37.猫背の男ゾンデ
向こう岸に帰ったマロロスの姿が完全に見えなくなると、ゾンデは岩陰を探し、水と岩の間にある狭く湿った小石まじりの砂地の上にフェールをそっと横たえ、脈を取った。
アンジェリンは背後から見守る。フェールはぐったりしたまま目を閉じており、うめき声すら上げない。
「殿下のご容態は……」
「どうにか息はありますが、脈が弱いですね。一度毛布をほどいて出血状態を確認します。血が毛布までしみてきていたら、血止め薬が効いておらず、大変危険な状態だと言わざるを得ません」
ゾンデはフェールを包んでいた毛布を丁寧に剥いでいく。
アンジェリンはそんなゾンデに疑問をぶつけた。
「殿下のシャムアでの作戦はうまくいったのですか?」
「ヌジャナフの基地にある武器庫と船はほぼ全滅させることができましたが、これで戦争を回避できるかどうかはわかりません。シャムア軍が他の港に船を隠している可能性はあるわけですから」
「それでも一応、殿下が考えておられた作戦は成功したのですね?」
「はい。殿下のお怪我さえなければ上々でした」
「よかったです。私は作戦通りにはいかないのではないかと心配していました」
「皆がそう思っていたことでしょう。自分もそう思いましたから」
ゾンデは背を向けたまま淡々と答える。
アンジェリンは熱くなる瞼を押えた。
危険すぎる作戦だった。それでも本当にフェールはやってのけたのだ。恐るべき行動力。運もよかったのだろう。元気なままで再会できていたなら、全力で彼を抱きしめて、ねぎらってやりたかった。
アンジェリンは感情を殺し、心を奮い立たせた。
──そろそろ確かめなきゃ。ディンはこの人を信用しているみたいだけど。
この不気味な猫背男が敵か味方なのかは、まだはっきりしていない。この男がかつてマニストゥから剣を教わっていたことは間違いない。得体の知れないこの男と二人きりでいることは恐ろしい。もしもゾンデが敵だったら、もたもたしているうちにマニストゥの手先を呼び集めてしまうかもしれない。
アンジェリンは胸元に隠していた短剣を手に握りしめた。今ならゾンデはアンジェリンに背を向けて屈んでいる。ゾンデがマニストゥの手先なら、ここで刺し殺してでも愛するフェールを守る。
「ところでゾンデ様、あの……どうしてシド様の従者であるゾンデ様が、シャムアにいらっしゃるのです?」
アンジェリンの問いに、ゾンデはアンジェリンの様子に気が付かず、作業をしながら普通に答えた。
「自分は、どんなことがあっても殿下をお守りするようにと、シド様に命じられましたので、先にシャムアへ入国しました。シド様は殿下の身を案じ、ただでも少ないご自身の兵を割いて、他にも二名、シャムア軍へ密かに派遣しておりました。偶然、全員が同じ場所に配属されて幸運でした」
──ゾンデ様はシド様の命令で動いているの? そうなら、マニストゥの悪巧みは知らない?
これだけでは疑惑は晴れない。
「ご一緒したシド様の配下の方々はどうなったのですか?」
「彼らは殿下を逃がすためにおとりになり、ヌジャナフの基地内で別れてそれきりです。逃走用の船を一隻だけ残してあったはずなので、それを使って海路で無事に帰国していればいいですが」
「そうだったのですか。それからもうひとつ教えてください。軍にいた間に、殿下からマニストゥ・カラングラさんのことについてのお話はありましたか?」
「マニストゥ先生のことに関しては、殿下とゆっくり話している暇がありませんでしたので、殿下と先生がどんなお話をされたのかは知りません。殿下と先生は、帰路の馬の手配などのお話をなさったと思いますが、自分はそれについては何も聞いておりません」
「そう……ですか……」
――この人はマニストゥの家で何があったのか知らないってこと?
