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22.渓谷へ

 ランタンを手に、急ぎ足で歩いて行く。

 フェールはときどき振り返り、耳をすませて追手の有無を確かめた。今のところ、メタフ村の方から人が追ってくる気配はない。


 アンジェリンも後ろを何度も振り返った。イルカンの亡霊がくっついている気がして仕方がない。イルカンの死に顔――大きなギョロ目を開いたまま――を思い出すだけで吐きそうになる。あの海藻のようにうねった髪が、地面の黒い影から生えてきて足に巻き付いてくるような感覚に、何度も足元を見てしまう。

 数歩先を歩くフェールの背をみながら、彼も不安になっているに違いないと想像する。闇を見ていると不安材料しかない。

 マニストゥが応援を連れて戻ってくるかも。

 マニストゥが来なくても、今ここで強盗集団に襲われたら終わり。あるいは、ラングレ王の差し向けたフェール捜索隊に見つかってしまう可能性も。


 小石交じりの土の道は、歩くたびにザクザクと音がする。冷たい夜風が首筋に冷気を吹き込む。汗が冷えて寒い。それでも足を止めるわけにはいかない。


 フェールは村を出てからひとこともしゃべらなかった。

 アンジェリンは、下向になる気持ちを自分で叱咤した。彼に暗い顔をさせてはいけない。

 ――何か駄洒落を考えよう。


 駄洒落のネタを探しながら歩いて行くと、やがて、ユハの吊り橋へつながる街道に出た。

 昼間あれほど人がいた街道も、深夜となると別の世界のようで、人がいない暗いだけの道が闇の中にのびている。道端の露店にも人の姿はなく、木の商台だけがさみしく残されている。

 

 フェールは道標をランタンで照らした。

 木で作られた道標は、三つの方角を指していた。

 メタフ村には北東へ、ユハの吊り橋へ行くには北へ、王都エンテグアおよび、その西の町イクスアランへ行くには南へ。


 道標を睨んでいたフェールは、静かに言った。

「アン、南だ。エンテグアに戻ろう」

 驚いたアンジェリンはフェールの顔を見たが、彼は笑っていなかった。

「……どうしてですか」

「このまま旅を続けると……続けられると思うのか?」

 重い声だった。

 アンジェリンは泣きそうになりなりながらも、できるだけ元気に明るく返した。

「私の怪我なら心配いりません。こんなの、かすり傷ですよ。私の分の荷物も持っていただいていることですし、ほら、この通り、ちゃんと歩けます」

 アンジェリンは飛び跳ねてみせた。もちろん、自分自身も、不安がないわけではない。イルカンに刺された左肩の傷はずきずきと疼き続けている。痛みで左腕をあげることはできない。たくさん血を流してしまったせいか、足元がふわふわしている感覚もある。

 それでも、このまま王都に戻ってしまったら。


「今、お城へ戻って……どうなさるおつもりですか」

「戻りたくはない。しかし……」

「戻ったら、ディンは王女様を迎えて、ザース様はザンガクムへ婿入りなさるんですよね? それを阻止するために旅に出たのだと、私は理解しております。もしもこのまま帰れば、何もしなかったことと同じになってしまいませんか?」

 アンジェリンは自分でもきつい言い方だと思った。それでも今は言うべきとき。

「ディンはそれでよろしいのですか?」

 フェールは悲しそうに目を伏せてしまった。

「政略結婚のことは、今ここで議論することではない。おまえの傷が心配なのだ」

「傷なんか大したことないです。【大丈夫】です。私は【丈夫】なんですから。それよりも、政略【結婚】をやめるのって、旅を続けていれば【結構】どうにかなるものだと思いませんか? 国王陛下がきっとどうにかしてくださいます」

「いや、どうにかできるものならすでにできている」


 フェールは駄洒落に気が付いてくれず、道標の前でうなだれている。

 アンジェリンは駄洒落をもう一つ出してみた。駄洒落部分だけ、ちょっと声に力を入れて。

「【夜】だからあれこれ考えず、早く歩きましょう。【寄る】ところもないことですし」

「ふっ……」

 アンジェリンの無理やりの駄洒落に、フェールは苦笑すると、アンジェリンの頬に唇を寄せた。「さきほどから駄洒落を言っていたか。気が付かなかった」

「ディン、どうか笑ってください。私、怪我をしても命はありました。歩けますからシャムアへ向かいませんか?」

 彼と目を合わせる。また運命の別れ道に立っている。選ぶ道はひとつだけ。戻るか、戻らないか。

 ――旅を終わらせないで。

 きっと彼にも気持ちは通じている。


「駄洒落も楽しいが、今はまじめに考えろ。この先は怪我人にとってはきつい旅になるぞ。当てにしていたマニストゥの支援はない。馬も食料も自分で調達する必要があり、資金が足らなくなるかもしれないのだ。旅を続ける選択は、間違っているかもしれぬ」

