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31.ひとり

 アンジェリンを宿に残してきたフェールは、小雨の中、ひたすら南へ向かって歩いていた。時折、ぬかるみの道を馬車が通るが、人通りはほとんどない。

「アン……すまない」

 フェールが、アンジェリンの体が熱っぽいことに気が付いたのは、何度目かの愛の行為が終わってからだった。乱れてはずれかけた包帯の下の彼女の傷口を見た時、酔いは一気に冷め、悲鳴をあげそうになった。

 アンジェリンの左肩にある傷……イルカンの短剣にやられた傷跡は痛々しかった。まだしっかり固まっていない傷は、体液が浸出してジクジクしている上、肩全体が赤黒く変色し、かなり腫れていた。


 フェールは、歩きながら無意識に歯を食いしばっていた。

 ――あのようなひどい怪我を負った女性を衝動にまかせて抱くとは、私はなんという身勝手で自分のことしか考えない男なのか。

 いくらいい薬を使っているといっても、あの傷が痛くないはずはなかった。そんなことも考えず、気の向くままアンジェリンの体を何度も。

 乱れた髪。熱い吐息。汗ばんだやわらかな肌にそそられた。

 夢中だった。アンジェリンに包まれていると、人を殺した恐怖が薄らいでいく。何もかも忘れて、ずっと満たされていたかった。

 アンジェリンの傷は、内臓に達するほど深くはなかったが、傷は、よくなるどころか、以前見たときよりも、悪化しているように見えた。小さな傷でも、傷口から腐って死に至る場合があることぐらい知っている。

 ――アンの体は限界にきている。このまま旅を続ければ、彼女は怪我の回復ができず、最悪の場合は……死ぬ……。

 

 フェールは、暗い気分のまま歩き続ける。

 ――最優先事項は、アンの回復だ。

 シャムア軍に潜入後、フェールが無事に作戦を終え全力でこの国を脱出すべき時に、アンジェリンが寝込んでいてはどうしようもない。砦問題の決戦日はじわじわと迫り、アンジェリンの回復をゆっくり待ってやれるだけの時間はない。国のことなど忘れて、アンジェリンのことだけを想うならば、片時も彼女のそばから離れず、怪我の回復を待ってやればいいことはわかってるが。

 ――いや、それでは、彼女は無理に国外へ連れ出された挙句、大けがを負っただけになってしまう。彼女は私のために、ここまで共に来てくれた。必ず、一緒に帰国し、彼女を正式な妃に。


 いろいろ考えた末、フェールが出した結論は、ひとりでただちに出かけること、だった。

 ――アン、私は必ずやるべきことを成し遂げ、おまえを迎えに来る。おまえのことを皆に認めさせてみせる。だから、頼む、それまでに怪我を治してくれ。

 眠るアンジェリンを起こして別れを告げようとしたが、思いとどまった。一緒に行くと言いはられて泣かれたら、突き放せる自信などない。


「予定外ばかりだ」

 苦い思いが愚痴となってこぼれ落ちる。この旅は、本当に予定外のことしかない。

 マニストゥが裏切り者だったことだけでなく、アンジェリンを中途半端な場所であるイガナンツ村にひとりで置いて行くことも予定外。それでも、アンジェリンを置き去りにした結論は正しいと自分に言い聞かせながら、ひたすら歩を進めた。

 ――アンはしっかり者だ。どのような状況でもうまく切り抜けてくれる。あの村で養生していれば、必ずよくなる。

 アンジェリンの世話をする者も、護衛も、医術師すらもつけられなかったことは残念だったが、信用できる人間を探す時間などなく、どうしようもなかった。

 できるだけ早く戻ってこられるよう、がんばるしかない。砦の撤去期限まで、計算違いをしていなければ、あと三十日ほど。


 フェールは、アンジェリンの回復を祈りながら、南西に進路を変更し、王都ラトゥクへ向かった。当初の第一目的地だったヌジャナフの町へ行くのに最も近い道は、宿の亭主が言っていたように、川の増水で橋が水没して渡れなかった。ヌジャナフへは、王都ラトゥク経由で行くことに決めた。



