25.愛の誓い
アンジェリンが目覚めた時、隣で寝ていたはずのフェールの姿はなかった。
――私、寝坊しちゃった!
アンジェリンは、飛び起きようとして、肩に走った激痛に、顔をしかめた。
小屋の中には誰もおらず、外から話し声が聞こえてくる。
傷に気を付けながらゆっくり起き出し、外への扉を開くと、外は薄暗く、今にも雨が降りそうな雲行きだった。
セシャ親子は泉のほとりにいた。
ルウニーが、出てきたアンジェリに気が付き、目を輝かせて寄ってきた。
「見て。ディンさんがこんなにたくさん薪を作ってくれたんだよ」
小屋の横には、新しい薪の山ができていた。
セシャが小屋裏に向かって声をかけた。
「アンさんがお目覚めだよ」
小屋裏から現れたフェールの姿に、アンジェリンは目を見張った。
フェールは、肩ほどまであった髪を刈り上げに近いくらい短く切っていた。しかも、金だった髪色は濃い茶色に変わっている。
変色したのは、髪だけでなく、眉とまつ毛も。
まるで別人。
「その髪……」
「驚いたか? セシャに散髪と染毛をしてもらった。あんなかつらは私には似合わないと親子に散々笑われたのだ」
フェールはアンジェリンに近寄ると、その頬に指でそっと触れ、頭からつま先までくまなく観察した。
「顔色があまりよくないな。まだ傷が痛むだろう」
「まったく痛くないというわけではないですけど、ぐっすり眠って元気になりました。すっかり朝寝してしまって……すぐに出かけますか?」
「もう夕方だ」
「えっ!」
アンジェリンは思わず空を見上げた。暗いとは思ったが天気のせいだけではなかったらしい。
「そんな時間まで私……起こしてくださればよかったのに。ごめんなさい!」
アンジェリンは申し訳なさで、フェールにペコペコと頭を下げた。フェールは怒っているわけではなく、やさしい目でアンジェリンを見下ろしている。
セシャが口をはさんだ。
「起こさないように言ったのはあたしさ。今日は朝から雨が降ったり止んだりで、出かけるのはどうかと思ったから。ディンさんはお急ぎで、すぐでも発ちたかったようだけど、悪天候の中を急ぐと怪我人の体はもたない。一日でも休んでおいた方がいい」
「お心づかい、ありがとうございました。でも、彼の食事の支度のお世話をかけさせてしまって……」
「気にしなくてもいいのさ。その分、ディンさんはしっかり働いてくれたから。どうせ、明日、雨でも出かけるしかないから、休めるのは今日だけだからね。さすがに買い出しに行かないとねえ」
セシャは、明日、一緒に町まで行き、ここにあるいくつかの薬草を売って、生活用品を買うつもりだと言った。
アンジェリンはまた申し訳ない気持ちになった。自分の怪我に使った塗り薬も、フェールの髪に使った染料も、大切な売り物だったはずだ。町へ行ったら、生活用品をいくつか買って渡すことにした。
翌日は、朝から雨は上がり、四人で小屋を後にした。フェールの靴ずれはセシャが丁寧に布を巻いたおかげで、彼は普通に歩けている。
焼けた村チェペから一番近い町サンニは、南西方向に進み、小さな山をひとつ越えた内陸にあった。この町には、王都へつながる主街道の一本が通っており、決して大きな町ではないが、人はたくさんいた。
一行は、セシャの案内で町中へ進んだ。
通りに並んでいる建物は、石造りの集合住宅がほとんどで、その一階部分が店になっている家が多い。その日はちょうど市が開催されている日だったらしく、町の真ん中を抜けていく大通りには多くの屋台が出ており、とてもにぎわっていた。人々は皆、買い物に夢中で、通りすがりの他人の顔など見ていない。
――これなら身ばれする心配はなさそうね。
アンジェリンは安心して顔を上げて歩いた。
先頭を歩いていたセシャが、一つの建物の間で歩を止めた。
石の階段を十段ほど上がったところにあるその建物の入り口の扉には、シャムア教の祈り所であることを示す黄色く染められた丸い印が刻まれていた。
「ここで祝福式を受けなよ。あたしもここで祝福してもらったのさ」
セシャは、アンジェリンとフェールが夫婦として認められるためにシャムアへ逃げてきた二人なのだと信じ、今も疑っていない。
