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35.追われる者たち(2)

 アンジェリンは、わらまみれのフェールに取りすがった。

「ひどいお怪我を……」

 フェールは、息はしていたが顔色は真っ青で、アンジェリンの声にも目を開かなかった。

 アンジェリンが準備していた数々の駄洒落は、ぜんぶ吹き飛んでしまった。


「どうして、こんな」

 ゾンデが、しぃ、と唇に指を立てた。

「お静かに。止血はしましたが、血止めと痛み止めの薬が必要です。薬はありませんか? アンがいい薬を持っていると、この方は意識を失う前におっしゃっていたのですが」

 亭主がすまなそうに声を落とした。

「アンさんは高価そうな薬を惜しげもなく私たちに使わせてくださったので……お求めのお薬はもうありません。こんな時間では薬店も閉まっておりますし……」


 皆が黙り込むと、マロロスがぼそりとつぶやいた。

「ごめん、アンが持っていた傷薬は俺の村でしか作っていない秘薬で、この辺りには売っていないんだぜ。俺とアンが、母ちゃんの薬をまねて適当に作ってみた薬ならあるけど、それでもよければ使ってみる? 母ちゃんたちが作っていた薬とはだいぶ違うけど、ないよりましだ。材料が何か足らねえんだよ」

 ゾンデは即答した。

「では、その薬をお願いしたい」

「ゾンデ様、私が取りに行ってきます。すぐに戻りますので」

 アンジェリンは大急ぎで走り、宿から荷物袋と薬瓶を持ってきた。幸運なことに、先ほどの兵たちはその辺りにはおらず、誰にも咎められなかった。


 薬を持ってきたアンジェリンは、体を丸めて寝ているフェールの体位を変えようとしたが、手にベトリとついた生臭い赤い液体にまた悲鳴をあげかけた。彼の下腹部の大きく切り裂かれた傷からはおびただしい血が流れ、体の下に大きなシミができていた。

 アンジェリンは自分の顔から血の気が引くのがわかった。

 ゾンデが急いでいたのは、兵に追われているからというよりも、むしろフェールの容態が――

 必死で痛み止めを塗り、持っていたありったけの包帯で傷を押さえた。


 ゾンデは冷静さを失わない低い声で、アンジェリンに命令した。

「すぐに出発しますので馬を連れてきてください。もしも追手が来たら、自分がおとりになりますから、あなたはこの方を連れて逃げてください。いざというときは自分を見捨ててかまいません」

「わかりました」

「行程は陸路、まずはサンニの町へ、そして燃えた村付近にある渓谷の梯子経由で、と指示されております。道はおわかりでしょうか?」

 アンジェリンは頷いた。

 ゾンデが味方か敵か、疑っている暇などない。フェールはゾンデを信用し、帰国の計画をきちんと伝えている。今は薬師の村へ向かい、セシャに薬をわけてもらい、フェールの治療を最優先にする方がいいだろう。そして、行きに使った隠し梯子で帰国する。


 宿の馬屋へ行こうとしたアンジェリンを、マロロスが引き留めた。

「アンが手入れしていた馬なら俺が連れてきてあげる。ここで待っていろよ。俺の村へ行くんだろ? 俺が一緒に行ってやるぜ」

「マロ? いいの? 詳しくは言えないけど、私たちがいろいろ面倒なことを抱えていることはわかったでしょう? せっかく仲良くなってくれたけど、私たちはセヴォローンへ戻るわ」

「大人の事情なんかどうでもいい。アンのだんなさんがどういう人でも、この人は俺の命の恩人だ。今度は俺が助ける番だぜ。俺ならサンニの町まで行かなくても、チェペ村まで行ける近道を知っている。道がちょっと草だらけで歩きにくいけど、そっちの方が絶対に早いんだ」

「そう? じゃあ、遠慮なく案内をお願いするわ」

 マロロスは、少年らしく白い歯を見せて、にっこりと笑った。

「へへ。たまには俺でも役に立つだろう? 俺は何をやっていても愚図だ、ヘボだって叱られてばかりだけどさ」


 ゾンデは自分が乗ってきた馬にフェールを抱きかかえて乗り、アンジェリンとマロロスはここで世話をしていた馬に二人で乗った。

「この血まみれの馬は、安全を考慮してここで放します」

 ゾンデはそう言うと、フェールが乗ってきた血がたくさんついている馬の腹を横から思いっきり蹴りつけた。

 馬は驚いていななき、街道をすごい速さで駆け、闇の中へ消えて行った。


 月明かりの中、瀕死のフェールを連れた一行は静かに動き出した。

「ありがとうございました」

 アンジェリンが馬上から礼を言うと、ひとり残る亭主は静かに微笑んで手を振った。

「アンさん、お気をつけて。マロ、またここへ戻って来い」

「うん、ありがとう、おじさん。どうせ、俺、村には家なんてないし、ここが気に入ったからさ、またここで働かせてよ。何日も待たせないから、俺の仕事残しておいていいからな」

「ああ、気を付けて行って来い」

 アンジェリンは振り返り、別れ言葉を心の中から送った。ここへ来ることは二度とない。


 一行は月明かりしかない暗い中、馬を走らせた。ありがたいことに、フェールを追っている兵の一団は戻ってこず、進行を妨げられることはなかった。

 運ばれている間、フェールは眠っているのか、ゾンデの腕の中でずっと静かにしていた。目を閉じたままぐったりしている。

 ──生きているの?