 フェールが王都ラトゥクに着くころには、雨は止み、雲が切れ始めていた。

 広い王都内を急ぎ足で簡単に視察した。海とつながった川が町のあちこちに入り込んでおり、小船が狭い水路を行き来している。

 ラトゥクはシャムア教の聖地、というだけのことはあり、祭りでもないのに、どこもかしこも人だらけだった。

 多くの人が祈りに訪れる大聖堂は、王城の敷地の中にあり、そこへは自由に入ることができた。聖堂の中には、二階建ての高さほどもある巨大なシャムア神像が設置されており、大勢の人がその前で祈りをささげている。聖堂の背後にある巨大な建物群は、一般人立ち入り禁止で、シャムア王の住まいはその奥にあると思われた。


 人が集まっている情報広場、と呼ばれる場所には、大きな木の板がいくつも建てられており、そこに、紙が何枚も貼ってあった。紙には、祭りの告示や、逃走犯罪人の似顔絵など、いろいろなことが書かれていたが、その一つには『セヴォローン王太子、ザンガクム王女と婚約』の情報もあった。セヴォローンとザンガクムの間で、二組の王子と王女が結婚することが記されている。

 フェールは、心の中で苦笑いした。その王太子がここにいるとは、周囲の誰も気付かない。

 ――父上は予定通りザースを出国させるおつもりらしい。絶対にそうはさせぬ。


 情報版には、兵士募集中の紙もあった。紙に書かれた地図を覚えこみ、目的の建物へ向かう。情報広場へ行けば傭兵の情報が入る、とマニストゥが言っていたことは本当だった。


 フェールは兵を募集している建物に注意深く近づき、慎重に扉を開けた。マニストゥの手先が先回りして中に潜伏しているかもしれない。あるいは、ここ自体が、フェールを捕まえるための偽の兵士募集場ということもありうる。マニストゥを信用して、シャムア軍に潜入するつもりだ、と情報を与えてしまったことが悔やまれる。


 中に入ると、正面の長机に、シャムア軍の軍服を着た年配の男がひとりきりで座っていた。

 男はフェールの顔を見ても、何の感情も示さなかった。大声を出して誰かを呼ぶ様子はなく、獲物を待ち構えていた獣の雰囲気はない。どうやら、マニストゥの手先とは関係ない相手だと、フェールは判断し、胸をなでおろした。


「傭兵になりたい。腕に自信はある。格闘が得意だ」

「志願者か。付いて来い」

 案内されるまま、さらに奥の部屋へ入り、命令されるままに、服を脱いで身体検査を受けた。


 男はフェールをひととおり見ると、満足そうな声を出した。

「いい体つきだ。重大犯罪人の烙印もなく、病気も持っていないようだ。名と出身、歳、を言え」

 フェールは年齢をごまかすことにした。実年齢は二十だが、若すぎると、この国へ来た理由が不自然に思われる。

「ディン・ヴェーノ、セヴォローン国エンテグア出身、二十四歳」

 アンジェリンの家名を借りた。

 男は、フェールの短くなった髪に手を触れた。

「おまえはなんだ、頭髪と下の毛色が違っている。まつ毛も眉も染めているだろう。普通はまつ毛まで染めないものだ。ここへ来るまでは何をやっていた」

 フェールは勤めて平静な顔で返答した。

「元はセヴォローンの兵士をやっていた。階級は小二位。要するに、平民出身ゆえ下から二番目の扱いになる平兵だ。セヴォローン軍は貴族しか優遇せず、私のような平民出身者は、よほどのことをやらない限りこれ以上の出世は望めない。嫌気がさして無断で軍を抜けて、国を捨てて逃げてきた」

「セヴォローン軍の脱走兵か」

 フェールは肯定し、作り話を並べた。

「逃走のために髪を染めた。セヴォローンにはもう帰れない。この国の兵になってセヴォローンと戦い、手柄を立てて出世して、私を軽んじた者たちをたたきのめしてやりたい。川中の砦の戦いに参加させてもらいたい」

