24.つかの間の休息
「お帰り、ルウ、お客さんって、誰かが戻ってきたのかい?」
扉の内側から出てきたのは、やせて背が高く、あごが尖った女性だった。質素な灰色のズボンに薄手の手編みセーターを身に着け、年齢は三十代前半だと思われる。肩まである長い黒髪は、豊かに波打っていたが、顔色は青白く、肌艶もなく、元気がなさそうに見えた。
女性は、フェールの殺気を放つ雰囲気と、二人の血だらけの姿に、顔をひきつらせた。
「この方たちは……?」
「村にいたんだよ。強盗に襲われて怪我をしているんだってさ。血だらけだったから、連れてきちゃった。治療してあげて」
「またグフィワエネが来たのかい?」
「違うみたい」
フェールは、アンジェリンをかばうように母親の前に進み出て、礼儀正しく片手を胸に当て、軽く腰を折ってあいさつした。
「私はセヴォローンから来たディンセルラントゥール。ディンと呼んでくれ。こちらは婚約者のアン」
フェールが略した名前で挨拶を終え、ここへ来た経緯と共に、アンジェリンが怪我をしていることを簡単に説明すると、母親は心から同情してくれた。
「あんたら、要するに駆け落ちかい。向こうでは結婚を認めてもらえなくて、シャムア神の祝福を受けるためにこの国へ逃げて来たんだね? いいよ、怪我の治療をしてあげる。中へ入んな」
フェールは、駆け落ちと決めつけられても動じることなく真顔で頷いたが、アンジェリンは思わず顔を赤らめてしまった。駆け落ちに見せかけてシャムアに入国する、という当初の計画どおりだが、あらためて『駆け落ち』と言われてしまうと、ものすごく恥ずかしい。重婚や同性婚を認めているこの国は、フェールが言ったとおり、外国から逃げてくる恋人同士には寛容で、二人きりの旅を選択した判断は正しかったらしい。
アンジェリンたちは警戒しながら小屋へ入ったが、中は広くはなく、他に人はいなかった。
入ってすぐの部屋の中央には、木の丸テーブルと、背もたれのない椅子が二脚置かれていた。壁には大きな鍋や調理道具などがかけられ、火が点けられている薪ストーブの上では、薬草らしき何かがぐつぐつと煮えており、室内はほんのり暖かい。
小屋の奥の細まった場所は薬の保管場所として使っているらしく、棚いっぱいにビンに入った薬が並んでいるのが見えており、誰かが隠れている、とは思えなかった。
フェールは、思いきってかつらをとった顔を母子に見せて、この母子が怪しい者かどうかを試したが、母子は、セヴォローンの王太子の顔は全く知らないようだった。母子は、かつらをとったフェールを見ても、特別驚いた様子はなかったため、フェールは警戒を解き、腰の剣にかけていた手をはずした。
細身の母親は、セシャ、と名乗り、アンジェリンとフェールを二つしかない椅子に座らせた。
アンジェリンは、治療してもらえることをありがたいと思ったが、同時に申し訳なさも感じた。
「急にお邪魔したのに、すみません。治療費はどれぐらいかかりますでしょうか」
「いらないよ。たいした手当てもできないから」
「それはいけないです。薬代だけでも請求してください」
「気にしなくていいのさ。シャムアの神様は、愛し合う者たちに手を差し伸べた者にもちゃんと幸せをくれるんだよ。だから、あんたたちを世話すれば、あたしたちも幸せになれるんだ」
「ですが」
「ごちゃごちゃ言っていないで、傷を見せな」
セシャはアンジェリンに近づき、アンジェリンの服を脱がしにかかった。
アンジェリンの上半身は、あっという間に、傷を覆っている布だけにされてしまい、アンジェリンは、慌てて胸を隠した。
すぐ横にはフェールがいるだけでなく、戸口には少年もいる。まだ子どもでも男の子。肌を見られることには抵抗がある。
セシャは傷を押さえていた布を慎重にはずしながら、笑い飛ばした。
「その子、女の子だから。恥ずかしがる必要なんてないんだよ」
――えっ! 女の子?
