34.追われる者たち(1)
「おい、亭主。そこにいる女はアン・ヴェーノか?」
入ってきた兵士たちに指を刺されたアンジェリンは、逃げることすらできず、息を止めていた。
「我々が追っているディン・ヴェーノという男の緊急連絡先がこの宿になっているのだ。そいつの妻、アンの居場所もここだと記載されていたのだが」
亭主は、首元をつかまれながらも、機転を利かせた。
「違います。これは俺の妻ですよ。もちろん、重婚ではありません。なあ、おまえ」
アンジェリンは、コクコクと頷き、不快そうな顔を作って見せた。いかにも、人違いで迷惑している、とわかるように。声での反論はできない。下手にしゃべればセヴォローンなまりが出てしまう。
「そうか。この女はおまえの妻で、アンという女ではないのだな?」
兵隊たちは、アンジェリンをじろじろ見たが、アンジェリンが亭主とお揃いのエプロン──『ささやき亭』と刺繍が入った赤いそれ──を身に着けていたため、亭主の言ったことを信じたようだった。
「では、あらためてもう一度聞くが、怪我をした男は本当にここに来ていないか?」
「存じません」
アンジェリンは、テーブル下の膝の上で、震えるこぶしを握りしめた。指先が細かく震えるのを押さえられない。
──ディンが怪我をして追われているの?
兵士たちが探しているのは『怪我をしている男』であり、その妻はこの宿に滞在していることになっている『アン・ヴェーノ』。
この情報から、フェールが怪我をしたことは確実だと思われた。
亭主はアンジェリンのために嘘を重ねてくれた。
「兵隊さんたちがお探しの名前の女は、長い黒髪で背の高い女ですよね?」
「どんな女なのかまではわからん」
「その女なら、二階で長期滞在しておりましたが、今朝急いでどこかへ飛び出していったきり、まだ帰ってきておりません。宿代を踏み倒されると困るんで、見つけたらここへ連れてきてください。やせぎすで顎がとんがった女だからすぐにわかりますよ」
「女は逃げたとおまえが思っているだけで、まだこの宿内のどこかに潜んでいるかもしれん。一応、全部の部屋を調べさせてもらうぞ。部屋の鍵を開けろ」
兵士たちは、亭主を連れてドスドスと大きな靴音を立てながら階段を上っていった。
アンジェリンは肩に力を入れたまま、声も出せずに固まっていた。今なら扉を開けて外へ逃げることはできるかもしれないが、それでは自分が捜されている女だと言うも同然だ。
兵士たちは、亭主の案内で二階を細かく調べはじめた。アンジェリンがいる一階まで声が聞こえてくる。
「それがその女が宿泊していた部屋です」
「部屋にぬくもりがない。畜生、どこへ行きやがった。だいぶ前に荷物を捨てて逃げやがったか。すでに男と合流したかもしれん。だが男の方は傷を負っている。そう遠くには逃げられないはずだ」
すぐに一階の酒場へ戻ってきた兵士たちは、アンジェリンには目もくれず、カウンターの下などを調べ、亭主の私室まで踏み込んだ。
「寝台の下に誰か隠れているぞ! 引きずり出せ!」
兵たちの声とともに、マロロスの叫び声が聞こえた。アンジェリンは思わず立ち上がり、亭主の部屋へ向かった。
「いやだー! 俺は何もしてねえよう!」
アンジェリンが亭主の部屋へ行くと、兵隊に腕をつかまれたマロロスが半泣きになっていた。
亭主が必死でかばう。
「兵隊さん方、子供を離してやってください。この子はこの前入って来た強盗に怪我をさせられたばかりなんです。誰かが入ってくると怖がってしまって……」
兵たちは亭主の主張を認め、マロロスを解放した。少年は解き放れた獣のように、自分の部屋へ逃げていった。
「亭主、邪魔したな。息子を怖がらせてしまったことは謝罪する。我々が追っている男はこんな子供ではなく、セヴォローンの王太子にそっくりな顔つきの美男で、セヴォローンなまりだ。背は高い方で、そんな子供に変装することは不可能だし、腹に傷を負っているからすぐにわかる。見かけたらすみやかに通報しろ」
「へい、承知しました」
兵たちは去って行った。
馬の音が遠ざかり聞こえなくなると、アンジェリンは亭主と目を合わせた。