「なるほど。身体能力の高いやつがそれなりの評価を求めたい気持ちは理解できる。セヴォローン軍では平民兵の待遇がよくないことはよく聞く。セヴォローンからは、おまえのように、待遇に不満を持つ者が時々ここへやって来るからな。我がシャムア軍は外国人でも能力がある者は大歓迎だが、問題がひとつだけある」

 受付の男はフェールの顔を正面から見て、言葉と態度にほころびや乱れがないか注意深く探っている。フェールはひるまず、胸を張って男の顔をしっかり見返した。

 男は続けた。

「それは、セヴォローン人のおまえが、同国人をその手で殺せるかどうかだ。我がシャムア国軍は砦の決戦を控え、即戦力になれる兵を求めているが、いざというときに寝返ってもらっては困る。殺す相手が知り合いだったらどうする」

「命じられれば、相手が誰であろうともやってみせる。向こうでは身分のことでいつも馬鹿にされ続けてきた。知り合いを殺すことだってためらいはしない」

「相手が自分の親兄弟だとしたらどうだ?」

 フェールは頭の中で、父王ラングレの顔を思い描いた。父王は、いつもいつも、できのいい弟とフェールを比べては、フェールばかりけなしていた。そんな理不尽な父に何も言ってくれない母。黒い感情を膨らませて言葉にする。

「両親でも兄弟でも関係ない。敵は敵だ。殺す」

 フェールの底冷えする言い方に、相手の男は驚き、一瞬、言葉を失ったようだったが、すぐに気を取り直したようで、満足そうに、首を縦に二、三回動かした。

「いいぞ、その気迫。今の気持ちを忘れるな。後でその決意を試してやる。おまえは、身体能力は高く、やる気もありそうだが、口の利き方が少々なまいきだ。上官にはもっと丁寧な口調で接するように。合格だ、今日から採用する」


 フェールは、入隊に必要な書類を渡された。

 緊急連絡先は、アンジェリンがいる『ささやき亭』にし、彼女を唯一の家族、正式な妻として記入した。

 これで、もしもフェールが兵として戦いで死んでも、アンジェリンがあの宿にいる限り、いつか連絡は届く。しかし、彼女が何らかの理由であの宿を去る、あるいは『ささやき亭』が放火でもされて無くなっていたら、その時はフェールの死は誰にも伝わることはない。それに、逆に、アンジェリンの身に何かあっても、フェールには何の情報も届かない。

 ――あってはならないことなど今は考えるまい。

 フェールは、アンジェリンの潤んだ緑色の瞳を思い浮かべた。

 ――熱は下がっただろうか。さぞかし心細いことだろう。


 心配は尽きない。傷を負った女ひとりではどこにいても危険で、ささやき亭も安全とは言えない。この瞬間にも、あの宿の亭主が、アンジェリンをどこかに売り飛ばす算段をしているかもしれない。亭主が合い鍵を使ってアンジェリンの部屋に忍び込む可能性もないわけではない。

 フェールは、心にしみ出す不安と自己嫌悪を必死で抑え込んだ。

 ――すべては、私の甘さが招いたこと。私のせいで、アンに苦しく悲しい思いをさせているのだ。一日も早く、彼女の元へ――


「さっさと書け!」

 フェールは現実にひき戻された。

 書類を書き終わると、すぐに制服が支給された。真新しい濃い緑色の軍服。胸ポケット部分には、青い星が一つ刺繍されていた。

 ――よかった、運よく青星だ。

 フェールは安堵の表情を見せないよう気をつけた。胸ポケットの青い星は対外向け部隊を示す印。これならば、砦の戦線に配属される可能性がある。もしも、これが赤い星の刺繍だったならば、内陸の治安維持部隊に配属になるところだった。

 あとはどこの配属になるか。ガルダ川方面とはまったく関係ない遠い場所に配属されたら、即日逃亡するしかない。


 青星の軍服に身を包んだフェールは、どこからかやって来たシャムア兵数名と共に、軍の補給物資を積む仕事を手伝わされたあと、荷物と共に幌馬車に乗るよう命じられた。行く先は聞いていない。