アンジェリンは思わず少年、いや、少年だと思っていた黒い瞳の少女をまじまじと見てしまった。少女の黒い髪はバサバサで、いかにも山育ちの野生児っぽい。日焼けして活発そうに見える浅黒い肌。何の飾りも模様もない上下つなぎの簡単服を身に着けており、見た目はどうみても男の子。
フェールもぎょっとした顔で少女を凝視したが、すぐに気持ちを切り替えて謝罪した。
「失礼した、女性だとは思わず、呼びかけるとき少年と言ってしまった」
アンジェリンもすぐに謝った。
「ごめんなさい、私も男の子だと思い込んでいました。声はかわいいと思ったんですけど」
セシャは、怒るどころか、上機嫌にみえた。
「うちの娘はもともと女らしさに欠けているからねえ。それに、今は村に誰もいなくて用心が悪いから男のふりしているし」
少女は、愛らしくにっこりと笑い、アンジェリンとフェールにペコリとお辞儀をした。
「えへへっ、僕にしっかり騙されていたでしょ。あたし、ルウニー。ルウって呼んでね。よろしく」
セシャはアンジェリンの傷所の状態を確認し終えると、アンジェリンたちに外の泉での湯あみを勧めた。小屋のすぐ前にある小さな泉は、ぬるめの温泉だと言う。薄緑の透明な水が湧いている泉は、天然の石で底まで囲われ、昔は露天風呂として使われていたらしい。
「肩の傷だけこのまま軽く覆っておくから、一度外で洗っておいで。あたしはその間に薬湯を作っておくから。ディンさんも一緒に湯あみしな。あんたら、血なまぐさいったらありゃしない」
有無を言わさせないセシャの勢いに、フェールも苦笑いしている。
「ここには本当に誰もおらず、襲われる心配もなさそうだな」
フェールは荷物袋を手に取り、さっさと外へ出て行った。
アンジェリンも外に出たが、すぐには泉に入る気にならなかった。
――ここが安全かどうかよりも……こんな丸見えの明るい外で彼と一緒に泉に入るって……。
フェールはためらうことなく服を脱ぎ捨て、先に入ってしまった。人から見られることに慣れている彼は、外での裸も平気なようだ。
アンジェリンが泉のほとりに立ったまま躊躇していると、フェールが手招きした。
「アン、どうした、手が不自由で服が脱げないなら手伝ってやるぞ」
「いっ、いいです! 自分でできます!」
力んだ声で返してしまった。ここは心を決めて泉に入る。誰かに見られたからといって、世界が終わるわけでもないと自分に言い聞かせ、衣服のすべてを身からはずし、泉にそろりそろりと入った。
暖かな湯は傷にしみたが、いったん慣れれば、苦痛はなかった。
泉の岩の割れ目から、熱い湯が少しずつ噴き出している。温泉としては確かにぬるめだったが、冷えきった体にはちょうどよかった。
全身から温まることができる幸せ。
アンジェリンは、フェールと二人で泉に肩までつかりながら、温泉の心地よさにそのまま眠りたい気分になってきていた。恥ずかしさよりも、心地よさの方が勝る。やっぱり入ってよかった。周囲には山しかなく、とても静かだ。秘境の湯の中で、身も心も洗われていく。
「不思議だな。このような場所でアンと二人で温泉につかっているとは」
フェールは変装用のかつらをとり、泉に頭まで潜って髪を洗っている。
「私もそう思います。なんだかおかしいですよね。妙にほっとしてしまって。まだまだこれから大変なのに」
きらめく濡れ髪をかき上げるフェールの姿に、アンジェリンの心臓が勝手に音を立てる。
水がしたたる彼の胸板。腕や肩の筋肉がくっきり浮き出ている。つい見とれてしまう。通った鼻筋、形のよい唇。強い意志を宿した琥珀色の瞳。同僚のココルテーゼがよく言っていた言葉どおり、彼はやっぱり美男だ。
『王太子殿下って、いつ見ても素敵よねえ……』
王太子妃の座を望んでいたココルテーゼは何度もそう言っていた。『がんばって』と彼女を応援する言葉を返した自分。彼女は今頃どうしているだろう。アンジェリンがフェールと同時期に失踪したことを、うわさ好きの彼女が知らないわけがない。
――ココちゃん、ごめん。きっと怒っているわよね。私、王太子妃になりたいなんて思っていない。ただ、殿下のこと、本当に好きになってしまったの。王太子だからじゃなくて、普通の男性として。
