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38.旅の終わり

 アンジェリンは馬車の中で揺られていた。

 馬車はずっと走り続け、辺りは暗くなろうとしている。小窓から外を見れば、馬に乗ったセヴォローン兵たちが馬車を守るように取り囲んで周りを走っているのが見える。ゾンデの姿もその中にあった。そして、アンジェリンの膝の上には真っ青な顔で横たわっているフェールの頭が乗っていた。


 アンジェリンはそっとフェールの頬に触れた。

「ディン、お城が見えてきましたよ。ゾンデ様は信用できるお方でした。マニストゥの味方ではないです」

 渓谷を渡った後にゾンデが川原に連れてきたのは、フェールを探しているセヴォローン兵の一団だった。ゾンデと共にシャムア軍に潜入して先に帰国を果たした二名の兵が、フェールの帰国路の予定を城へ伝えていたらしい。


「もう少しで到着です」

 丘を越え、城は見えなくなった。

 馬車はエンテグア城下に広がる町に入っていく。人々の家は徐々に密集し、通りは完全に石畳になった。


「もうディンとはお呼びできませんね」

 城に戻れば王太子と侍女──いや侍女は辞めた──自由に会える身ではない。彼にはザンガクムから来た婚約者、クレイア王女が待っているはずだ。王女がすでにエンテグア城に入ったことはシャムアでも話題になっていたから知っている。シャムアとの戦争が起こらないとしても、すでに到着しているザンガクムの花嫁を追い払うことなど、できるわけがない。

 今日は別れの日。

「ディンは私にいつも愛の言葉をささやいてくださったのに、私は一度も、自分の気持ちを素直に言葉にしたことはございませんでした。別れは避けられないとわかっておりましたから」

 話しかけてもフェールは目を開けない。弱い呼吸。いつ逝ってもおかしくない。

 アンジェリンはこみ上げてくる嗚咽をこらえ、何度も瞬きしては深呼吸した。

 フェールの耳元に口をもっていき、小さな声で語りかけた。

「私とはこれでお別れでございます。今後はこんなふうにお会いすることはないでしょう。だから、今のうちに私の話を聞いてくださいね。ずっと言えなかったことです」

 彼の白い頬をゆっくりと何度も撫で、言葉に思いを込めた。


「あなたを……愛しています」


 お城で話していた頃から、一緒にいることが楽しいと思えてきていた。少しずつ気持ちが傾いて。

「私はディンのことを、いつの間にか大好きになってしまっていました。シド様のアトリエにいた時にあなたをお城に帰すべきだったのに、抱きしめられると幸せすぎて、どんどん気持ちが高まって、どうしても離れられなくなりました。あなたのことを考えるだけで、切なくて、胸焼けしそうなほど、あなたに心を奪われていました」

 彼が愛を告白し、彼のすべてを与えてくれるまでは自分の心を認めることができなかった。それは恐ろしいことだと心の中で警告の縄がかかっていた。自分の出自だけでなく、他国から花嫁を迎える予定の王太子に愛を求めてしまう自分の心の醜さを直視できず。

「私、本当はいやな女だったんですよ。あのままシャムアでずっとディンと二人だけで静かに暮らせたら、なんて密かに思ったりしていたんです。ディンが国を捨てられるわけがないのに。でもそんなあなただから、好きになってしまったのかもしれません」

 彼はいつも一直線だった。シャムア潜入して早急に帰国なんて、絶対に無理がある作戦。それでも必ずできると信じさせてくれて、実際にそれをやってのけた。

「あなたは抱いた夢は叶うことを教えてくださったのですね。普通に考えたら無理だと思えることでも。それだけでなく、後ろ向きな気分になりがちな私の出自の汚点を、ひとときでも忘れさせてくれました」