 フェールは数名のシャムア兵たちと共に、押し込まれるように馬車に乗せられ、すぐに馬車は動き出した。

 荷物と人でいっぱいの幌馬車の中は暗く、外はまったく見えない。馬車の中に一緒にいる兵たちは皆、暗い中で人形のように黙り込んでおり、まるで、死刑場に連行されていく罪人の群れのようだった。私語は禁止されており、たまに目が合っても、名乗ることもない。

 どちらの方向へ進んでいるのかもわからない。

 静かに進む幌馬車の中、フェールは不安を抱いたまま馬車に揺られ続けた。


     ◇


 一方、ひとりで宿に残されたアンジェリンは、突然入って来たグフィワエネの少年の手当てを終え、馬小屋へ向かった。どんなに具合が悪くても、馬の世話だけはしておくこと、それが今の自分の仕事だ。

「えっと……」

 アンジェリンは、意気込んだものの、いざ、馬を前に立つと、戸惑ってしまった。馬の世話などしたことがない。とりあえず、餌をやっておくことにした。水や餌の場所は、先ほどささやき亭の亭主から聞いたばかりだ。

 馬の餌代もすでにフェールが支払ったらしい。それならば、馬の餌を求めて買い物に行かずにすむ。彼が支払った代金は十日分。


 ――馬のお世話だけなら、侍女のお仕事をするよりきっと楽よね? 大丈夫、彼は十日も経たないうちに戻って来てくれるわ。

「ちゃんとやっておかなきゃ」

 すぐにここから出ていけるように。 

 熱っぽくだるい体を無理やり動かし、泣きそうになってしまう気持ちを奮い立たせる。


 馬の前に餌を置いてみた。

「ほら、お食べ。いらないの? キャッ!」

 馬が、いきなり、ブヒッ、と鼻息をかけてきて、アンジェリンは悲鳴をあげて後ろへ飛びのいた。


「お姉さん、何やってんの?」

 突然後ろからかけられた声に振り向くと、先ほどのグフィワエネの少年が立っていた。少年は宿の亭主の息子の服を身に着け、すっきりした顔になっている。

「何って……馬に餌をあげようと思って」

「それじゃあ馬がかわいそうだろ? 餌をやるのは、古い食べ残しをどけてからだ。食べ散らかしの放置は病気の元。ちゃんと掃除して、水も入れ替えてやれよ」

「あっ、そうよね。まずはお掃除をすればいいのね? 私、馬のお世話をするのは初めてなの。教えてくれてありがとう。あの、えっと……」

「俺はマロロス・ワッキニ。傷の手当、ありがとうな。マロって呼んでいいぜ」

 黒髪巻き毛の少年は、不揃いの歯を見せて軽く微笑んだ。

「私はアン……よ。よろしく、マロ」

「馬の手入れ、やったことないんなら、俺が教えてやるぜ。俺、しばらくここの宿でお世話になることになった。宿のおじさんがさ、自分の息子の部屋も服も使っていいって言ってくれたんだ。俺のことは、グフィワエネの捕虜で奴らの盾にされていたってことにしてくれるって。それなら治安兵に捕まらなくてもいいんだろ?」

「よかったわね。もう悪いことはしちゃ駄目よ」

「わかっている。楽しんで悪さをしていたわけじゃねえよ。あんな生活、もうごめんだぜ」

 アンジェリンは、海賊たちの処刑場面がよみがえり、息が苦しくなった。この巻き毛の少年は、実の兄を亡くしたばかり。父親も無残に殺され、母親も行方知れずと言っていたことを思い出した。


 ――私が暗い顔をしていてはいけないわね。この子の方がつらい目に遭っているもの。いつものように、楽しいことを考えよう。

「マロは、私が【馬】に【うま】く餌をあげられたら、【うま】いね、とほめてくれるかしら」

 マロロスの口が、はぁ? と半開きになる。

「何それ、駄洒落? 変なの」

「私、変? そ、そうかしらね。私がおかしくったって誰も困らないでしょ? ふふっ、私はずっとこうして生きてきたんだもの」

「ふーん、もたもたしていて【馬】の糞に【埋ま】るなよな」

「【うま】く言ったわね」

 馬小屋に笑い声が広がった。




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