19.血と涙の夜(2)
迫るイルカンの剣に、アンジェリンは思わず目をつぶっていた。
ピリッとした痛みが体を縦に走り、夜の冷たい空気が胸元から入り込む。恐る恐る目を開けてみると、首下からへその上まで、服が完全に切り裂かれていた。胸の谷間に縦に長く浅い切り傷ができ、血が糸の川になって垂れている。
「おっと、ちょっと身を切っちゃったかな。痛い? あんたがあんまりかわいいからさ、手元が狂っちゃった」
陽気な声とは裏腹に、イルカンのギョロ目は全く笑っておらず、人情の欠片も感じられないほど冷めていた。
アンジェリンは身震いした。この男は、後ろのマニストゥよりも危険かもしれない。軽口をたたき、口元は笑っていても、どこか冷ややかな雰囲気がある。アンジェリンを痛めつけることなど何とも思っていないに違いない。
――このイルカンって人……。
たぶん人を本当に殺したことがあると思う。
イルカンの手にはしっかりと短剣が握られており、すぐにでもアンジェリンを刺殺してしまいそうだ。怖さのあまり、涙がどんどん出てきて止まらない。
「あらら、フェール様ぁ、彼女、泣いちゃってるよ。放っておいていいの? 次は下まで脱がしちゃうよ? 今度は痛くないように上手に切るから」
「きさま、やめろと何度も言っているではないか」
フェールの雷のような声にもイルカンは平然としており、口元の薄笑いは消えない。
「じゃあさ、さっさと降伏しなよ」
アンジェリンは必死で辺りに目をやった。静かな山間部の闇が広がっているだけ。誰も助けには来ていない。大声を出せば、また蹴られる。今度は頭を蹴られるだけで済まず、半殺しにされるかもしれない。
――このままでは彼が捕まってしまう。何もしないまま殺されるなんていや。
ガクガクする足でマニストゥを蹴っても逃げられるとは思えない。
あと自分が自由にできるのは……まだ口がある。
声を出すことなら今のところはできる。大声を出さなければたぶん蹴られることはないだろう。
――どうか、私を捨てて逃げのびて。私なんか嫌いになって。
涙がぼろぼろ落ちていく。
精一杯の願いを込めて。
「私っ、王太子殿下には申し訳ないんですけど、今からイルカンさんの彼女になりますっ! だから、べつに、殿下に助けてもらわなくってもいいです。私、殿下のことなんか、なんとも思っていませんでした。一緒に来いと言われたから、ご一緒しただけで」
自分でもひっくり返った変な声だと思った。勝手な言葉を吐いているのは自分の口ではないような気にもなった。
フェールは、ハッ、とした顔でアンジェリンを凝視し、完全に動きを止めた。
イルカンの方は、一瞬ぽかんとしたが、すぐに爆笑した。
「ぎゃはははっ、ちょっ、なにこの子。フェール様の愛人はやめて僕の彼女になってくれるっての? うれしいなあ。じゃあ、僕とヤッてもいいってことだよね?」
アンジェリンは唇が震えないよう、顔に力を入れながら答えた。
「……え、ええ、もちろん。もう殿下のことはどうでもよくなりました。だから、私を捕まえているこの人から解放してください」
イルカンは、笑いながら、首を左右に大きくふった。
「あんたさ、本気で僕の彼女になる気なんてないだろ?」
「これからイルカンさんのことをいっぱい好きになる努力をします。私、マニストゥさんよりイルカンさんの方が好みなんです」
背後のマニストゥもこらえきれない笑いをもらしている。アンジェリンを捕まえている腕が少し弛んで笑いに合わせて細かくヒクヒク動いていた。
「このお嬢さん、なかなか素晴らしいことを言いますなあ。なんと大胆な。さすが、王太子殿下が選んだ女性ですな」
フェールはアンジェリンを捨てて逃げる様子はまったくない。
こんな嘘、誰にも本気にされていないとは分かっている。
それでも必死でまくしたてる。万に一つでもこの状況を脱する可能性があるなら。
「私っ、本当にイルカンさんの彼女になりますからっ! イルカンさん、手を組みましょう。王太子殿下はザンガクムではなくて、シャムアへ売った方がもうかると思いません? このままでは殿下はザンガクムの方に渡されてしまいますよ。それでいいんですか?」
「ひゃはっは、僕とあんたが手を組むって、すごいなあ。おもしろい案だけど、シャムアへ連れて行くなら、最初からそういうふうに計画しないとだめさ。このままザンガクム側から何ももらえないなんてばからしいからね。もちろん、シャムアへ渡した方が、最終的なほうびとしては多いと思うけどさ」
「だったら、ほうびが多い方がいいに決まっていますよね? 私もお金がいっぱい欲しいんです。殿下の身柄はシャムアへ渡して、たくさんお金をもらって山分けしましょう」
こんなひどいことを言っている自分はおかしいのかもしれない。でも
――それも可能性のひとつ。どうせ逃げられないならば、ザンガクム側に渡されるよりは、シャムアへ。その方が、殿下はシャムアの内情を知ることができるかも。
アンジェリンのそんな密かな意図も、簡単に見透かされていた。
「あんた、嘘つくのやめなよ。泣きながら急にそんなこと言ったって無理があるんじゃない? 僕と組んだふりして、僕にじいさんを殺させる気だろ? で、隙をみて、フェール様を逃がすって?」
「そんなんじゃないんです。私、お金もイルカンさんも好きです」
「ふーん、そう? じゃあさ、あんたの手でフェール様を殺しなよ。今すぐにね。あんたの覚悟を見せて。僕の彼女になるならそれぐらいできるよね?」