「先生が帰路の馬を用意してくださっているとしても、頼るのは無理でございます。殿下がこの状態では、山奥の村の先生の家までお連れするのは難しいでしょう。先生の村は王城とは逆方向。あんな小さな村ではいい医術師はいそうにないですし」
――ディンがマニストゥの家でのことをゾンデ様に話していないって……絶対におかしいわ。そんな大事な話をしないなんて。
「血はとりあえず止まっているようだ。よかった」
ゾンデは手早くフェールを元通りに毛布巻きにした。
アンジェリンは何もできず動けなかった。マニストゥの家でのことを思い出して背中に虫が走る気がした。
あの恐怖の夜。切り裂かれた服。首にあてられたマニストゥの歯。アンジェリンのために両手を上げて降伏してくれたフェール。そして軽口をたたいていたイルカンの死にざま。
恐怖と怒りが一体となって込み上げ、抑え込んでいた感情が爆発した。
「マニストゥは、馬の提供どころか、私たちを売ろうとしました。ゾンデ様は、それを知っていたんじゃないですか?」
アンジェリンはそう言うなり短剣を抜き、ゾンデの首の前に手を回して剣先を突き付けた。
ゾンデは心から驚いたような声を出し、振り返った。「はぁ?」
「ゾンデ様、正直に答えてください。あなたはマニストゥが悪人で、殿下をザンガクムに売ろうとしていたことをご存じだったんですよね?」
「ザンガクム? おっしゃることがわかりません。それはいったいどういうことですか」
「どうしたもこうしたもありません。殿下から本当に何も聞いていないのですか。マニストゥは宿と食事を提供してくれましたが、夜中に私たちを襲ったんですよ。殿下を他国へ売るために。私はその時の怪我がまだ癒えていません」
「ばかな。あの人はまじめな先生だった。そんなことをするわけがない」
「師を信じたいお気持ちはわかりますけど、殿下に聞けばすべてわかります。マニストゥはお金がすべてだと言いました。イルカンという名の若い情報屋と通じていて、私を人質にして殿下を脅して」
「しっ、お静かに。誰か来ます。馬の音がする」
「言っておきますがゾンデ様が裏切り者ならば、私はこの場であなたを殺してでも殿下を守ります。容赦しませんから」
それまでアンジェリンに対しては丁寧だったゾンデの口調が急に変わった。
「容赦しないだと? 俺はわけのわからないことで女に殺される趣味はない。何を勘違いしているのか知らんが――失礼」
「っ!」
にぶい音と共に、アンジェリンは頬を打たれてゾンデに殴り倒されていた。石がごろごろしている河原に倒れ込んだアンジェリンは、負傷している肩に激痛が走り、すぐに起き上がれなかった。
「うっ……くっ……ゾンデ様……」
ゾンデは、アンジェリンが手にしていた短剣をいとも簡単に奪い取った。
「俺を殺してあなた一人で殿下を運ぶ? ケッ、できもしないことを言うな。見たらわかるだろう、殿下のお命は消えかかっておられる。このままでは城までもたないかもしれない。こうなったのもあなたのせいだ」
「……っ」
「俺は殿下に川下りで帰国するよう申し上げたのに、殿下はささやき亭へあなたを迎えに行くとおっしゃって譲らなかった。結果、追撃のシャムア兵どもと戦って大怪我をなさった。槍で腹を突かれたのだぞ」
ゾンデは冷たく暗い瞳をアンジェリンに向けた。
「あなたが俺を信じないのは勝手だが、俺を殺そうと飛びかかってきてもらっても困る。俺はシド様に殿下のことを頼まれているとさっき言っただろう。なんとしてでも城まで殿下をお連れせねばならん。邪魔をするなら俺はあなたをここで殺す。あなたが殿下の大切な人でも関係ない」
ゾンデはそう言いながら、拾ったアンジェリンの剣を突き付けてきた。ゾンデのぎらついた瞳が真直ぐにアンジェリンに刺さる。
アンジェリンは肩の痛みに耐えながら、ゾンデの顔を注意深く観察して言葉を選んだ。
「私だってゾンデ様を信じたいです。ゾンデ様はマニストゥが裏切り者だったことをご存じなかったのですね?」
「知らん。俺はあなたの方が信じられん。政略結婚を控えた王太子殿下にこんな無謀なことをさせるとは気狂いとしか思えん。なぜおやめになるよう忠言しなかったのか。あなたの方が他国と通じて殿下暗殺を企んでいたのではないのか」
ゾンデの言い方には怒りがにじみ出ていた。
「そんなっ! 殿下を暗殺なんて!」
「どこまでが真実か知らないが、見たところ、あなたが暗殺や売り目的で殿下を連れ出したという感じはしない。あなたも殿下を生かしておきたいと思う気持ちは俺と同じらしい。だから俺は、今はあなたを殺しはしない。俺を疑うような女と一緒にいるのも気分が悪いが」
ゾンデは本当にマニストゥの裏切りを知らないのだろうか。疑惑はどうしてもぬぐえないが、アンジェリンは負けを悟った。ここでゾンデと言い争っていても何も得る物もない。こうしている間も、フェールの命の炎は消えかかっているのだ。
「ゾンデ様、疑ってすみませんでした。私のとった行動はすべて浅はかだと認めます。でも信じてください。私は本当にメタフ村でマニストゥに殺されそうになりました。そのことに関しては殿下の意識が戻ったら真実だとわかります。だから、私、あなた様もマニストゥの手先で殿下を裏切っているんじゃないかと思ってしまって……怖くて怖くて……」
ゾンデはむっつりとした顔のまま立ち上がった。
「先ほど街道を通過したやつらが頼れるかどうか見てくる。あなたはここで殿下を温めてお守りしていろ。とにかく早く馬車を確保すべきだ。このままでは殿下のお命が危ない。このような冷たい川原に寝かしておいてはよけいに悪化する」
ゾンデは有無を言わせない勢いでアンジェリンに命令し、河原から林に入り、ひとりで街道の方へ走って行った。
眠るフェールの傍らに座り込んだアンジェリンは、フェールの上半身を膝に抱き、あふれてくる強い不安を必死でこらえた。恐怖と寒さで歯がカチカチ鳴ってしまう。朝の河原はひんやりした冷気に包まれ、しっかりした防寒着も着ていないアンジェリンにはとても寒かった。今はゾンデを信じて待つしかない。
「お願い。死なないで」
彼は返事をしてくれない。彼の青白い顔を眺めているうちに、ゾンデが敵でも味方でもどうでもよくなってきた。たとえここで自分が殺されてフェールが敵に引き渡されようとも、彼が連れ去られた先で適切な治療を受け、生きることにつながるのならばそれでもいいかもしれない。このままここでじっとしていれば、彼は確実に命を失ってしまう。
街道へ様子を見に行ったゾンデはすぐに戻ってきた。その後ろにはセヴォローンの正規軍の兵と思われる濃紺の制服を着た数人の男を伴っていた。