「すみません、私をかばってくださり、ありがとうございました」
「いいんですよ。アンさんのご主人は、体を張ってこの店、いや、この村を守ってくれた英雄です。そんな人を売ることなんてできません。あの方が兵隊さんに追われるとは、いったいどういうことでしょう。ただ者ではないと思っていましたが」
「何があったのかわかりませんが、あの人が追われている以上、私はここにはいられません。今夜のうちにここを発ちます。短い間でしたけど、本当にお世話になりました」
アンジェリンが頭を下げると、亭主は驚いた顔をした。
「こんな夜中に女一人でどこへ行くおつもりですか」
「帰国しようと思います。これ以上迷惑をかけ続けるわけにはいきません。夫が怪我をしているならなおさら、ゆっくりはできません。今すぐに出て行きます」
アンジェリンは荷物を取りに二階への階段へ向かおうとしたが亭主はさらにひきとめた。
「発つならせめて明るくなってからにした方がいいですよ。夜は危険です」
「でも……」
「この時間に外に人がいるなら、それは強盗かグフィワエネです。女はさらわれて売られてしまいますよ。最悪の場合、乱暴されて無残に殺されます。兵もあなた方を探しているようですし、ご主人もあなたが捕まることは望んでおられないでしょう。どうか、今夜だけはお泊りください」
亭主の言うことは脅しではなくもっともなことだ。
アンジェリンは迷い、客室への階段途中で足を止めた。夜が明けるまではここにいた方がいいだろうか。しかし、明日の朝までここにいて大丈夫とは思えない。
村人の誰かが、『セヴォローンなまりのディン・ヴェーノ』がここで英雄的に活躍し、妻と多くの人の前で一緒にいたことを証言したら終わり。兵士たちが探している『ディンの妻』がここにいる女と同一人物だと兵たちに悟られてしまう。
幸いなことにフェールを追っている青星の兵と、グフィワエネたちを処刑した赤星の兵との情報連携はなさそうで、この村でのフェールの活躍のことは、先ほどの兵たちは知らないようだった。
それでも、安心してはいられない。逃げている男とセヴォローンの王太子がそっくりな顔だとすでに情報が出ている以上、すぐに足が付く。かばってくれたこの店にも迷惑がかかる。ただ、外へひとりで出て行っても、それはそれで危険なことは間違いない。
アンジェリンが迷い続けていると、自分の部屋へ戻っていたマロロスが、飛び出してきた。
「おじさん、大変だ。誰かが裏口に来た」
――ディン!? シャムア兵たちをやりすごして迎えに来てくれたの?
アンジェリンは裏口へ向かって駆けだしていた。
「待ちなさい、アンさん。むやみに扉を開けてはいけません。夜盗かもしれない」
亭主は引き出しにしまってあった短剣を手に取った。
裏口は、通常は酒樽の搬入に使うための扉で、通りからは全く見えない位置にあり、ここから客が入ってくることは、普通はない。
武器を携えた三人は、静かに裏口に近づいた。
確かに、裏口の木の扉を外から小さく叩く音がする。しかし、それは家人を呼ぶためとしてはあまりにも弱々しく、そして、周囲の家への音もれを気にしているような遠慮がちな音だった。小動物が扉をひっかいているとは思えず、コツコツと二つずつ、規則的に音が続く。
亭主が内側から声をかけた。
「ご宿泊なら受付けます。恐れ入りますが正面玄関へお回りください」
すると、外から押し殺したような声が返ってきた。
「夜分、失礼する。この宿にいるアン・ヴェーノという名の女性を呼び出してほしい」
低い男の声。
しかし、フェールの声ではなかった。
アンジェリンは激しく脈打つ胸を押さえ、亭主にささやいた。
「相手の名前を聞いてください」
頷いた亭主が外の男に名を訊ねた。
「お客さん、その、アンって人のお知り合いですか? では、あなた様のお名前をうかがってもよろしいかね?」
「俺はゾンデ・マクエ。某貴族の従者だ。アンにそう伝えてもらえばわかる。彼女がこの宿にいないのなら、すぐに退去する」
アンジェリンは体を堅くした。
──ゾンデ様!
