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30.雨の日の朝

 翌日、アンジェリンが目覚めた時、雨音は小さくなっていたが、雨はまだ止んでいないようで、水滴が屋根から垂れる音がまだ聞こえていた。

 アンジェリンはフェールに予定を確認しようと思ったが、抱き合って眠りに落ちたはずの彼は、室内にいなかった。おそらく、彼はいつまでも起きないアンジェリンを待ちきれず、さっさと起きて腹を満たしに階下へ降りて行ってしまったに違いない。

 

 アンジェリンは眠い目をしょぼつかせつつ、ゆっくりと起き上がった。足腰が重い。

 フェールがすでに起きているということは、今は、いったい何時なのだろう。雨のせいで、窓の外は薄暗く、時間がわからない。昼近くまで寝過ごしてしまっただろうか。けだるい体を動かし、荷物袋から櫛を出そうとして――。

「えっ……?」

 昨夜、並べて置いていた荷物袋が一つしかない。あるのは自分の荷物袋だけ。

 嫌な予感に、急いで一階へ降りて行くと、宿の亭主がアンジェリンの顔を見るなり、声をかけてきた。

「御主人から伝言です。『出かけるから、迎えに来るまで馬の手入れをしながらここで待つように』とのことです」

「夫は出て行ったのですか?」

「朝一番で歩いてお出かけになりました。昨夜から大雨ですから、南のヌジャナフ方面に行くには、増水で橋が渡れなくて通れないかもしれないと忠告さしあげたのですが、渡れなかったら王都へ行くことにするとおっしゃって」


 ヌジャナフは、シャムア国軍が砦問題で兵を置いている河川敷に最も近い町。この町は、セヴォローン側の町イクスアランの、ガルダ川を挟んでちょうど対岸に位置している。フェールは最初からここを目指しており、ヌジャナフに近寄れそうになかったら、王都ラトゥクへ行き先を変更すると何度も言っていた。


「あの人はいつ戻って来ると言っていましたか?」

「ご予定は、はっきりとは伺っていないんですよ。ただ、お戻りになるまで奥様をここにお泊めするよう、申しつかっただけでして。お代は先にいただいておりますので、安心してごゆっくりなさってください」

 アンジェリンは、顔から血の気が引くのが自分でもわかった。

 ――置いて行かれた。

「御主人から、奥様のお怪我の具合がよろしくないと伺いました。御主人は医術師を探しておられましたが、あいにく、この村にはひとりもおりませんので……」

「彼は私のために、遠くの町まで医術師を呼びに行ったのでしょうか」

「それはどうか知りませんが、それよりも、薬のお礼を言わせてくださいよ。あの塗り薬は、本当にいいお薬ですねえ。おかげさまであまり痛みを感じません。たいへん貴重なお薬を使わせてもらい――」

 髭の亭主は長々と薬の礼を述べているが、アンジェリンには半分も耳に入って来なかった。


「私……夫に嫌われてしまったんですね……私に黙って出て行くなんて」

 つい、亭主に不満をもらしてしまうと、意外だ、という顔をされてしまった。

「御主人は必ずお戻りになるでしょう。奥様から逃げるつもりなら、ここのお代を払ったりはしないと思いますよ。女房に逃げられたこの私の経験からわかります」

 亭主は白髪交じりの顎鬚をこすって、人懐こい笑いを見せる。「ほんとうに逃げるつもりなら、金目のものは全部持っていきますからね」

「そうでしょうか」

「それよりも、お食事はいかがなさいますか? 本日の宿泊客は奥様だけですから、用意はすぐにできますが」

「今日の食事は、夜だけでいいです。部屋で休みます」


 アンジェリンは、重い足を無理やり持ち上げるようにして階段をあがり、自分の寝台に飛び込んだ。昨夜乱れた寝台の上は、シーツも毛布もくしゃくしゃになっていたが、直さず、枕に顔を埋めた。

「どうして黙って行ってしまったの?」

 出来る限り一緒に。そう思っていた。彼が傭兵部隊に入隊できたら、その時は一緒にいるわけにはいかないから、駐屯地の近くのヌジャナフの町で住み込みの仕事をしながら、彼を待つつもりだった。

 この国シャムアでは、他国から来た祝福者に対する様々な斡旋制度が充実している。大きな町へ行けば、二人で住まう場所や職はすぐに見つかると思われ、アンジェリンがフェールを待つことは問題ないと信じていた。


 アンジェリンはため息をついた。

「せめて、声をかけてから行ってくれればよかったのに……」

 中途半端な位置にあるここ、イガナンツ。海からも、ガルダ川からも、山のつり橋からも離れており、王都へ行くにも、徒歩ならば半日程度も要する田舎の村。ここにアンジェリンだけが滞在するという話は、計画段階でも一切出ていなかった。

 川中の砦を巡る戦いは迫っている。一日も無駄にできないことはわかっているが、今、こんなところで置き去りにされてしまうとは。

 たしかに、昨夜はフェールに嫌われるようなことばかりやった。勝手にここから出かけただけでなく、捕まってしまい、しかも、感情に任せて後先考えず人前に飛び出した。彼は、ものすごく怒っていた。人と戦い、人の死を見て、ひどく荒ぶっていた彼。

 それでも体を重ねてぬくもりで包み、身を溶かし合うことで、心の鉛も無くすことができたと思ったのは、思い違いだったのだろうか。彼の身に何か起これば、二度と会えなくなるというのに、別れのあいさつすらしてもらえなかった。


 アンジェリンは、起き上がってカーテンの隙間から外を眺めた。小粒の雨に煙る村の家々。店の前の通りに敷かれている石畳は、濡れて滑りやすそうに、水を光らせている。こんな雨の中、彼は出て行ってしまった。やさしく薬を塗ってくれたのは、別れのつもりだったのか。