「資金が足らなかったら、働けばいいのです。旅をやめない選択が間違っていたとしても、かまいません。エンテグアを出た時にそんなこと、わかっていたことですから」

 ――わかってほしい。少しでも一緒にいたいって。

 

 フェールは困ったように首を軽く横に振った。

「……わかった。旅を続けよう。だが、どうしても苦しかったらすぐに言え」


 再び歩き出す。方向は北へ。西のシャムアへつながるユハの吊り橋方面。吊り橋は検問が厳しくておそらく渡れない。シャムアへ渡るには、吊り橋を大きく迂回して山に入り、さらに北へ。

 どこかでガルダ川を超えることができる場所を探すのだ。



 やがて、遠くの空の色が薄くなってきた。

 通行人がおらず、まだ薄暗い今のうちに、どこかで行水して着替えなければならない。

 フェールは返り血を浴びたせいで、服のあちこちに血のシミが飛んでいる。アンジェリンの方もひどい恰好だった。フェールの上着を肩にかぶせてはいるが、やはり、服は血が付き、髪は泥だらけ。眉の上には真新しい生傷。上着の下は剣で裂かれた夜着、さらにその下は血まみれのシーツを巻き付けた尋常ではない姿。これでは目立ちすぎる。


 現在歩いている場所は、ガルダ川と街道が少し離れ、水面は見えなかった。林の向こうからは水が流れる音は聞こえてくる。

 フェールは、この林の向こうの川辺ならば人に見られずに行水できそうだと判断し、アンジェリンの先に立って細い獣道へ入った。


 獣道の先には、大きな岩がごろごろしている川原が広がっていた。対岸のシャムアはすぐそこに見えている。

 川の中に散らばる岩々の間を流れる水は、よどみなく流れ、水深は、少なくとも大人の背丈の倍の深さはありそうだった。岩と岩は離れており、飛んで渡ることは無理だと思われる。


 フェールは指先を水に入れたが、すぐに手をひっこめた。

「これは冷たすぎる。行水した後、火にあたりたいところだが、煙を出すわけにはいかないから困ったものだ。ユハの吊り橋はもう近い。衛兵に気づかれたら終わりだ」

「燃やすものはありそうですが。あら? あんなところに」

 アンジェリンは、岩に手を差し伸べるようにかかっている大きな木の根元に、木製の長い梯子が寝かされて置かれているのを見つけた。梯子にはごみはひっかかっておらず、上流から流されてきたとは思えない。

 梯子がなぜ……と見回せば、梯子を何度か架け替えながら橋がわりにすれば、向こう岸へ渡れそうな岩が不規則に並んでいた。橋げたにできそうな岩はでこぼこで、どれも人が二、三人ほどやっと立つぐらいの大きさしかないが、梯子をかけることが不可能とは言いきれない平らな部分がわずかにある。対岸は、ここのような石がごろごろしている川原ではなく、こちらよりも高さがある岩の崖になっている。


「場所を選べば、この梯子で対岸へ渡れるかもしれぬ。おそらくこれは密入国者が使っている梯子だ。危険とは思うが……」

 梯子を調べていたフェールは、ハッ、と顔を上げた。アンジェリンにも聞こえた。

 どこからか馬が駆ける音が。

「複数だ。近づいてくるぞ」 

 フェールの険しい顔にアンジェリンも緊張してきた。まだ薄暗い早朝、旅人や商人にしては行動が早すぎる。盗賊かもしれない。

「隠れろ!」

 フェールはアンジェリンを抱きこんで、大きな岩の陰に伏せた。

 

 息をひそめ動けないまま、馬の一団が通り過ぎるのを待つ。獣道に入って来なければ、街道からはこちらの姿は見えないはずだ。静かにしていればやり過ごせる。

 アンジェリンはフェールの胸に包まれて目を閉じていた。背に当たる岩土は冷たい。それでも彼のぬくもりを感じて、こんな場面でも安心してしまう。この腕の中にいたくて旅をしている。そのために生きている。