 アンジェリンは、ゾンデに何度もそう訊ねたかったが、答えが恐ろしすぎて、訊くことができずにいた。フェールはうめき声すらあげていない。ゾンデは何も言わず、案内人のマロロスに従って馬を進めているだけだ。

 進行方向は北にあるサンニの町とは逆方向。向かっているのは南にある王都やヌジャナフ方面で、アンジェリンは大丈夫かと心配になったが、マロロスの案内で道はすぐに大通りからはずれた。マロロスは迷いなく暗い森に続く枝道に入った。

 その直後。

「止まれ。馬の音がする」

 ゾンデの声に、マロロスは馬を止めた。木が茂っていて街道から丸見えではないが、この脇道が見つかってしまえば終わり。馬が鼻息を立ててもいけない。

 闇の中で息を殺して過ぎるのを待つ。緊張の中、アンジェリンの後ろに乗っているマロロスが、ギュッと体を寄せてくれた。

 木に隠れながらじっとしていると、やがて、馬に乗った兵士たちが街道を駆け抜けていくのが見え、アンジェリンは胸をなでおろした。


「よし、やつら、行ったぜ。アン、泣くなよ。もうやつらは俺たちを見つけることはできないぜ」

「な、泣いてないわよ。さ、行きましょう」

 再び動き出す。

 道は完全に森の中で、民家はどこにもなく、すぐに細い山道に変わった。

「ここからがちょっと険しいから」

 マロロスは自分だけ馬から降りると、ランタンを手に先を確かめながら、アンジェリンが乗っている馬を引いて慎重に進み始めた。後ろから馬上のゾンデがゆっくりとついてくる。


 道標などなく、ましてやこんな夜中、誰も歩いていない。道の踏み跡も薄く、獣道なのか本当の道なのかの区別すらつけにくい。

 あまりにも草ぼうぼうで、あちこちに木の枝が飛び出している厳しい道に、無口だったゾンデが突然口を利いた。

「おい、少年。本当に道は正しいか? まさか、ここまで来て、道に迷った、と言わないだろうな」

 マロロスはむっとした様子で返した。

「この人は俺の命の恩人だって言ったじゃないか。俺だってこの人を助けたくて必死なんだ。近道を使わなきゃ、帰国に時間がかかりすぎて、この人、絶対に死ぬぜ」

「いやよ、そんなこと言わないで」

 アンジェリンのきつい声にマロロスは少し声を落とした。

「ごめん、アン。俺の村の薬があれば、この人はきっと助かる。暗くて不安だろうけど、この道で大丈夫だぜ。ほら、ところどころに頭ぐらいの大きさの岩が二つずつ並べられているだろ。これが道しるべ。道が荒れているのはこの辺りだけで、右に大きな岩があるところを回り込むように過ぎると、すぐに歩きやすい道になる。父ちゃんたちは王都へ行くときいつもこの道を使っていたんだぜ」

 マロロスが言った通りだった。それからいくらも行かないうちに、人の背丈の倍はあると思われる巨大な岩の横を過ぎると、そこからは急に道幅が広がって歩きやすくなった。その先はマロロスも馬に乗り、一行は距離を稼いた。


 山間部の空気は冷たい。アンジェリンは寒さで首をすくめていた。今日は晴天になるのか、普段よりもいっそう冷え込みを感じる。マロロスと二人で馬に乗っているにも関わらず、指先も足もすっかり冷え、感覚がなくなってきていた。雨が降っていないことがせめてもの救い。冬がそこまで来ている。


