンデの方をちらっと見た。ゾンデは、フェールからの手紙をシドが運んだことを知っているはずだが、何も言ってくれなかった。
「断らなかったのはなぜか」
「私は王太子殿下の夢を叶えてさし上げたいと思ってしまいました」
「王太子の夢? よくわからぬ。詳しく説明せよ」
「王太子殿下はザース殿下よりも御自分の方が劣っているとお考えのようで、しきりに王太子の座を譲位したいと仰せでした。そしてご自身を認めてもらうために、何か自分だけの力で大きなことを成し遂げたいという希望を抱いておられて……国外へいく計画は、私も無謀だと思いましたから、最初は強く反対しました」
アンジェリンは早口にならないよう注意しながら説明した。
「ですが、王太子殿下は自信を無くしておられました。だから、私は、危険かもしれないけれど王太子殿下のご希望に沿いたい、お心をお助けしたい、そう思ったのでございます」
場は静まり返っていた。
皆、王の次の言葉を待つ。
「確かに王太子は旅立ち前に、余のところへきて、ザースに譲位したいと申し出た。そのことに関しては、被告は真実を言ったと断定でき、被告の言うこと全部が偽りとは決めつけられぬ。ただ、マニストゥの証言がすべて偽りだったと仮定して、被告は殺人を犯しておらず、シャムアの密偵でもないとしても、結婚を控えた王太子を危険な目に合わせたことだけは目をつむることができない真実である。これにはどのような罰を与えることがよいと思うか? 皆の意見を聞きたい。警務総官の意見はいかに?」
意見を求められたエフネート・ヘロンガルの言葉は、用意してあったように流暢だった。
「警務総官としては死罪が適罪であると申し上げます。被告は王太子殿下をあのような目に遭わせただけでなく、この場でヘロンガル家を侮辱しました。個人的にも許しがたいこと。それに、被告は王太子殿下が行方不明になられる数日前に侍女の職を辞しております。計画的に長期にわたって国外へ殿下を連れ出そうとしていた可能性が大きいと思われます」
「ふむ。そなたの考えでは被告は計画的だったとな……」
「さようでございます。渓谷の梯子を簡単に見つけたという不審な点もあり、シャムアと密通している疑いのかかる女をこのまま生かしておくことは賢明な判断ではないと思われます」
王は頷くと、法務長官をそばに呼び寄せ、部屋の最奥まで連れて行き、小さな声で何か相談を始めた。その内容は一同には聞こえない。
やがて、王は席に戻ると、アンジェリンに発言をうながした。
「被告人、辞職の件に関してはどうか」
「王太子殿下が私に求婚なさったから侍女としてお仕えするのを辞退させていただきました。いやしい私がおそばにいてはご迷惑になると思ったのです」
場内がまたざわめいたが、王は、旅立つ前のフェールからその話を聞いていたので平然としていた。
「そなたの言うことは矛盾しておる。そばにいては迷惑になる、と言いながら、そなたは王太子と国を出てしまった」
「私はお城を去ることでけじめをつけたつもりでしたが、王太子殿下はあきらめてくださいませんでした。結果、出国することになってしまいました。矛盾していて申し訳ありません。それから、私は、他国との密通はしていません。密偵だから王太子殿下を出国させたのではありません」
「王太子の今後を考えると、やはり、そなたは死を与えた方がよさそうな気がするが、皆、いかに?」
場がざわつく。
ザース王子は隣に座る王妃に何か耳打ちしている。王妃はアンジェリンから目を離さず頷いていた。他の人々は、勝手に議論している。
「内密に処刑すべき」「死罪に」「それではあまりにも」「罪は重い」「流刑でもいいが絶対に帰って来られないような遠くへ」「むち打ちのあと永久追放」
アンジェリンは痛い議論に耐えつつエフネートの方を見たが、彼は動物を見るようなさげすんだ目でアンジェリンを見すえていた。
エフネートはイルカン殺害の件に関しては、法務長官に口利きで正当防衛扱いにしてくれそうなことを言ったが、そんなそぶりも見せない。法務長官もヘロンガル一族だ。
アンジェリンは、エフネートの息子の短い黒髪の軍人を思い浮かべた。
――シド様。では、シド様も信じてはいけないの?