 彼の指も、彼の腕も、彼のすべてが、触れるたびに愛しさが増し、離れがたい気持ちがあふれ、別れの日はまだまだ遠い気がしていた。

 彼が薬を塗ってくれた肩に触れ、しばらくの間、誰も通らない外を見続けていたが、もう一度寝台に横になった。

「信じて待っていればいいだけでしょ?」

 別れの言葉がなかったからといって、何も絶望に陥ることはない。


 ――でも。

 もしも、彼がいつまでもここへ戻って来なかったら。

 運よく入隊に成功したとしても、セヴォローンの王太子だとばれてしまったら。


「駄目よ、悪いことばかり考えると、うまくいくものもつぶれてしまう」

 嫌な妄想を振り払いたくて、シーツを思いきりにぎりしめた。

「【大丈夫】、私は【丈夫】だし、あの人は言ったことは必ず守ってくれる。すぐに戻って来てくれるわ」

 いつか披露した駄洒落を口にして心を上向きにした。

 フェールが、シドのアトリエにいた時に言っていた言葉を、心の中で繰り返した。


『すべてうまく行くと信じなければ願いなど叶わない。強く望むのだ。そして信じる方向へ突き進む。そうすれば、願いは必ず叶う』


 彼と決めた期限ぎりぎりまで、ここで彼を待てばいい。彼が戻る前に戦争が始まってしまったら、一人でも帰国。『ディンが入隊してからアンが待つ期限』については、何度も話し合って決めてある。

「馬のお世話だけはきちんとしておかなきゃ」


 アンジェリンは、熱っぽくだるい体で起き上がり、仕事の時のように髪を後ろでしっかり束ねようとして、肩の痛みに顔をしかめた。後ろで髪を束ねるのは無理。仕方なく横でゆるく結ぶ。

 宿の裏にある馬小屋へ向かおうと思い、階段を降りて行くと、玄関扉が開いて誰かが店に入って来た。亭主が「いらっしゃいませ」と声をかけた後、驚きを含んだおかしな声を上げた。

 アンジェリンも戸口を見て、あっ、と声をあげそうになった。


 戸口にいる人物は全身ずぶ濡れで、頭の包帯には薄まった血色がにじんでいた。成長途中の細い体は、カタカタ震えている。

「お腹がすいて、寒くて、死にそうなんだ。行くところもない。助けて……」

 それは、昨夜逃がしたグフィワエネの少年だった。


「無事だったか。こっちへ来い。息子の服を貸してやる。びしょ濡れだから頭の包帯も変えた方がよさそうだ」

 宿の亭主は、無愛想にそう言ったが、少年をカウンターの向こうにある私室へ招き入れる顔には、本当の父親のような温かさがあふれていた。

 アンジェリンも見かねて、声をかけた。

「傷のお薬、持ってきますね」


  □


 ちょうどそのころ、セヴォローンの東隣の国、ザンガクム国の王城では、第一王女クレイアの婚礼出立の準備が着々と進んでいた。この王女とフェールとの結婚が決定したことは、すでに公示されている。


 ザンガクム国王キャムネイ三世は、その日の公務の合間に、自室へクレイアを呼んだ。

「出立まであと幾日もないが、妙な情報が入っておる。そなたの耳にも入れておいた方がよかろう」

「どのようなことですの?」

「そなたの結婚相手であるフェール王太子は、実は何日も前から行方不明になっており、逃走中のところをユハの吊り橋に近くにある山中の村で捕らえられた……という情報である。そのようなおかしな情報を、軍部に持ち込んだ情報屋がいたらしいのだが、その者と連絡が取れなくなって、真偽は不明である。今のところ、セヴォローンから婚礼取り消しの連絡は入っておらぬ」

 クレイアは色の薄い眉をひそめた。

「夫となるべき方がいないなんて……セヴォローン王が怪情報をわざと流して、何か企んでいるでは」

「情報が偽りである可能性もあるが、セヴォローン側が、我々が密かに練っているセヴォローン併合計画を察知し、フェール王太子を山中へ逃がして、替え玉を用意した可能性は充分ある。そうだとしたならば、我々は併合計画そのものを見直さないといけなくなる。そなたの相手は、フェール王太子本人ではないかもしれぬ」

「わたくしのお相手は替え玉ですって? もし事実ならば許しがたい侮辱ですわ」

「そのようなことが真実ならば、そなたが生んだ子にはセヴォローンの王位継承権がない、という可能性も出てきてしまう。むろん、あくまでも推測であるが」

「なんてこと。本当ならば許せませんわ。わたくしは替え玉の子なんて産みたくありません」

 クレイアは、後ろに控えていたサラヤという名の侍女を呼んだ。

「はい、王女様」

 呼ばれた女は、黒髪を肩よりも短く切った少女だった。どう見ても、まだ十二歳ぐらいにしか見えないこの少女は、イルカンと同じ『人殺し養成所』の出身であり、心身ともにザンガクム王家に陶酔していた。

 サラヤは、音もなくクレイアに近づいて、膝を折り、命を受けた。

「セヴォローンの王都のうわさと、エンテグア城内を詳しく調べてきなさい。王城にいるフェール様が替え玉かどうかを見極めるのです。もしも替え玉だったら、そんな男などいらないから、さっさと殺してきてちょうだい。今すぐ行くのです。セヴォローン内に潜入している者たちを自由に使っていいから。合言葉はわかっているわね?」

 サラヤは、短い黒髪の頭を下げると、すぐに出て行った。


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