 チェペ村に近づくに従って、辺りは徐々に明るくなってきていた。

 やがて一行は無事に燃えた村に到着した。薄暗い中に広がる廃墟は静かでさみしい。やはり誰もいなかった。

「ここが薬師の村チェペか?」

 ゾンデが不機嫌なままの声で訊ねる。

「おう、そうだぜ。兵隊さんさ、俺が嘘ついて変なところへ案内しているってずっと思っていた? これで疑いは晴れただろ? 俺の家、あそこにあったんだぜ」

 マロロスが指さした先には焦げたがれきの塊しかなかった。

 ゾンデはそれ以上何も言わなかった。


 マロロスは、ルウニー母子が住んでいる薬草小屋まで案内し終わると、ようやく笑顔を見せ、得意そうに馬から飛び降りた。

「へへっ、ちゃんと着いたあ。俺、すごい?」

 アンジェリンも少しだけほっとして笑顔になっていた。

「ありがとう、すごいわ、マロ。あんな山道、よく知っていたわね。まだ朝早いけど、ルウちゃんたちを起こしてくれない?」

「まかせとけぇ!」 

 マロロスは小屋の扉を乱暴に叩いた。

「おはようございまーす。近所のマロロス・ワッキニだぜ。おーい、ルウ、セシャおばさん、いるんだろ? 開けてよ」


 アンジェリンも馬から降りたが、正体を失くしたフェールを抱いているゾンデは降りられず、そのまま馬上で待っていた。

 やがて扉が内側から開けられ、セシャが顔をのぞかせた。

「マロだって? ワッキニさんちのマロロス? 帰ってきたのかい? 村のみんなも一緒?」

 セシャは、マロロスが連れてきた一行をじろじろと見た。馬上でぐったりと力なく抱かれている男が、先日髪を染めてやった男だと認識すると、一気に目が覚めたようだった。

「アンさんじゃないか! ディンさん、いったいどうしたのさ。あんたの傷だってまだ」

「私はいいんです。それよりも夫が大怪我をしてしまって……ずうずうしいお願いですみませんが、前にいただいたのよりも強いお薬があると言っておられましたよね? それを夫に分けてほしいのです。あのときにいただいたお薬はとてもよく効きました。高価なお薬だと思いますが、今日はパンで支払うことも町までの護衛もできません。そのかわり、今持ち合わせの紙幣すべてで支払い、それでも足らなかったら私、ここに残って何でもします。お願いします、薬をください。夫を死なせたくありません」

 アンジェリンは半泣きになりながら頭を下げた。

 セシャは言葉に詰まり、マロロスの方に目をやった。

「薬ならあげてもいいけどさ……なんで、かけおちしたアンさんがここに戻って来て、ディンさんが大怪我してて、しかも兵隊さんが一緒で、マロまでそこにくっつているのさ。村のみんなはどこ?」

「おばさん、それは後で話す。俺からもお願い。今すぐにこの人をどうにかしてやって。すごくいっぱい血が出ちまってる。ヤバいんだ。この人は俺の命の恩人でさあ、どうしても助けてあげたいから俺の案内で山を越えてここに連れてきたんだぜ。傷薬の強いやつ、ない?」

「わかった、治療してやる。小屋の中へ運んで。村のみんなと一緒じゃないんだね?」

「ごめん、おばさん。俺だけ」



 セシャは、寝ていたルウニーを起こし、小屋の前にある泉の水を汲む手伝いを命じた。寝ぼけ眼のルウニーは、この不思議な取り合わせの訪問客に驚いた様子だったが、真っ青なフェールを見ると、あれこれ聞かずにすぐに行動してくれた。

 セシャは泉の水を沸かした湯でフェールの傷をきれいに洗い流し、傷の状態を確認した。

「これは……ちょっと……ルウ、サユタタを持って来て。わかるかい? 棚の一番下の段の左奥。少しだけなら残っていたはず」

 すぐにルウニーがそれと思われる親指の長さほどの小さな瓶を持ってきた。瓶の中には何かの種と思われる細かく茶色い粒が混じった液体が入れられていた。セシャがそれを棒の先に付け、フェールの口に突っ込む。

「吐くかもしれないから、しばらくは目を離しちゃだめだよ。ちょっときつい薬だから」

 アンジェリンたちが見守る中、セシャは傷口にも同じ薬を塗りつけ、服を裂いて作った包帯と焦げた毛布で体をぐるぐる巻きにした。


 セシャの顔は厳しかった。

「アンさん。残念だけど、あたしができる治療はここまで。ここから先は医術師の仕事。なにぶん傷が大きすぎるんだよ。内臓が飛び出す一歩手前じゃないか。よくここまで来られたね。今すぐ町へ連れて行って、腕のいい医術師に縫い合わせてもらった方がいい」

「はい……」

「薬は希望通り、ここにある中では一番強いの、サユタタの実を使ったからね。死にかけの病人用、きつくて幻覚作用もあるからセヴォローンでは禁止されている代物さ」

「その薬を塗っておけば大丈夫なんですね?」

「うーん……止血と痛み止めとしては効くはずだけど、傷口がこれだから……あまり期待しない方がいい。覚悟はしておいたほうがいいよ」

 セシャは小さな声で残酷な言葉を漏らした。

 『覚悟』。

 アンジェリンは喉に流れ込んでくる涙を飲み、唇を噛んだ。


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