 買ってもらったガラス玉の首飾りをはずし、彼の首に付け替えた。

「この首飾りはお返しします。もしも、王女様との縁談がなくなったとしても、私はディンの妻にはどうしてもなれません。今まで黙っていましたが、私は罪人の娘です。ディンの活躍が王室内で認められても、最低な両親から生まれた私とのことを皆様に認めてもらうことは絶対に無理なことだと思います」

 もしもフェールが、アンジェリンを妃にと望めば、世間一般に対し、アンジェリンの出自を明らかにすることが求められるに違いない。運よく両親の情報を問われることなく妃に決まったとしても、どこかにいる実の両親が突然現れて金品を要求したりする可能性だってある。生まれたばかりの娘よりも盗んだ金品の方が大切だった親。そんな愚かな親なら何をするかわからない。もしも、結婚式の日、見るからに凶悪そうな人相の両親がそろって城に押しかけてきたら。

 想像するだけで恐ろしすぎた。


「生みの親にすら不要とされた私を、ディンは必要だと何度も言ってくれて……隣国の王女様よりもこんな私を選んでくださった。それがどれほどうれしかったことか。私、先のことを考えると胸が張り裂けそうでしたが、それでもあなたと少しでも一緒にいられれば幸せだと思ってしまって。ディンといると、私はいつも日当たりのいい花畑の中にいるようでした。でも」

 青白い頬を手のひらで撫でた。

「花の時期には限りがあります。侍女が王子様に愛される夢物語はここで終わりにしましょう。現実に戻る時が来ました」


 兵に囲まれた馬車は、王城の裏門をくぐった。

 馬車は速度を落としていく。将来は王になる高貴な男性と、恥ずかしい両親から生まれた娘。結婚相手ととしてはあまりにもつり合っていなかった。

「必ず生きてください。そして王女様と結婚してお幸せに。私はどこにいても、どんな罰を受けようとも、いつも、あなたのことを応援しています。ディン……」

 ──あなたが好き。

 彼の頭を少し上げ、唇を触れ合わせた。

 自分の命の力が少しでも彼に移るように願いを込め、少しだけ息を吹き込んだ。

 ──私の残りの命を全部あなたに。

 力なく身をまかせているフェールは、口づけされても眉ひとつ動かしてくれない。

「……っ……」

 こらえきれない涙が、アンジェリンの目からこぼれた。

「すみません、泣いてしまって。私、旅が終わる日が来ても泣かないと決めていたんですよ。身を引く覚悟は最初からできておりましたが、こんな別れ方は望んでいませんでした」

 あまりにも彼は弱りすぎている。セシャの言葉が頭の中で繰り返されている。


『覚悟はしておいたほうがいいよ』


 アンジェリンはこれ以上涙が出ないように少しの間だけ目を閉じて自分を落ち着かせた。

「早くお怪我がよくなりますよう、私は毎日祈り続けます。わずかな期間でしたが、与えてくださった最高の夢、私、決して忘れません。すばらしい旅をありがとうございました。さようなら、ディンセルラントゥール様。いいえ、王太子殿下、フェール様」

 ――緊張の連続だったけど、これ以上ない幸せな旅だったの。後悔なんかしない。


 馬車は、目立たない城の裏にある建物の裏口へつけられた。何人もの兵士が駆け寄ってくる。

 馬車の扉が開かれ、意識のないフェールが担架に乗せられて運び出された。馬車を降りたアンジェリンは深く頭を下げ、唇を引き結んで下を向いたまま彼を見送った。

 ──さようなら、私に愛をくれた人。たぶんもう会えないけれど、私は本当に、本当にあなたのことが大好きでした。どうか元気になってください。



「アンジェリン・ヴェーノだな?」

 かけられた声に顔をあげると、そこにはシドの父親で、警務総官のエフネート・ヘロンガルが険しい顔で立っていた。シドと同じつかめないほどの短い黒髪で背が高いこの男、青い目で切れ長の目元がシドとよく似ている。

「アンジェリン・ヴェーノには、メタフ村における殺人および、王太子殿下誘拐の罪で捕縛状が出ている。よって身柄を拘束する」


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