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4.王太子の部屋

  

 そして、その日も、すべての仕事を終えたアンジェリンは、緊張で肩をかちかちにしながらフェールの私室へ向かった。

  

 フェールの機嫌はよさそうで、彼は穏やかな表情で応接用のソファに腰かけ、ひとりで飲んでいた。

「よく来てくれた」

 アンジェリンはまず深く頭をさげ、鉢植えの礼を丁寧に述べた。


「そなたにはあのような控えめで目立たない花が似合うと思うのだが、くだらぬ駄洒落はあの花の印象とは違っている」

 アンジェリンは答え方がわからず、とりあえず「恐れ入ります」と言うだけに留めた。

「今日は駄洒落を考えてきてくれたか?」

「はい……」

 アンジェリンは腰かけているフェールの正面に立ち、声が震えないように、両手を拳にして強く力を入れた。


「『【兵】が【塀】の上にいます。高い【塀】の上で【平気】かと聞いたら、【兵】は急に【横柄】な態度になってそっぽを向きました』…………あの……いかがでしょうか」


 空気に隙間ができたような、一瞬のおかしな雰囲気の後、フェールは声を出して笑い始めた。琥珀色の高貴な瞳がすっかり細まって目じりが下がり、口は奥歯が見えるほど開いて大笑いしている。

「わはははっ……よく頑張ったな。高度すぎてどこが駄洒落になっているのか考える時間が少々必要だった」

「すみません、こんなのしか思いつきませんでした」

 アンジェリンは頭を下げた。

 フェールは、まだ声を出して笑っている。

「そなたにあやまってほしいわけではないのだ。そなたがその顔で駄洒落を言うと……ははは……まじめな侍女と駄洒落……何ともその奇妙な取り合わせがたまらない。今日の駄洒落は兵たちが聞いたら喜びそうだ。よくできていたと思う」

「お褒めいただき、光栄でございます」

 安堵の笑顔がこぼれたアンジェリンを見て、フェールはようやく笑いを止めると、満足そうにやわらかく微笑んだ。


「そなたは笑うとえくぼができるのだな。今まではそなたの顔すら、しっかり見たことがなかった。そのきれいな顔と駄洒落がどうしても結びつかぬ。私は今まで駄洒落を言う女性を見たことがない」

「……私も……女性で駄洒落を言う友は今のところおりませんし、そういう人も存じません」

「そなたは特異な存在だと思う」


 ―-そうですね。私って変ですよね。

 アンジェリンはうっかりそう返答しそうになった口をぎゅっと閉じた。自分から『自分は変だ』と王太子に宣言したところで、なにかすばらしいことが起こるとも思えない。


「そなた、なぜ、駄洒落好きなのだ」

 アンジェリンは恐縮して頭を何度も下げた。

「私は田舎育ちでございまして、幼いころから近くに住む友などなく、父は仕事で忙しく、母は病気で、遊び相手は自分だけという日が多くありました。ひとりで言葉遊びをする癖がついてしまいまして……殿下のお部屋の前で笑ってしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「その件についての謝罪はもう終わっている。それよりも、今はもっとそなたのことが知りたい。そなたの故郷はどのあたりだ」

「幼いころはサイニッスラ高原におりました。十歳ぐらいまではそこで生活していました」


 サイニッスラ高原は、三国をまたぐ大山脈の、ふもとにある広大な高原で、この王城があるエンテグアからだとちょうど真北に位置していた。夏の避暑地として利用され、王侯貴族が所有する別荘が点在している。


「そうだ、高原、と聞いて思い出したぞ。そなたの父ロイエンニは、大変な愛妻家で、妻の病気療養のために空気がきれいなサイニッスラに家を構えていたと、昔、誰かに聞いたことがあったのだ。そなたはそこで育ったのだな?」

「はい、その通りでございます。父は、長い間、遠い高原とここを行き来していました。今は母は亡くなり、この城の近くに住んでおりますが」

「ロイエンニがそなたに前髪で額を隠せと命じたのは、そなたが亡くなった妻に似ていて辛いからだったのだな」

「それは……違います。……あの……」

 アンジェリンはうつむいた。

「どうした?」

「なんでもないので……気にしないでください」

「なんでもないことはなかろう。先ほどまで笑っていたのに、青ざめているではないか。私がそなたの前髪をひっぱって額を見てしまったことをまだ不快に思っているなら、何度でも謝罪する。傷つけてすまなかった」


 アンジェリンは心からの謝罪に泣きたくなった。前髪に触れられたことを気にして怒っているわけではない。

「……殿下……謝罪はおやめください。前髪のことはびっくりしただけでございます。実は……私は……」

「遠慮せずに言えばよい。文句でもかまわぬ」

 やさしいフェールの声に、ためらっていたアンジェリンは、話す覚悟を決めた。


「私は養女なのです。恥ずかしながら、貴族の血は入っておらず、本当はこのような場所に出入りする資格はありません。侍従長の父がいるおかげで、王族の方々のお世話をすることを認めていただいているだけです。私の顔、下品な生みの母にとても似ているらしいので、額を隠した方がいいと父が……」