シドが裏切っていたとしたなら、フェールは最初から彼らの手のひらの上で転がされていたということになり、シドはフェールが預けた協力資金すらゾンデを通じてマニストゥに渡していない、という可能性まで出てくる。
アンジェリンが考えを巡らせている間も、場内の議論は終わらず、死罪、流刑などの言葉が耳を掠めていく。
──大丈夫、何も怖くないわ。もう刑は決まっているんですもの。
ここはすでに処刑場と同じ。どうあがいても処刑を免れられないならば、殺される前に。
手を挙げて発言を求めた。
「あの、陛下。私が死を賜ることに異論はございませんが、ひとつだけお願いがございます」
「言ってみよ」
「父のロイエンニ・ヴェーノを罪に問わないようお願いいたします。父は何も知らなかったのです。私はロイエンニの実の娘ではなく養女です。父は、逃げた使用人が捨てて行った哀れな赤子を仕方なく引き取り育てただけで、私とは血のつながりがない他人です。どうか、お願いでございます。父を解放してくださいませ。私がやったことは死に値する罪だと仰せならば、喜んで死を受け入れます。ですから、父のことだけはおとがめなきようお願い申し上げます」
「ロイエンニは侍従として余によく尽くしてくれた。取り調べの時に余は会っているが、態度も謙虚であった。彼は無関係とし、彼の身についてのことは考慮すると約束しよう」
「ありがとうございます、陛下」
アンジェリンは深く体を折って礼を述べた。これで安心して死ねる。
王はあわれみの入った目つきでアンジェリンを見おろした。
「そなた、死罪に決まっても不満はないのか」
「はい、陛下のご命令に従います」
アンジェリンはいったん顔を上げ、室内のすべての人を見まわした。
「皆様方、今回のことで貴重なお時間をいただき、申し訳ありませんでした。私は、王太子殿下をお留めすることができず、シャムアへ共に出かけて国政を混乱させた罪を認めます。王太子殿下の治療のために、この国では所持が認められていない危険な薬を入手したことも事実です。ですが、私は、殺人は犯しておりませんし、他国の密偵でもありません。その点だけは認めることはできません。たとえ死を賜っても」
アンジェリンは堂々と顔を上げてきっぱりと言い切った。
自分に視線が集まっているの感じならが、さらに続けた。
「王太子殿下の今後のことを考えれば、死罪は私にふさわしい刑だと承知しております。私の死後も王太子殿下のお役にたてるよう、シャムアに滞在中、シャムアの海賊の実態やシャムア国内でのうわさ話を集め、できるだけ細かくノートに書き留めておきました。私の荷物の中に入っておりますので、今後のシャムア対策にお使いくださいませ」
アンジェリンは肩の力を抜いた。
言いたいことは全部出した。処刑されてもかまわない。
婚約者のいる高貴な男性と愛し合ったことは罪。
マロロス少年からもらったグフィワエネの情報と酒場で仕入れたシャムア庶民の声がフェールにとって役に立つものになったらそれでいい。
王はアンジェリンを見つめたまま長く沈黙していたが、やがて決断を下した。
「では、アンジェリン・ヴェーノが王太子を連れ出して大怪我をさせた罪は、当秘密裁判において死罪に値すると決定する。殺人、および密偵の疑いがかかる件については、ここでどれほど論じようとも明らかにできぬと余は判断する。違法な薬物所持についての罪は問わぬ。なお、被告の父親ロイエンニ・ヴェーノは無関係で無罪とし、彼の身柄は即時解放とする。この決定に意義ある者は挙手し、意見を述べよ」
誰も手を挙げなかった。