シドの従者の猫背の男。セヴォローンなまりの声には聞き覚えがあった。たぶん本物のゾンデだ。
この男はマニストゥの仲間で裏切り者かもしれない。そんな男がなぜ、アンジェリンの居場所を知っていて、しかもこんな夜中に、フェールが負傷して追われているらしいのに、ここに現れるのか。フェールはゾンデに襲われて逃げている可能性もある。
外のゾンデはせわしげに返事を催促した。
「アンはいないのかと訊いている。すぐに返答してもらいたい。急いでいる」
アンジェリンは覚悟を決めた。ゾンデが敵であったとしても、このまま扉を開けずに彼を帰せば、フェールの手掛かりはなくなってしまう。
「アンはここにおります。私です」
アンジェリンが扉越しに告げると、ゾンデは「よかった」と安堵の声を出した。
「大至急、お話したいことがございます。大声では話せません。扉を開けていただきたい」
アンジェリンは亭主に目で合図した。
扉を細く開いた。
ゾンデ本人に間違いない。
闇を背景にした猫背のゾンデは、いつもに増して不気味に見えた。彼はシャムア国軍の青い星が入った制服を着ており、その服にはあちこちに赤黒いシミがあった。
ゾンデの背後には誰もおらず、さきほど来た兵たちがゾンデと手を結んでいるようには見えないが……。
アンジェリンはすぐに疑問をぶつけた。
「なぜ、ゾンデ様がここにいらっしゃるのですか。そして私がここにいることを知っているのですか。誰から聞きました?」
「詳しい説明は後で。御主人が重傷を負ってあなたを呼んでおられる。すぐに治療すべく移動せねばなりません。一緒に来てください」
「あの人はどこにいるのです?」
「すぐそこの民家の馬屋であなたを待っておられる。時間がありません。ご案内いたしますから早く」
ゾンデの言い方には切羽詰まったものがあった。
「お話はわかりましたが……」
そう返事をしたアンジェリンだったが、不安はピークに達し、声の震えを押さえることはできなかった。
もしも、これがフェールをおびき寄せるため、ゾンデとマニストゥの仕組んだ罠だったとしたら。
自分はまた捕まりフェールの足かせとなる。フェールは、たとえ自分が怪我をしていても、アンジェリンを助けるため、命をかけて戦うだろう。アンジェリンの代わりに人質になることでも彼はためらわない。
「本当に夫が来ているのですか? 場所はすぐそこですか? 申し訳ありませんが、いろいろあって、私はゾンデ様を信じることができません」
アンジェリンは胸ポケットに忍ばせてある短剣の感触を確かめた。いざというときは、これでゾンデを刺すしかない。
そもそも、アンジェリンはゾンデのことをほとんど知らないのだった。そして彼がどこまでセヴォローンやシドに忠誠を誓っているのかも全くわからない。
アンジェリンの反応に、ゾンデは不機嫌な低い声になった。
「このゾンデを信じるとか信じないとか、そのようなことを議論している場合ではありません。我々には時間がない。俺とご主人は共にシャムア兵に追われている、と言えば事情を察していただけますか? 彼らを出し抜いてここまで逃げてくることは大変なことでした。ぐずぐずしていたら最悪の事態になりかねないのです。御主人は重体です。走れる状態ではない」
ただならぬゾンデの声音。あせりが混じっている。
アンジェリンは、とりあえずゾンデを信じてみることにした。
「わかりました。あの人のところへ案内してくださいませ」
「こちらへ」
ゾンデは、月明かりしかない中、足音を忍ばせて近くの民家裏へ向かっていく。不安そうなアンジェリンの様子を心配した亭主とマロロスが、ランタンを手に一緒についてきてくれた。
案内された民家の馬屋の中に、わらを積んだ小型の荷車が置かれていた。
ゾンデが、積み上げられたわらを乱暴にどけると、狭い荷台に体を丸め、腹を押さえるように横になっている人間が現れた。その腹部には止血用の布が何重にも巻かれていたが、それは真新しい血液に染まっている。
真っ青な顔。苦しそうな呼吸。
アンジェリンは大声をあげそうになり、自分の口を押えた。
「ディン!」




