20.血と涙の夜(3)
フェールは大きく目を開いた。
「なんだと! シドが私を裏切ったと言うのか。まさか」
「信じがたいでしょうが、あなた様を売る計画を練ったのはシド坊ちゃんだ。坊ちゃんは最初からあなた様を陥れるつもりだったのですぞ。このかわいい顔をした女と共謀して」
アンジェリンは、いきなり出された嘘設定に飛び上がるほど驚いた。
「なんてこと言うんですか! 嘘つき! シド様を悪者にするなんて許せません。マニストゥさん、あなたはさっき、居間でこの人と話していましたよね? シド様の家に取り入って情報を流していたって。シド様が殿下を裏切るはずがないです。私まで共謀してるなんて、とんでもない嘘です。最低! 痛っ」
マニストゥはアンジェリンを羽交い絞めに捕まえたまま、肩にガリガリと歯を立ててしわがれ声で笑った。
「なかなかおいしい肌でございます。このきめ細やかな肌で殿下を骨ぬきにしてしまったのですな。殿下、わしを信じなされ。この女とシド坊ちゃんは通じております。あなた様はそれにはめられた。まだおわかりになりませんか? この女は、危険を承知でこんな山奥まであなた様を連れ出したのですぞ。あなた様を売るために」
「嘘! この人たちは嘘ばっかり、きゃっ!」
マニストゥにまた肩を噛みつかれ、アンジェリンが悲鳴をあげると、イルカンが心からうらやましそうに茶々を入れた。
「じいさん、はやく僕にもやらせてよ。その子は僕の彼女になる予定なんだから」
「おまえは黙っとれ」
マニストゥが何か言うたび、その臭い息がアンジェリンの頬にかかる。
――気持ち悪い。
涙が止まらない。泉のように枯れることなく湧いてくる。
それでも、フェールの怒りと悲しみに満ちた瞳を見つめたら、どこからか勇気が湧いてきた。危険な旅であることは最初から承知していたことだ。自分が泣いてフェールを苦しませてはいけない。
アンジェリンは涙を止めるため、唇の裏を強く噛んだ。
――私、あきらめない。こんなこと、たいしたことじゃない。しっかりしなきゃ。私は殿下の道化。殿下を苦しませることが仕事ではないもの。
アンジェリンは自分の心に言い聞かせ、鳥肌をたてながらも反論した。
「私はシド様と通じてなんかいません。こんな作り話で殿下をだまそうとしたって、そうは――っ」
また噛みつこうとしたマニストゥを遮るようにフェールが怒鳴った。
「やめろ! それ以上彼女に噛みつくな。彼女を解放すると約束しただろう」
しばらくの間動きを止めていたフェールは、両手を上げたまま少し前へ進み、マニストゥを正面からにらみつけた。
「私はシドもアンも信じる。何も知らない人間ならうっかり騙されてしまうところだ。この旅にアンを誘ったのは私だ。アンは、最初は、私の身を案じ、私を城へ戻そうと一生懸命だった。シドだって、私がこの計画を打ち明けた時は猛反対した。私を売ろうとしていたなどと、嘘偽りもはなはだしい」
マニストゥは、アンジェリンの肩に顎を乗せたまま平然と返した。
「うほほ、そうですか。ならば、これはシド坊ちゃんの命令だと言った今の話は冗談ということにしておいてもよろしいですぞ。たとえ、わしが言ったことがすべて真実だったとして、あなた様が後になってお困りになったところで、そんなことは知ったことじゃありませんからな」
フェールは眉間にしわを寄せていた。
「きさま、アンに何回も噛みついただけでなく、私を惑わそうとしたな。シドは私のかけがえのない親友であり、従兄弟だ。侮辱は許せぬ」
「殿下、人を惑わそうとしたのはわしだけではございませんぞ。この女も同じでございます。この女は、先ほど、殿下を裏切ってイルカンの女になるとはっきり言ったのですからな」
アンジェリンは、違う、という代わりに左右に頭を振った。下手に声を出せば、首を食いちぎられてしまう。
「彼女が嘘を言ったのは、私を逃がすためだったことは明らかだ。きさまのように、簡単に人を裏切るようなことを言うやつなど信用できぬ。今回の私の遠征資金はシドを通じてゾンデから受け取っていたはずだ。それなのに裏切るとは。シドに全部報告する」
マニストゥは、クク、と楽しげに喉を鳴らした。
「シド坊ちゃんとお会いになることが叶うならば、どうぞ報告なさってくだされ。わしは無理だと思いますなあ。囚われの身となったあなた様には、できることなど何一つありませんぞ」
「……きさまには何を言っても無駄なようだな。明日私を引き取りに来る者は誰だ。ザンガクムの王家の関係者か、それとも貴族連合などの全く別の組織か」