 馬の音はすぐに遠ざかって行った。

 

 音が聞こえなくなると二人は身を起こした。

 あの一団にマニストゥがいて、また戻ってくるかもしれず、安心している暇はない。

 フェールは梯子の強度を確かめ最初の岩にかけた。二人分の荷物を背負い、両手を開いて一つ目の岩へ慎重に渡った。

「来い、アン」

 フェールの声に、アンジェリンも梯子に足を延ばした。下は大量の水が轟々と流れ、渡っている最中に梯子がはずれてしまったり、足元を謝って落ちたりしたら命はない。谷風で髪が舞い上がり、思わず足がすくむ。両手を広げたいが、左手は動かせない。

 固定されているわけでもない梯子は不安定で、片足ずつ進めるたびに、体重がかかった方に少し傾く。しかもどの岩へ梯子をかけても、軽い登りになっている。少し湿った木の梯子は滑りやすい。


 フェールが梯子の向こうを押さえていてくれる。

「落ち着け、ゆっくりでいい」

 フェールの応援にどうにか、一つ目の岩へたどり着いた。狭い岩の上、滑り落ちないように身を寄せ、渡った梯子を次の岩に架け替え、同じようにフェールが先に渡る。

 彼は渡り終えるとすぐにアンジェリンに渡るよう促す。


 足が震える。

 ――怖い。それでもここで旅を終わらせたくない。

 これも自分が選んだこと。

 

 数回梯子をかけかえ、無事に向こう岸に渡ることができた。

 

 二人とも渡り終えると、フェールは素早く梯子を引き寄せて外し、小さな丘になっている雑木林の向こうへ隠した。

「急いでここへ。静かに」

 フェールは、いきなりアンジェリンの手を引いた。ほっとしてぼんやりしていたアンジェリンはよろけて、落ち葉がたまる林のくぼみに転がった。

「ディン?」

 フェールの焦った様子に、驚いたアンジェリンだったが、理由はすぐにわかった。先ほどの馬の一団が戻って来たらしい。渡るのに夢中で気が付かなかった。

 低木のすきまから覗くと、先ほど二人がいた場所に、馬に乗った何者かが入ってきていた。


『ここにはいないようだ。本当に王太子が来たのか』

『嘘ではございません。徒歩だからそれほど遠くには行っていないはずですぞ。吊り橋にはまだたどり着いていなかったですからな。女は怪我をしておりますゆえ、絶対にまだ近くにおります』


 ――あの声は、マニストゥ!

 フェールがアンジェリンの手を無言で強く握る。


『この道ではないかもしれませんな。村から直接北の山へ入って逃げた可能性もございます』

『よし、もう一度村へ戻って細かい獣道までくまなく探そう。絶対に見逃すな』


 マニストゥたちは去って行った。それでもしばらくの間、二人はくぼみの中で身を寄せ合っていた。

「大丈夫か、アン?」

「は、はい、大丈夫です。【敵】は【適当】に探しているんですね」

 フェールは緊張した顔を崩し、白い歯を見せた。

「いろいろあせったが、どうにかシャムアに渡ることはできたな。完全に密入国者だが」

 アンジェリンも思わず笑顔になっていた。

「ほっとしました。シャムア教の信者は、かけおち者には親切にする習慣があるんでしたよね? お湯をかしてもらえるかもしれません」

 シャムア国は、シャムア教の信者が国民の大半を占めている。愛しあう者たちを全力で支援すれば、自分も幸せになれると、多くの人が信じている。


 とりあえず、シャムアに入国はできた。気持ちは前向きになる。

「シャムア教の祈り所へ行ってみよう。強盗に襲われたと言えば、助けてもらえそうだな。ここがどこかわからぬが、西へ向かって進めば、どこかで街道に行き当たるはずだ」


 梯子に落ち葉をかけて完全に隠し、細々とついている獣道のような踏み跡をたどって歩き出した。

 細かった道は完全に川から離れ、そのうちに馬車も通れる幅の道に出たが、そこは大きな街道ではないらしく、明るくなっても誰も歩いていなかった。

 そのうちに、山間の小さな集落が見えてきた。


 門も何もない集落の入り口で、二人はしばらく立ち尽くした。

「なんだ、この村は」

「ひどい……」

 集落の畑などに人の姿は見えない。

 焼け落ちた家が、あちこちに黒い残骸となって無残な姿をさらしていた。


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