「……っ……」
「何泣いてんの? やっぱりできないだろ?」
「……いいえ。私……っ……殿下を殺します。その剣を貸してください。その前に私を捕まえているマニストゥさんをどうにかして……」
もう泣き声しか出なかった。
これは賭けだ。
剣を渡してもらえるなら、自分の首を突くことができる。
殿下の足手まといになんかなりたくはない。邪魔になるなら死んだ方がまし。
もしもそれが無理なら、フェールを殺すふりをして、そして、フェールの頭上に剣を振り上げた瞬間に、彼が剣を奪い取って反撃してくれたなら――。
そのとき、フェールの声が会話を裂いた。
「アン、もうよい。私は降伏する」
涙でかすむ目で闇に立っているフェールを見ると、彼が剣を投げ捨てたことがわかった。
「そなたらの言う通りにしよう。それ以上彼女に傷をつけないでくれ」
剣を捨てたフェールは、両手を顔の横まであげた。イルカンは素早く移動してフェールの剣を拾うと、フェールの後ろに回り込み、右手に自分の短剣、左手にフェールの剣を持った。それも、恐ろしく速い動きだった。
フェールはアンジェリンに、やさしく静かな微笑を投げた。
「私にはこれ以上見ていることなどできぬ。おまえは私を逃がそうと必死になってくれたが、こんな状況で自分だけ逃げるなど、できるわけがない。計画は流れるがそれでもかまわぬ」
「そんな……いけません。あなた様にはやるべきことがあって……こんなところで捕まるためにお城を出てきたわけじゃないのに」
「おまえが解放されるならば、それでよい」
イルカンがわざと大きな音を立てて舌打ちした。
「ほらぁ、やっぱり僕の彼女になるなんて嘘じゃないか。バカな子だなあ。必死でかわいいけどさ」
マニストゥは、勝ち誇った声をあげた。
「王太子殿下、懸命な判断でございます。わかってくださればよろしいのです。逃げてもらっては困るゆえ、軽く縛らせてもらいますぞ。室内へお入りくだされ」
フェールは怒りで震える声を絞り出した。
「要求通り剣は捨てた。先に彼女を放せ」
マニストゥは、アンジェリンを羽交い絞めにしたまま引きずって玄関に向かって歩き始めた。
「痛い、放してってば」
腕を振りほどこうとするアンジェリンのささやかな抵抗に、マニストゥは軽々しく笑った。
「うほほ、殿下、お約束通り、女性はそのうちに自由にしてあげますぞ。両手を頭の上まであげて付いて来てくだされ。外には縛る紐がないので」
「きさま、絶対に許さぬ。いつか息の根を止めてやる」
「それは楽しみなことですな。どういう方法でこの老いぼれを殺しますかな?」
フェールは低いうなり声を上げたが、アンジェリンが捕まっている以上、どうすることもできない。
両手を上げたフェールの後ろには剣を手にしたイルカンがいる。イルカンは馬鹿にしたような笑い声をもらし、フェールをさらに苛立たせたようだった。
「無礼なやつ、きちんと名乗れ」
「僕? 僕の名はイルカン。いやだなあ、さっき彼女の前で名乗ったのに、聞いてなかったの?」
「それは正式な名ではあるまい。本名を言え」
「さあね。僕は情報屋だから教えてあげない。悪く思わないでね。僕は真面目に仕事をしているだけなのさ。あんたの彼女、僕がもらってもいいでしょ? 僕を選んでくれたんだから」
「あれは私を守るための偽りの言葉だ」
「へぇ~、すごい自信だね。彼女を信じきっているんだね。女なんていつ裏切るかわかんないのに。この子なんて、目的があれば本当に体を売っちゃいそう」
「黙れ。彼女を侮辱する気か」
「ねえ、じいさん、フェール様って怖いよ。すごい殺気だね。これじゃあ何するかわかんないから、さっさと殺したら? 今、ここで僕がやってやる。血が見たいね。フェール様の高貴な血って何色かなあ。実は真っ黒だったりして」
イルカンは、フェールの首の横に剣をあてて、楽しそうに歯を見せて笑った。マニストゥは不愛想に返した。
「やめんか。殺していいのは逃げようとして暴れた時だけだぞ」
「じゃあさ、足指の一本でもいいから斬っていい? そうすれば逃げられなくなるよ。走ることができなくなるからさ、縛るより簡単でしょ? 爪を一枚はぐだけで充分だけどね」
「とにかくさっさと室内へ入れ。こんな場面を近所のやつらに見られたらまずい」
イルカンはまだふざけて何か言っていたが、マニストゥは無視してアンジェリンを引っ張って室内に入った。
大きな長方形のテーブルが真ん中に置かれている居間は、まだ燭台が灯ったままで、室内は明るかった。マニストゥはアンジェリンを連れたまま、カウンターが切れている左端から向こう側へ回り、私室の扉の方へ向かっていく。
フェールはイルカンに剣を突き付けられながら低い声で不快感を投げつけた。
「マニストゥ、女性を人質にとってこの私を脅すとは……これは許されざる行為だ。なぜこんなことをする」
怒りで唇を震わせるフェールに、マニストゥはアンジェリンを捕まえたまま普通に答える。
「あなた様を欲しがっている人がいる、それだけのことですよ。明日、お会いになれることでしょう。恨むなら、わしではなくご自分の愚かさを恨みなされ。こんな山奥に女と二人きりでお越しとは、捕まえてくれ、と大声で言っていることと同じでございましょう」
「シドはそなたを信頼していた。どうして彼を裏切ったのか」
マニストゥは下品な笑い声をあげた。
「王太子殿下、それは違いますぞ。これはシド坊ちゃんの命令です」