アンジェリンは深く頭を下げた。
アンジェリンの死刑は決定し、アンジェリンは両側を兵士に挟まれて部屋から出された。扉を抜ける時、アンジェリンは、泣きそうなレクトの視線とかち合い、無言で目を反らした。
緊張から解かれたアンジェリンは、足元がふらつき何度か倒れそうになりながらさきほどまでいた地下牢へたどり着いた。
すっかり疲れ、寝台に倒れ込んで眠ろうとしていたら、それほど時を置く間もなく、見知らぬ兵士が二名やってきて、斬首の準備だと言って、アンジェリンの長い髪を剣でばっさり切り落とした。
そのまますぐに斬首かと覚悟したが、兵たちは執行せずに髪を持ち去って出て行ってしまった。
髪がすっかり短くなってしまったアンジェリンは、丸出しになった寒い首で再び寝台に横になった。疲れがどっと襲ってくる。裁判の間、座ることは許されなかった。
イルカンに刺された肩の傷が悪化し、頭が熱っぽく、寒気がする。喉も痛い。ここは本当に寒い場所だが、簡素な寝台には毛布一枚しかない。冬が迫りくる季節も関係なく。このまま処刑を待つより、眠るように凍死、でもいいかもしれない。
震えながら毛布にくるまり、ひたすらフェールのことを思った。処刑されるよりも恐ろしいのは、大切な彼が死んでしまうこと。
そのうちに遅い夕食が運ばれてきた。小窓から差し入れられた盆には、フォークもスプーンも付いていないことがわかると、体調が悪いところにさらに食欲が失せた。手で食べろ、ということなのだろう。手をふく布は盆に乗っているが薄汚かった。野菜が少しだけ浮いたスープにパンがひとかけら。アンジェリンは数口食べただけで、気分が悪くなり、寒い寝台に横になった。おかしな味がして喉を通らない。
「毒が入っているのかしら。毒殺に決まったの? なら何も髪を切ることはないのに」
応える者はいない。
フェールの容態のことは裁判の中では聞き出せなかった。あの時の彼のおびただしい血と青すぎる顔色を思い出すだけで顔がひきつる。
熱っぽい頭の中で、フェールの笑顔を思い描いた。
駄洒落が運命を変えた。王太子の目に留まり、そして――。
ひとりの男と女として。身分を超えて。女として愛されることの悦び、そして、別れることの痛みとせつなさ。
――それでも私は確かに幸せだった。
祝福まで受けて、夫婦として過ごしたわずかな時間。一生分の愛をもらった。死刑でいい。そのほうが彼のためになる。いつか彼はアンジェリンのことを思い出に変え、新たな伴侶を得て、やがて国王として輝く日が必ず来る。
「私、処刑されたらすぐにディンに会いに行くわ。あ、でも……私はお邪魔かしらね」
今、彼のそばには婚約者の王女が付いているかもしれない。
「それでも私は魂になってあなたの元へ飛んでいきたい」
養母モカーヌが亡くなる前、似たようなことをロイエンニに言っていたことを思い出す。
『私、死んで魂だけになったら、絶対にあなたと離れないわ……ずっと一緒にいるの』
病床のモカーヌは目を潤ませて、手を握っているロイエンニにそう言った。
「お母様はきっと今もお父様のそばにいらっしゃるのでしょう? 私も好きな人のそばにいたい。私の場合は短い間かもしれないけど、ディンが次の愛を受け入れられる日が来るまでおそばに……下品な生まれの娘が、高貴な人の元へ【飛んで】いくなんて、【とんでも】ない?」
──こんなくだらない駄洒落でもあの人ならクスッと笑ってくれたはず。
アンジェリンはフェールの回復を祈りながら目を閉じた。
──私たちはすぐに会える。
寒さが厳しく、処刑が待ち遠しかった。




