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36.追われる者たち(3)

 処置を終えて毛布に包まれたフェールは、床に寝かされて眠っている。彼の目の下は青黒くへこみ、唇の色まで白い。かろうじて呼吸していることは確認できていても、いつでも呼吸が止まりそうに見えた。


 セシャは、薬をいくつも調合し、飲ませ方を説明してくれた。薬を受け取ったアンジェリンは、荷物袋に残されていたすべての紙幣を差し出した。

「少なくてすみません。薬代と手間代としてお納めください」

 セシャは首を横に振った。

「もらえない。いくら薬がよくても、この状態では助かるかどうかわからないんだから」


 しんとしてしまうと、マロロスがわざと明るく口をはさんだ。

「おばさんたちが町まで行きたいんなら、俺が護衛してやるぜ。俺、またイガナンツの村へ戻るから」

 セシャは不審な目をマロロスに向けた。

「マロ、あんたはなに。村のみんなはそこにいるの? うちの人と一緒だった? あんたの兄ちゃんはどうしたのさ」

 マロロスは下を向いて言いにくそうに目を左右に泳がせた。

「それがさ……兄ちゃんは死んじゃった」

「グフィワエネに殺されたのかい?」

「それは違うんだけど、まあ、その話は後で。話すと長くなるから、この人たちを見送ってから。この人たち、なんでか知らないけど青星のシャムア兵に追われているんだぜ。だから今すぐセヴォローンへ逃げ帰るってさ。さっさとどこかへ行ってもらわないと助けた俺たちも共犯になっちゃってまずいんだ」

「なにそれ。ここに一緒にいる兵隊さんも青星じゃないか」

 セシャが軍服姿のゾンデを指差すと、ゾンデは低い声で答えた。

「軍で放火の疑いをかけられて逃げてきた。捕まったら殺されるからセヴォローンに帰国するしかないのだ」

「軍隊を脱走したってこと? それでディンさんが怪我をしたの? なんでそんなことになっちまったのさ。ディンさんは軍に入ったの? 祝福を受けたばかりのアンさんを置いて?」

「おばさん、それでさ」

 マロロスは、あれこれ訊こうとするセシャを遮った。

「この人たちを途中まで俺が送っていくからさ、そしたらこの人たちの馬を二頭とももらうから。薬のお代、それで足りるだろう? 馬二頭、今どきなかなか手に入らないぜ」

「アンさんたちが追われていることはなんとなくわかったけど、馬をとっちまったら、動けないディンさんをどうやって運ぶのさ」

「渓谷の梯子で川渡りをするから馬はいらないんだ。追われているからユハのつり橋を渡るのも無理だし」

「ふーん、そうかい。でもねえ、馬をもらっても困る。二頭も養う餌なんてうちにはないんだよ」

「じゃあ、売ればいい。おばさん、それでいいよな?」

「あんた、なんかうさん臭いんだけど」

「そんなことない、へへ!」

 不自然な大声で笑うマロロスに対し、セシャは眉を寄せる。

 ルウニーは会話には入ってこなかったが、あからさまに不審者を見るような目でマロロスをにらみつけていた。

 ゾンデは面をかぶっているように表情が変わらない。

 アンジェリンは、口をはさめずに黙っているしかなかった。状況が呑み込めないこの親子に心から申し訳ないと思ったが、自分たちはこのシャムア国にとっては害となる存在だ。何も言わない方がいい。

 アンジェリンは心から礼を言い、わけがわからない顔をしている母子を残して小屋を出発した。


 マロロスは、やはりあの梯子で渡る渓谷の場所を知っていた。セシャとの会話の様子から、彼女もこの場所を知っていたのかもしれないとアンジェリンは思った。

 梯子を架け替えながら渡る危険な渓谷は、薬草小屋と同様、きっと村の人たちの秘密の場所なのだろう。王都へ続く荒れた山道も隠されたように存在していたことから、一部の村人たちは、おそらく違法な薬を売って生計を立てていたのではないだろうか。


 獣道のような細い道をたどり、アンジェリンたちが行きに渡った場所のすぐ近くまで来たとき、マロロスは馬の足を少し遅くした。

「なあ、アン。ここなら誰にも聞かれないから本当のこと教えろよ」

「ん? 何かしら」

「だんなさんって、もしかしてセヴォローンの王太子? どこかで見た似顔絵に似すぎてる。だけど、結婚する予定の王太子がこんなところにいるわけがないから不思議なんだけど。王太子には双子の兄弟がいてこの人はその片割れ?」