「さあさ、祝福してもらいな」
「ですが……こんな汚い恰好なので……」
アンジェリンは家を出てきたときのロングスカートにブラウス姿。決してきれいとは言えない。
セシャは、ポン、とアンジェリンの腰をたたいた。
「祝福式用の聖衣が借りられるから。祈り所では普段着が基本だよ。シャムアの神様の前ではありのままの自分をさらけ出さないといけない」
セシャはさっさと階段を上って祈り所に入っていく。この国では祝福式の世話をした者にも幸せが訪れると信じられていることは、アンジェリンも充分すぎるほど理解したが、本当に祝福式をやることになるとは考えていなかった。
どうすべきかとフェールの顔を見ると、彼は首を縦に振った。
彼は、かけおちに見せかけてこの親子に世話になった以上、ここで断ることはおかしいと判断したらしかった。
「ここで祝福式を受けよう。それとも、私が相手では不服か? アンは誰と祝福式をするつもりでここまで来たのか?」
フェールはわざと試すような言葉を吐いたが、顔は笑っていた。
「いいえ、祝福を受けます! 私、ディンと祝福式をして――」
アンジェリンは急に顔に血が上って、口をもごもごさせて言葉を切った。
――彼と夫婦になります、なんて、照れくさくて大声で言えない……。ここでの祝福式って、セヴォローンの結婚式と同じ扱い……。
それが異国の宗教上の夫婦というだけのことであっても。
──本当に結婚式をするの? 彼と。
アンジェリンの気持ちに関係なく、セシャは、祈り所の事務室の中にいた女性を大声で呼び出した。
「この人たちの祝福式の申し込みをしたいのさ。今日、今すぐできるかい?」
「はい、もちろん、できますよ。今、一組祝福式をやっているので、その次になりますが、それほどお待たせいたしません」
アンジェリンは、事務員の女性に申込書を渡された。
――名前を書かないと祝福式ってできないみたい……。
偽名でもばれないとは思うが、嘘の名で異国の神を騙して祝福を受けるのは気が引ける。
アンジェリンは、困ってフェールを見上げると、彼も書類を凝視しており、名前に困っている様子だった。本名を書いたら、彼がセヴォローンの王太子だとばれてしまう可能性がある。
なかなか書類を書こうとしない二人をみて、女性は、愛想のいい笑顔を見せた。
「文字の読み書きが無理ならば、こちらで代筆いたします」
「いえ、読み書きはできますけど、あの……ここに書いた名前って、みなさんの前で読み上げるんですよね?」
「司祭が人々の前で読み上げるのは、こちらの欄に書かれた名前だけです。愛称でもかまいませんよ。その下の段はきちんと記入していただければ問題ありません。本当の家名や住所は祝福の証明のために書類を保存するだけで、一般には公開されません」
「ここは重婚の国だったな」
フェールは自分を納得させるようにつぶやいた。アンジェリンも、重婚している人の家名がどうなっているのかを考えると、家名を出さない結婚式が可能なわけが理解できる気がした。
結局、読み上げ欄には『ディンセルラントゥール』『アンジェリン』と記入。そして、非公開の欄には家名まで入った本名を入れた。
「絶対に本名を出さないでほしいのだが」
フェールが念を押した。
「名前を人前で出したくない訳ありの方なんて、大勢いらっしゃいますから、こちらもそんな失礼な間違いはいたしません。ただし、愛称を呼び名にした場合は、祝福証明の木札の方も本名でなく、呼び名の方でお作りすることになりますけど、それでよろしいですね?」
二人で頷いた。
受付を終えたアンジェリンたちが案内された中の扉を開けると、そこは広く大きい部屋になっていた。高いアーチ状の天井付近には大きな窓がいくつもあり、暑い程の日射しが入り込み、中はとても明るい。中央奥には、中性的な顔立ちで巨大な羽を持つシャムア神像が飾られ、ちょうど、その前で一組の祝福式が行われている最中だった。
麻の聖衣を身に着け、神の像の前に並んで跪いているのは三人。
男が一人に女が二人。要するに、一人の男性が、女性二人を同時に妻に迎える、ということらしい。