「左手が上がらないのだろう? 私が洗ってやろう」
「だ、大丈夫ですよ」
アンジェリンは、フェールの視線が水中の自分の裸体に注がれていることに気が付き、さりげなく胸を隠した。
「何を今さら」
フェールは軽く笑い、アンジェリンの背後に回ると、両手で水をすくってアンジェリンの頭にかけ、髪を洗い始めた。彼の指が、アンジェリンの長い髪の間をすりぬけ、付着していた血や泥と共に、水の中で長い茶金色の抜け毛が放たれる。
アンジェリンは、下流へゆっくりと流れていく自分の髪を目で追いながら、無意識に体に力を入れていた。フェールの何気ない動きひとつで、自分の胸のドキドキがどんどん大きくなっていく。
彼の長い指が自分の髪に絡んでいると思うだけで――。
「これでは頭皮まで洗えないな」
「もう充分――」
「まだ上の方が汚れている」
「ひゃっ」
フェールの手がのび、アンジェリンは、湯の中でフェールのあぐらの上に横抱きにされた。目を開けばすぐそこに彼の顔が。
フェールは右手でアンジェリンの顔が沈まないように後頭部支えながら、左手で、アンジェリンの前頭と頭頂を洗い始めた。
「目を閉じろ。水が入るぞ」
言われたとおりに目を閉じる。彼がアンジェリンの重い前髪に手櫛を入れている。
「眉の上の傷、痛いか?」
「いいえ……」
「前髪がたくさんあったおかげで、顔はひどい傷にならずに済んだな」
彼は血で汚れていた眉やこめかみも洗ってくれた。アンジェリンは自分が赤子になっているような気がした。水の中で大切に抱かれて。
彼の手はそのうちに、傷に気を遣いながら全身に触れ始めた。手のひらで、血の跡をこすり落とすように、ゆっくりとした動きでアンジェリンの体をなぞる。
首筋、胸、背中、腰から臀部へ。
「……っ……」
アンジェリンは黙って耐えた。体を抱きかかえられ、大きな手で、肌をなぞられるたび、女としての自分が花開いていく。顔が火照り、息があがりそうになる。目を閉じているとよけいに体が敏感になってしまう。開きかかる唇を必死で閉じる。
――ああ、こんな場所で私……。
彼の手が太ももまで来たとき、アンジェリンはようやく言葉を出せた。
「も、もうきれいになりましたから。ありがとうございました」
「胸と肩は、おそらく傷跡が残る。刃物でつけられた傷は、いつまでも消えないものだ」
彼を見上げると、琥珀色の目が心配そうにアンジェリンのようすをうかがっていた。
「私なら、だ……大丈夫ですよ。怪我はしたけれど、無事にシャムアに渡れたことですし。あの、えっと……」
フェールは、アンジェリンの額に、チュッ、と音をたてて唇を当てた。
「また駄洒落を考えていたな? おまえが黙り込んでいるときは、駄洒落に頭を使っているのだと私は学習したのだ」
「あ、は、はい! そうなんですよ。何も【見ず】に【水】に入って……とか、ふふふ」
「あいかわらずおかしなやつだ。先に上がるぞ」
フェールは笑いながらアンジェリンを膝からおろし、泉から出て行った。
アンジェリンは真っ赤な顔をしたまま泉に取り残された。
――駄洒落でごまかしたけど…………。
彼の大きな手で全身を撫でるように洗われて、体が熱くなってしまったことに、彼は気がついていただろうか。
彼に眩暈。彼に完全に溺れている。湯あたりしそうだ。
アンジェリンが湯あみを終えて小屋の中に入ると、小屋の中は薬草を煮詰めるツンとした臭いが充満しており、先に泉を出たフェールは、すでに、小屋奥の薬草保管場所で横になって眠っていた。テーブルの上には、マニストゥの家から持ってきた干し肉が並べられており、ルウニーがそのひとつをかじっていた。
セシャは、アンジェリンを椅子に座らせ、傷に薬を付けてくれながら、眠るフェールの方をちらちら見ながらひそひそ声で話しかけてきた。
「ディンさん、すぐに寝ちゃったよ。彼、物言いからして、相当いいところのお坊ちゃんだろ?」
セヴォローンの王太子だとはさすがに言えない。
「はい……彼の家は上級貴族で、私は彼の家の使用人で、彼の結婚相手としては論外でした。彼は家が決めた人と結婚しなければならなくなってしまって……」