「それは違うわ」

「双子じゃないの? じゃあ、どうしてこんなに王太子に似てるのさ。親戚とか?」

「あのね……わかったわ。本当のことを言う。でも誰にも言わないと約束して。この方はセヴォローンの王太子殿下ご本人よ。私もゾンデ様もこの方のためにここまで来たの。戦争になりそうだから、シャムア軍の状況を知るために軍に潜入する作戦だった。それで説明は充分でしょう」

「やっぱりそうか! 本物の王太子殿下だ。俺の勘、すごいだろ!」

 マロロスはうれしそうに馬上で振り返った。

「マロ、念を押すけど誰にも言わないでね」

「わかってるって。俺、うれしいぜ。俺は何をやっても駄目な人間だけど、隣の国の未来の国王陛下の役に立てたなんてさ。わーい、やったぜ!」

「浮かれちゃ駄目。戦争が始まったら私たちは敵国同士になるのよ。誰かにこのことを話してしまったら、あなたの身も危ないわ。秘密よ、絶対に秘密にして」

「わかったって言っているだろ。ルウとセシャおばさんにも秘密?」

「ええ、絶対に内緒だからね。セシャさんたち、敵の私たちを全力で助けたなんて知ったら、きっと悲しむわ。がっかりさせたくないの」

「ちぇっ! 自慢もできねえの?」


 三人はやがて梯子が隠されている渓谷へたどり着いた。そこには、フェールと落ち葉で隠しておいた梯子が動かされることなく同じ場所に置いてあった。

 アンジェリンは、心からほっとした。これは誰かが使っていた梯子である以上、持ち主が梯子を向こう岸へ持って行ってしまっていたら、という不安はずっと抱いていた。梯子がなかったらここからは帰国できず、シャムア兵に捕まる危険にさらされながら街道へ戻って北上し、検問所があるユハの吊り橋へ向かうしかなかった。


 ゾンデは低い声でマロロスに問いかけた。

「少年よ、案内感謝する。この梯子、おまえのか? これを何に使っていた」

「そ、それはね……昔からあった。俺、たまたま見つけてさ」

「これは明らかに密入国者が使うものだ。我々は重大な秘密をおまえに教えた。だから、おまえも自分の秘密を差し出せ」

「秘密なんてない」

 マロロスは下を向いてそう言ったが、ゾンデは厳しく問い詰めた。

「言え! 何の目的でここからセヴォローンへ渡っていたのか。返答しないなら俺はセヴォローンのためにおまえをここで殺す。おまえがシャムアの密偵かもしれないからだ」

 マロロスは黒い目を大きく開いて、恐怖をあからさまにした。

「梯子は昔からあることは本当だよ。密入国している、と言われたらその通りだけど。父ちゃんたちは、セヴォローンでは禁止されていて売ってはいけない薬を内緒で売りに行っていた。さっき使ったサユタタとか。でもさ、僕も父ちゃんも密偵なんかじゃない。僕だって行商に付いて行ったことがあるから知っているんだ。本当だよ、父ちゃんたちは薬を売っていただけだ」

「やはり密輸にかかわっていたか。少年よ、俺たちはおまえに助けられたから、密入国を繰り返し違法な薬を販売していた件は見逃してやる。今後、ここはセヴォローン内部に知られることになる。今度またここを渡ったら、その時は見逃してもらえると思うなよ。ここを二度と渡るな」

「う、うん、わかったよ」

「おまえとはここで別れる。俺たちが渡り終えたら、おまえが梯子を向こうへ引き取って処分しろ」


 アンジェリンはマニストゥの家でのことを頭から追い出せないまま、ゾンデの指示に従い、フェールをゾンデの背にしばりつけるのを手伝った。真面目に仕事をするゾンデの横顔には何かを企んでいる感じはしない。

 フェール殺すつもりなら、こんなところまでわざわざ連れてくるのはおかしい。対岸にマニストゥが待ち構えている可能性はあるが、今のところ対岸に人影は見えなかった。

 ──ゾンデ様を信用したい。でもどうしてシャムア軍にゾンデ様がいたの? 誰の命令?