「それは会ってから確認なさればよろしいでしょう。生涯、セヴォローンの王城には戻れず、その方々と過ごすことになるかもしれませんな。仲良くなりなされ」
「重要な情報は言わないのか。では、違う質問をしよう。私をいくらで売ったのだ。それほど金が大事か」
「いくらになるかは、もらってみないとわかりませんな。何よりも金が大切という感覚は、庶民ならば当然でございます。殿下とは違い、庶民というものはお金を自分で稼がないと生活していけませんゆえ」
「金が必要なことは理解できるが、金のためにおまえは人を裏切っている。人は信頼し合って暮らしていくからこそ、幸せになれるものではないのか」
「いやいや、そうではなく、いかにずる賢く生きるかで、幸せの多さが変わってくるのですぞ。イルカン、ちょっと私の代わりに女を捕まえていてくれ。ここへ来い。わしは奥の部屋から紐を持ってくる」
フェールは憤怒を押さえた息を吐き出した。
「勝手に縛って好きなようにするがいい。だが、まずは彼女を解放しろ。彼女の身の安全を保障し、彼女をエンテグアまで送り届けてほしい」
イルカンがまた、フェールの神経を逆なでするような嘲笑をもらした。
「あれれぇ? フェール様は負け犬と同じなのに、あれこれ注文するんだね。この子を王都まで届けるなんて約束、していないよ? 僕らは、あんたを縛らせてくれたらこの子を解放してやるって言っただけなのに、勝手に約束をいっぱいつけて。王族ってこれだからいやだ。何でも自分の思い通りになると思っている。あつかましい身分だよ。王家なんか滅んでしまえばいいのに」
フェールは切れそうなほど唇を噛みしめていた。
「黙れ! どこまでも無礼なやつ。私は縛られたままどこへ連れて行かれようとも、今宵のことは決して忘れぬぞ」
マニストゥはイルカンが言ったことを聞き流し、言葉だけは愛想よく答えた。
「殿下、急ぎ紐を持って来て縛りますから、そしたら、お約束通り、女性を解放しましょう。今しばらくお待ちくだされ。わしらは、殿下が逃げないという安心が欲しいのでございます」
マニストゥは、羽交い絞めにしていたアンジェリンの両手首をつかんで後ろでひとまとめにして持った。
アンジェリンの腕が後ろに引っ張られる。
「痛い。いや」
アンジェリンは顔をしかめた。フェールが苦痛に満ちた顔でこちらを凝視している。
――私は大丈夫です。
彼を心配させないよう、アンジェリンは目で合図を送った。
今なら。
両手がひとまとめにされて近い位置にあるなら、袖口に仕込んだ毒針が取り出せるかもしれない。
密かに人さし指と、中指をのばして針を探る。
――届いた。
指先に当たる尖った物体。つかみたいが、押さえられている両手では、毒針はうまく引っ張り出せない。
――どうにかして毒針を出さなきゃ。
手が震える。もう少しがんばれば針が取り出せる。そして、マニストゥの指のどこでもいいから針を刺すことができたなら。
フェールの背後にいたイルカンが、アンジェリンを押さえる役に交代するため、フェールの首近くにあった剣を遠ざけた。イルカンは、剣をフェールに向けたままゆっくりと離れて、ジリジリとカウンター向こうのマニストゥの方へ近づく。
イルカンは、フェールが隙をみて飛びかかろうとしていることは承知しているようで、マニストゥの方へ急いで歩いて行くことはしない。
「フェール様ぁ、わかっているよね? 僕が離れてもあんたは自由じゃないよ。僕を殺せば彼女は死ぬから、変な動きをしちゃだめさ。僕は離れてもあんたを一撃で殺せる」
両手に剣を持ったイルカンは、ゆっくりと一歩ずつ、足を進めている。それでもフェールをいつでも殺せるように、そして、飛びかかられないよう、全身で注意を払っていることがアンジェリンにはわかった。フェールがへたに動けば、本当にイルカンはフェールを殺してしまう。そして、その瞬間にアンジェリンの方も首を噛み切られて――。
アンジェリンは時間を稼ごうと考えた。その間も、密かに毒針の取り出しを試みる。
「来ないで。あなたなんか大嫌い」
イルカンが明るく笑った。
「おかしいなあ、言っていること、ちぐはぐだよ。さっき、彼女になってくれるって言ったよね?」
「……やっぱり、イルカンさんの彼女になるの、やめました。ごめんなさい、ちょっと無理で。私、乱暴な人、好きじゃないので」
「僕をそんなに嫌わないでほしいね。ねえ、彼女、歳はいくつなの? まだ十代だよね? 僕とあまり変わらないかな?」
アンジェリンは針を必死で探り続けた。
――つかめた!