アンジェリンは真実を混ぜた返事をした。
「上級貴族? そうだろうねえ。育ちがよさそうだ」
セシャは手際よく、アンジェリンの体に複数の薬を塗り終えると、布を巻き付けた。
薬を塗ってもらうと、痛みがすっと遠のいていき、アンジェリンは驚いた。
「セシャさん、このお薬、すごくよく効きます。痛くなくなりました。こんな傷薬、初めてです」
「これはこの村独自の秘薬さ。グフィワエネたちはこれを狙っていたんじゃないかと思うんだよ。はい、最後はこの飲み薬で終わり。さ、あんたも奥で休みな。ちょと狭いけど」
セシャは、アンジェリンに痛み止めを飲ませると、フェールが眠っている奥の狭い場所を指さした。
小屋の奥の薬草保存場所は、両側の壁を埋める作り付けの棚は天井まであり、そこには大小たくさんの薬草の瓶が並んでいた。瓶だけでなく、陰干ししてある生草も、数えきれないほどたくさん吊るされている。
フェールが眠っているのは、棚の間の狭い床に草を集めて作られた寝台だった。寝台、といっても、枕もなく、集めた草の上に端が黒く焦げた毛布を敷いただけのもの。
「あの……」
「悪いねえ。こんな狭い場所しかなくて。これは寝台じゃなくて本当に横になるだけの場所だけどがまんしておくれ」
焦げた毛布……アンジェリンはうつむいて言葉を濁した。この母子は火事で何もかも失くしているのだ。この小屋に置いていた物以外は、生活用品も、食料も、あらゆる物が足りないはずで、さきほど借りた湯上り布も、治療用に使った薄布でさえ、この親子にとっては貴重なものだったに違いない。
「場所提供ありがとうございます。でも、これでは私たちが寝場所を占領してしまうことになってしまいます」
「いいさ、夜までに、入り口の部屋にもうひとつ寝台をつくればいいから」
セシャは、その辺の木の葉を集めれば寝台はすぐに作れると言う。
「では、私、新しい寝台作りをお手伝いします」
「それはありがたいけど、まずは、あんたも休みな。怪我を甘くみてはいけないよ。結構深く刺されているから、そのうちに熱が出るかもしれない。休むことが一番の薬だ。いいから、何も気にせずゆっくりお休み。あたしとルウは外で薬草を洗っているから」
母子が小屋を出て行くと、アンジェリンは眠るフェールの隣に座り込んだ。自分も横になろうとして、ふと、毛布から突き出たフェールの裸足に目が留まった。
フェールは両足ともかかとにマメができており、それが完全につぶれていた。長距離を歩いて靴擦れしていたらしい。足を引きずるほど痛かったはずだが、彼はそんなそぶりを全く見せなかった。
そばに置かれている彼が履いていた革靴の中にも、血のシミが付いていた。
アンジェリンはフェールの頬に指先でそっと触れた。
「ごめんなさい」
彼は正真正銘の王子だった。痛くても人前では痛いとは言わない教育を受けている。普段立ち仕事が多いアンジェリンでも足が痛いのに、座っていることが多いフェールの足が痛くならないはずはなかった。今後も、自分がもっと気を付けて彼のことを見てやらないと、怪我をしていてもわからないかもしれない。
そういえば、城に奉仕し始めた頃、侍女長のマリラに、王族の体調が悪くないか注意を払うよう教えられたことがあった。
「私がもっとしっかりしないといけないですよね」
自分の怪我のことだけで頭がいっぱいだった。
「許して……」
――私、あなたの痛みに気が付かなかった……。
今は閉じられている、はっきりした目をふちどるフェールのまつ毛。情熱をたたえる唇からは穏やかに寝息が漏れている。
「どうか、無理をしないで。痛いなら、痛いって言ってください。私は……」
――行けるところまでご一緒すると決めています。この先にどんな未来が待っていたとしても。だから、喜びも、悲しみも、痛みも、全部分かち合わせてください。
思いを込めて、そっと唇を合わせた。
愛の神、シャムア神が微笑んでくれているだろうか。ここはシャムア教が支配する国。
フェールは口づけされたことも知らず、ぐっすり眠っている。
アンジェリンは静かに隣に身を横たえて目を閉じた。