「そうだったか。よけいなことを言わせてしまったな。私は、そなたがロイエンニの実子ではなくとも、気おくれする必要などないと思う。そなたはそなただ。母親がどのような女性でも」

「お優しいお言葉、もったいないです」

 アンジェリンは泣きそうになり、必死で瞬きして目を乾かそうとした。

 フェールの低い声はとても温かかい。これ以上やさしい言葉をかけられたら本当に泣いてしまう。出自のことは城内の誰にも話したことはなかった。話したくもなかった。すべてが美しいこの王城内で、自分だけが汚点のような存在だといつも思い続けてきた。駄洒落を兵たちに披露して笑っているときですら、自分は下品な両親から生まれた娘だということは忘れてはならないと考えていた。

 それが、この上もなく高貴な人に、貴族の血を持たないことを簡単に受け入れてもらった。足がガクガクして膝から下の力が抜けそうだ。


 アンジェリンはフェールの言葉に温められ、感謝の気持ちを込めて深く頭を下げた。

「ありがとうございます。ここはいやしい私にとっては夢のような世界。私の出自を知った上でも、今後も駄洒落を言うことをお許しいただけるならば、精一杯務めさせていただきます」

「夢のような世界……か。あいにく、ここは夢と言ってもらえるほどすばらしい場所でもないのだが、都合がつく限り毎日来い。今日は楽しませてもらったぞ。疲れているようだからさがって休め」



 フェールの部屋から退室したアンジェリンは、廊下を歩きながら、こめかみを流れてきた汗をぬぐった。

 大きな役目を終えた達成感で心は満たされている。汗まみれでも気分はすっきりしていた。

 フェールは明らかに作り笑いではない笑い方をしていた。貴族の血を持っていないことを告白してしまったが、彼はそんなことは全然気にしていない様子だった。それならば自分も卑屈にならなくてもいい。さわやかだった彼の笑顔にこちらの心も穏やかになる。

 ――あんな駄洒落で喜んでもらえた! 殿下が大笑いしてくれた! 城勤めをさせてもらえて本当によかった。

 アンジェリンは踊りだしそうな足取りで歩いて行った。肩に入っていた無駄な力はすっかり抜けた。


  ◇


「王太子殿下、おはようございます」

 その日もいつも通りの朝が来た。

 王太子フェールが寝室で目を開けると、普段と変わりなく、起こしに来た侍従と共に、今日の予定を告げる秘書官が来ていた。

 王族を起こす仕事はのは男性である侍従の役目。この時間、侍女たちは食事の準備や清掃などに追われている。

「本日のご予定は――」

 日よけが巻き上げられ、一気に明るくなった室内に、フェールは目を細めた。

「天気はよさそうだな。閲兵式が雨でなくてよかった。雨が降れば寒くて大変だった」

 窓際に立ち、中庭を見下ろすと、衛兵や侍従などが歩いている姿が見えた。

 フェールはその中の一人にふと目を止めた。

 ──彼女だ。

 ちょうど中庭の通路を歩いていた女性は、駄洒落侍女のアンジェリンだった。

 遠目になんとなくアンジェリンを目で追っていると、やがて、彼女の背後から兵士の姿をした男が駆け寄ってきて、彼女を呼び止めた。

 フェールは無意識に男をにらみつけていた。

 ──なんだ、あの男は。

 見ているうちに、さらにもうひとり兵士が会話に加わった。

 やがて三人は、軽くあいさつを交わすとそれぞれの思う方向へ別れていった。三人の会話は長くはなく、ごくわずかの時間だった。仕事の合間に駄洒落を言いあう程度の。


「殿下、閲兵式の後のことでございますが、軍の幹部たちを交えてお食事会がございます。お食事の場所は――」

 秘書官の言葉にフェールは我に返った。

「閲兵式があって、それからなんと言った?」

「軍の幹部たちとお食事会でございます」

 予定を告げた秘書官が出て行くと、フェールはアンジェリンの姿がすでに見えなくなった中庭をしばらくながめていた。

 ――あの最初に話していた男はアンジェリンに思いを寄せているのか? よく見る顔だ。王族の身辺の警備兵だと思うが、やけに親しそうだった。彼女の恋人か、それとも単なる駄洒落仲間か。彼女にはああいう友人が何人もいるのだろうか。


「殿下、お召し替えを」

 衣装を差し出す侍従の声でふたたび現実に戻った。

「ああ、そうだな。着替えねば……」



 次の日も、その次の日も、フェールは朝起こされると真っ先に窓際に立った。

 アンジェリンがたまたま通る日は少なく、見かけない日の方が多い。この前のようにアンジェリンが男性と立ち話している姿は、その後は見られず、フェールは少し安心したが、姿が見えないと、それはそれでどこか物足りなさを感じた。

 アンジェリンが朝食の場に給仕手伝いとして来ているときもあり、夜になれば、アンジェリンが駄洒落を言うためにこの部屋にやってくる。彼女が非番の日以外は、まったく会えないわけではない。

 それでもフェールは、占いでもしているような気分で、毎朝窓辺から外を見ないと落ち着かなくなっていた。

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