 疑問はどこまでもついて回る。ゾンデのことは、マロロスと別れたら確かめるしかない。


 まずはゾンデがフェールを担ぎ、一番に梯子を渡った。マロロスが、梯子が浮かないよう端を押さえて手伝う。ついでアンジェリンも渡る。行きにはあれほど恐ろしかった川渡りも、帰りは風がなく、フェールの容態を考えるとおびえてぐずぐずしている暇はなかった。


 無事にセヴォローン側へ渡り切ったアンジェリンは、シャムア側へ戻るマロロスをやさしく抱擁した。

「マロ、遠いところまで案内してくれてありがとう」

「アンのだんなさんはきっと助かる。元気出しなよ。あっ、だんなさんじゃないか。王太子殿下だった」

「本当にありがとうね。マロのお母さんが無事に帰って来ることを祈っているわ」

「アン、俺の方こそありがとうな。セヴォローンが嫌になったら『ささやき亭』へ来いよ。俺、母ちゃんを見つけるまではあそこに置いてもらうつもりだからさ」

「わかったわ、機会があればあの宿へ行くわね」

 アンジェリンはそれはないと思いながらも、明るく返した。マロロスとはおそらく二度と会うことはないだろう。アンジェリンは、シャムア国ではおたずね者。


「ところで、アンってさ、これでいいのかよ」

「んっ?」

「アンはいつもこの人を待っていただろ? 俺、知っているんだぜ。この人を想って何度も泣いていたじゃないか。駄洒落を言ってさみしさをごまかして暮らしていたけど、アンが考えていたのはこの人のことばかりだった。アンは、この人と祝福を受けて二人は夫婦として認められたはずなのに、なんでさ、この人、他の人と結婚することになってるのさ。王太子殿下って向こうの国の王女様と結婚するんだろ?」

「なにを言うかと思ったら」

 アンジェリンは、ふふっ、と笑って見せたが、マロロスは笑っていなかった。黒い瞳がまっすぐにアンジェリンに向けられている。

「笑ってないで教えろよ。シャムアでやった祝福式って、セヴォローンへ行けばなかったことにされちゃうわけ? セヴォローンでは二人の相手と同時に結婚することはできないらしいよね。じゃあ、アンはどうなるのさ。身を引かされるってことかよ。アンはそれでいいのか」

「マロ……」

「アンは王太子殿下のこと本気で好きなんだろ?」

「お子様はそんなこと気にしなくてもいいのよ」

 アンジェリンはできるだけ軽く行ってみたつもりだったが、マロは引き下がらなかった。

「アンを捨てて他の女と結婚する王太子なんてクズだ。そこの谷に捨てちまえ」

「マロ!」

「ってのは冗談だけどさ。命の恩人を捨てるなんてできねえよ。俺、アンのこと大好きだぜ。俺はまだ子供だけど、アンを泣かせるような大人には絶対にならない。俺だったら、怪我をしたアンをひとりきりで異国の宿に置いて黙って出て行くようなひどいことはしない。俺、あと四年で祝福式を受けられるようになるから、そのときに、俺のこと、考えてくれないか。シャムアでは何人とでも結婚できるからさ」

「えっ……」

 ──これは、マロからの結婚の申し込み?

 アンジェリンは、もう一度マロロスの顔をしっかり見たが、彼は真剣で、冗談を言っている顔ではなかった。子どもだとばかり思っていた十二歳の少年がそんな思いを抱いていたことに驚く。

「おませさんねえ。結婚したいなら、もっと若くて素敵な女の子を探しなさい」

「笑うなよ。俺は真面目に言っているんだぜ。俺はアンを守ってやりたいんだ。俺ならずっとアンのそばにいてやれる。毎日駄洒落を言い合って楽しく一緒に暮らそうぜ。不幸にしないって約束する」

「私は大丈夫よ、心配しないで。私は不幸ではないもの」

「アンが泣くのなんて俺はいやだ。また笑って会いたい」

「そうね……みんなが笑えていればいいと私も思っている。【梯子】の【端】は危ないから気を付けて」

「ケッ、そんな駄洒落、おもしろくねえよ。アンは俺のことなんかどうでもいいんだな。王太子殿下の方がやっぱりいいのかよ。ふん、あばよ」

 マロロスは眉を下げた笑いをみせ、アンジェリンに背を向けると、梯子に取りついた。無事に渡り終えると梯子を引き上げ、アンジェリンに向かって大きく手を振った。

「くたばるなよー、アンのばかやろう。俺は別れの駄洒落なんて言ってやらないからな」

 アンジェリンも手を振った。

「マロ、元気でねー、さようなら」


 マロは馬二頭をつないで引いていき、対岸の小道を帰って行った。

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