祈り席の方に座って『参列』している数人の男女は、どの人も買い物ついでのような楽な格好をしており、誰も着飾っていない。お祝いの花束や会場の飾りつけすら見当たらない。花嫁の女性たちですら、髪かざりすらつけておらず、その日のための特別な髪型には見えなかった。
全員が着飾らない結婚式、しかも重婚――それは、セヴォローンの盛大で厳粛な結婚式では絶対に見られない不思議な光景だった。
祝福の祈りを終えて、跪いていた三人が立ち上がると、見物席にいる人々が急にあわただしく動きだし、アンジェリンもフェールもあっけにとられた。
人々は皆、シャムア神像の前にいる三人の方へ我先に突進していく。セシャとルウニーまでその中に加わり、今祝福を受けたばかりの三人の肩や手にベタベタ触れた。結婚が成立したばかりの三人は、もみくちゃにされている。
セシャが振り返って、座ったままのアンジェリンたちを促した。
「あんたたち、なにしているのさ。はやくっ! 花嫁さんたちに触って幸せを分けてもらうんだよ」
言われてアンジェリンとフェールも前へ行く。花嫁二人を両肩に抱いた花婿。まったく面識のないアンジェリンたちが腕や背に触れても、三人とも幸せそうに歯を見せて笑い、周囲の人々にも笑顔が広がる。
やがて、祝福式を終えた新郎新婦三人は、晴れ晴れとした顔で祈り所の出入り口へ向かい、外で聖衣を脱ぎ捨てて空へ放り投げた。今度は道行く人々がそれを奪い合い、大きな歓声が上がった。こうして、この祈り所での見知らぬ三人の祝福式は終了した。
アンジェリンは、自然に笑っている自分に気が付いた。
――幸せが分けてもらえるって本当かも。シャムアって、本当はとてもすばらしい国なんだわ。好きな人と自由に結婚できるなんて……。
横に立つフェールの顔を盗み見る。彼は少し緊張しているようで、笑ってはいても顔は引き締まっていた。
――次は私たちの番。
生まれも、育ちも関係なく、夫婦として認められるために祝福してもらうのだ。
司祭に呼ばれ、聖衣のフードをかぶった姿のフェールとアンジェリンは、シャムア神像の前へに立った。
先ほどの新郎新婦たちと、その式を見ていた人々も、今からもうひとつ祝福式があるとわかると、外から戻って来て祈り席に着いた。後で恩恵を受けるつもりらしい。外にいた無関係の通行人まで中へ入ってきて、祈り所の椅子は座るところもなくなり、壁際まで立ち見の人で埋まった。
会場は静まり、司祭の声が響いた。
「ディンセルラントゥールとアンジェリン。尊きシャムア神の前で愛を誓い、神の祝福を全身に受けなさい。まずは夫となるディンセルラントゥール、誓いの言葉を」
司祭はシャムア像の前で二人を向き合わせた。
フェールは良く通る声で堂々と誓いの言葉を述べた。
「私、ディンこと、ディンセルラントゥールは、未来にどのような荒波が待っていようとも、アンこと、アンジェリンと二人で人生の船に乗り、共に時の海を渡っていくことに迷いはない。この先、多くの障害が私たちの間に立ちはだかることだろう。それでも私は、どのような高い壁でも乗り越えてみせる。アンジェリンと出会い愛し合うことは、神に定められた運命だと信じて疑わない。私はアンジェリンを生涯の伴侶とし、この身が朽ちるその日まで、常にそばにあり、全力で守り、愛し、慈しむことを固く誓う」
男らしくきっぱりと言い切ったフェールに、見物人たちからため息が漏れた。
「では、妻となるアンジェリンも誓いの言葉を」
アンジェリンはこみあげてくるものを必死で抑えた。
――この人は王子様なのに……こんな私を選んでくれた……。
彼の琥珀色の瞳は何の迷いもなく、まっすぐにアンジェリンの瞳に入ってくる。彼の誓いが本気だと、彼はどんな犠牲を払ってもアンジェリンと生涯を共にするつもりだと、全身の肌がピリピリ感じるほど、彼からは強い決意がみなぎっている。
――でも、私はそんな価値のある女じゃない。私たちはセヴォローンに戻ったらきっと別れる運命。
いろいろ思いが巡る。もしも、シャムアとザンガクムが本当に裏で手を結んでいるなら、フェールの政略結婚の話はなくなるのだろうか。