あとは隙をみて、刺すだけ。
マニストゥは、先ほどアンジェリンが『イルカンの彼女になる』と言った時、少しだけ腕を弛めて笑っていた。マニストゥは何かに気を取られたら、隙ができるらしい。それならば、毒針を刺すことだって不可能なことではない。毒針の効果がどれほどのものかは、今考えても何の解決にもならない。
毒針に気づかれないよう、マニストゥの気を散らす方法……。
気持ちを奮い立たせる。
「【イルカン】さんが、ここに【いる】わ……うふふ」
アンジェリンの意味不明な薄笑いにその場の雰囲気は一瞬凍結した。マニストゥは、ふんっ、と鼻息を出した。
フェールも眉を動かしたが、さすがに笑いはしなかった。アンジェリンはマニストゥの腕が多少弛んだことを確認した。
イルカンは一瞬ぽかんとした顔になったが、すぐに顔をくしゃくしゃにして笑いだした。
「それ、駄洒落? あんた、突然なに言ってんの? 怖くって頭がいかれちゃったのかい? 僕の彼女になるって言ってみたり、駄洒落をいきなり出したり、超おもしろい。いよいよ惚れちまうね。【イルカン】ならここに【イル】よ。【イルカン】は【いる】価値なしなんて言わないでね」
マニストゥがイルカンをせかす。
「イル、無駄口をたたいている暇があったらさっさと女の手首持ちを代われ」
「はいはい。でも気を付けないとさ、フェール様にやられそうだからね」
アンジェリンは指先につかんだ針に精一杯の力を込めた。
――エイッ!
「つっ! このっ」
アンジェリンから離れようとしていたマニストゥは、舌打ちしてアンジェリンをつかんでいた手を左手に変えた。
マニストゥの右手首には一本の針が刺さっていた。笑っていたイルカンは顔を引き締め、一歩下がって身構えた。
「あれれ、じいさん、彼女にやられちゃったの? なにやってんだよ」
マニストゥは左手でアンジェリンの両手首をまとめてつかんだまま口で毒針を抜き、プッと音を立てて吐き捨てた。
「お嬢さん、こんなものを年寄りに刺すとは思いやりがない。袖口に武器を隠し持っていたとはわしも油断したわい。わしにはこんなもの効かないですぞ。他にも武器は……」
マニストゥは片手でアンジェリンの両手首をまとめ持ったまま、もう片方の手でアンジェリンの服をさぐった。
「おや、下着の中に高級そうな短剣を忍ばせておいでだ。ですが、すばらしい武器をお持ちでも使いこなせないことには宝の持ち腐れというもので――」
今ならマニストゥの口は、アンジェリンの首から離れている。
――今しかない!
アンジェリンは、膝をわずかに曲げて、少し背を丸め、すぐに勢いをつけて身をのばし、マニストゥの鼻に頭突きを食らわした。マニストゥは苦痛の声をあげ、さきほどアンジェリンから奪い取った短剣を落とした。
「アンジェリン!」
フェールが心配の声を上げたのとほぼ同時に、アンジェリンはマニストゥの拘束を全力で振りほどき、後ろへ思いっきり突き飛ばすと、後ろの棚にあった酒瓶を、ひっくり返ったマニストゥに向かって、手当たり次第投げつけた。ガラス片と水分が辺りに飛び散る。漂う強烈な酒の臭い。ひるんだマニストゥが立ち上がらないうちにカウンターから抜け出し、テーブルの向こうに回り込んだ。
何もせずにその場に突っ立って見ていたイルカンが、また大きな声で笑った。
「あははは、じいさん、ぐずだなあ。逃げられてるじゃないか。あんた、本当に剣の師範なの? 動きがのろまだよ。毒がもうまわってる? 僕ならそんなへまはしないさ。獲物は一撃で仕留めなきゃ。こうやってね」
イルカンはそう言うなり、両手に持った剣を同時に別々の方向へ投げていた。その一本が、必死で隠れようとするアンジェリンに――
「危ない!」
フェールがとっさに両手を広げてイルカンの前に飛び出した。
にぶい音と共に、血が付いた短剣が床をすべった。