――それなら、私は、ずっと彼の妻でいてもいいの? 自分に都合のいい未来が来てくれる? いいえ、それはないわね、私の親はとんでもない人たち。
「アンジェリンも誓いなさい」
「あ、は、はい!」
多くの人の目がある。頬が引きつり、口が急に乾いて、心の中に用意していたセリフなどどこかへ飛んで行ってしまった。
焦る頭で必死に取り繕う。
「わ、私……アンことアンジェリンは、ディンの……ディンセルラントゥールの、おそばにいて、心から支えるために存在したいと……いつも、お、思っています。二人の船で【航海】することに【後悔】など」
アンジェリンはそこまで言って、あっ、と言葉を止めた。
――無意識に駄洒落が! こんな神聖な場で私、最低。
恥ずかしい……もうどこかへ隠れてしまいたい。
途中で黙ってしまったアンジェリンに、司祭が誓いを促した。
「アンジェリンは誓いませんか? ならば祝福は受けられません」
「いいえ、ち、誓います! 私はディンセルラントゥールを愛し、できる限り共に生きることを誓います」
ひっくり返った変な声になってしまったが、どうにか誓えた。
――できる限り彼と共に生きる。期間限定でもいい。状況が許す限り一緒にいたい。それが私の精一杯。
たどたどしいアンジェリンに、フェールは苦笑いし、司祭も穏やかに微笑む。
「愛深きシャムアの神よ、この二人は愛を誓いました。二人が夫婦として寄り添うことをお認めください」
フェールとアンジェリンはシャムア像の前で跪き、フードをとって祈りをささげた。
司祭が用意されていた白い花びらをたくさん入れた器を手に取った。
「二人はこれからの人生を共に」
祈る二人の頭に花びらが振りかけられる。細かい花びらが髪の間に入り込み、二人が花びらだらけになると、司祭は空になった花びらの器を頭上に掲げ、高らかに宣言した。
「二人は祝福を受け、神に認められました。今、ここに新しい夫婦が誕生しました。おめでとうございます」
司祭の手から、祝福証明として木の札が渡された。大人の手のひらほどの大きさの平たい木ぎれ。表には浮き彫りのシャムア神像。その胴の部分には二人の呼び名が、裏にはこの祈り所の名前、立会い司祭名、日付が刻まれていた。短い時間の間に手早く文字入れしたらしい。
木札をもらった二人が立ち上がると、見物人たちが祝福の恩恵を受けようと殺到してきた。フェールはさっとアンジェリンの腰を抱き寄せ、肩の傷に触れられないよう、傷のある方へ回り込んだ。
会場にいた見知らぬ人々が「おめでとう」と言いながら二人の腕や肩に触れていく。
「この色男め、こんなかわいい花嫁を手に入れやがって。幸せに!」「花嫁に飽きたら俺にくれよ」など、見知らぬ人からの冗談交じりの祝い言葉をたくさんあびた。
セシャとルウニーも、アンジェリンにベタベタ触りながら大声で「おめでとう」を連呼している。
祈り所の外へ出たフェールとアンジェリンは、どちらからともなく手をつないで見つめ合った。
フェールは満足そうに微笑み、身をかがめてアンジェリンに軽く口づけした。
「これでおまえは私のものだ」
「私……ディンの妻になれたのですね?」
――ひとときの妻でも。
「そうだ。この国では誰にも文句は言わせない」
「幸せです……」
セシャは目を潤ませてそんな二人を見守っていた。
「素敵な誓いの言葉だったねえ。あたしゃあ泣けちまった。ういういしくてかわいい花嫁さんだったよ。ディンさんがいい男だからよけいに……はぁぁ、ため息が出ちまうほど良いものを見せてもらったよ。これであんたらは夫婦だ。聖衣を投げな」
アンジェリンは大勢が自分たちを見ていることに気が付いた。人々は聖衣が投げられるのを待っていたのだ。
――口づけにうっとりしている場合じゃなかった!
真っ赤になりながら、聖衣をとった。貸し出された聖衣は、前にボタンが一つあるだけの簡単な造りで、素早く脱ぐ事ができた。
「アン、投げるぞ。準備はいいか?」
「はい」
「それっ、皆にも幸あれ」
人々の歓声と共に、麻の聖衣二枚が風に舞った。




