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18.血と涙の夜(1)

 アンジェリンを捕まえたマニストゥは、体重をかけ、アンジェリンの手足を抑え込んで完全に動けない状態にした。

「放してください!」

「はいそうですか、と放すわけにはいきませんなあ」

 アンジェリンは思わず顔をそむけていた。

 マニストゥの脂ぎった顔が目の前にせまる。頭頂まであるマニストゥの広い額がテラテラ光り、男臭い体臭が鼻を突く。


「お嬢さん、王太子殿下にこっちへ来るよう言ってもらえんかね?」

「痛い。どいてください。シド様の先生なのに、どうしてこんなことをするんですか」

「どうしてでしょうなあ」

「人でなし」

 アンジェリンは組み伏せているマニストゥの顔めがけて、ペッと唾を吐きかけたが、相手は平然としていた。

 ひんやりとした畑の土の湿気が背中に徐々に染み込んでくる。作物の茎らしきものも背中に刺さってチクチクして痛い。動こうとしても、両手足を抑え込まれ、肘すら動かすことができない。緊張の汗が噴き出し、息が上がってきた。


 アンジェリンのすぐそばに立っている訪問者の男は、楽しそうに闇に向かって呼びかけた。

「フェール様ぁ~、大事な彼女が捕まっちゃったよぉー。そこにいるんだろ? 出てきなよ。おぅ? もうお出ましだ」


 アンジェリンは顔を横に向け、マニストゥの肩越しに玄関方面に目を凝らした。

 隠れていたはずフェールが、荷物を捨て、剣を抜いてこちらへ向かって走ってくる。

 訪問者の男が、ランタンを土の上に置き、さっと身構えた。

 ――いけない!

「私にかまわず、早く逃げてください」

 アンジェリンは呼びかけたが、フェールはまったく聞き入れず、どんどん近づいてきてしまう。


「きさま、アンジェリンを放せ」

 マニストゥは、アンジェリンを組み伏せたまま薄気味悪いしゃがれ声を出した。

「うほほ……王太子殿下はこの女がよほどお気に召したとみえる。おひとりなら馬で逃げることは可能だったでしょうに。剣を捨てて下され。その剣をわしらに向かって振るうならば、この女を今すぐ殺しますぞ。わしらが必要なのはあなた様おひとりだけ。連れている女はどうでもいいのですからな」


 アンジェリンは近所に助けを求めようと、大声を出すつもりで大きく息を吸い込んで――。

「っ!」

 衝撃が走った。

 一瞬何が起こったのかわからなかった。

 痛みと同時に、いきなり、グイッ、と体を引っ張られ、気が付けばマニストゥが背後に回り込み、羽交い絞めにされた状態で立たされていた。

 首と頭がズキズキ痛い。

 訪問者の男が、うろたえるアンジェリンを見てゲラゲラ笑っている。

「あんた、なにがどうなったかわかんないって顔してる。今、大声を出そうとしたよね? 騒ぐなら、もう一発お見舞いしてやるよ。人質はおとなしく黙っていてね。誰かを呼んで助かろうなんて思っちゃ駄目さ」

 ――私……この人に頭を蹴られた……。

 蹴りにきた、と認識する暇もなく。


 アンジェリンはこの男の顔を正面からよく見たが、知らない顔だった。ランタンの灯の中に浮かび上がる男は、十代後半から二十代前半ぐらいの若さだと思われる。細く小柄な背格好。後ろで縛ってある癖の強い黒髪は、海藻のように波打って固まり、何色かわからない大きな目が、薄明りの中でぎょろぎょろ動いていた。


 男は、捕まっているアンジェリンに近づくと、その重そうな前髪を持ち上げ、顔を覗き込んできた。

「あらら、今の僕の蹴りでちょっと眉の上が切れちゃった? 血が出てるけど大丈夫、深い傷じゃなさそうだよ。あんた、前髪をどけておでこを出した方がかわいいね。大きなお目目、きれいだなあ。その前髪、うっとうしいから僕が刈り込んであげようか?」

「結構です!」

「なあんだ、駄目ぇ? せっかくあんたがもっともっとかわいくなる案を出してあげているのに。あんた、僕の好みど真ん中だ。よく見ると超かわいい! ねえ、あんた僕の彼女になりなよ。僕のことはイルカンって呼んでね。仲良くしようよ」


 フェールは、少し離れた場所で足を止めると、剣を手に持ったまま用心深く身構えた。

「彼女を蹴ったな! 彼女にそれ以上のことをしたら、きさまら、二人とも殺してやる」

 マニストゥは、不敵な笑い声をもらした。

「殿下、お持ちの剣でわしらを刺そうとしておいでのようですが、そうはいきませんな。ここにいるイルカンは、ザンガクムの養成所の出身者。わしを殺すことに成功したとしても、こいつから逃げられる、などと甘い考えは捨てなされ」

「その者が養成所の出身者だから、どうだと言うのだ?」

「殿下は養成所のことをご存じないのですかな? ザンガクムの養成所は、暗殺者や密偵の育成機関としては最高の位置づけの施設でございます。養成所の者たちは、物心つかぬ幼いころから人殺しの訓練をやっておりますゆえ、人を殺すことなどためらいなくやってのけますぞ。殿下がわしに剣を振り上げた瞬間、このイルカンが、剣を持つあなた様の手首を切り落とし、次にこの女の首をはねてしまうことでございましょう」


 イルカンという名の訪問者は、マニストゥの説明を証明するように、その場で身軽に数回飛び跳ねると、自信たっぷりの顔を作って見せた。

「フェール様ぁ、僕を殺してみたい? やめときなよ。絶対に僕の勝ち。だって僕はね、小さいころからずっと人を殺す練習をしてきたんだからさ。それにね、実際に人を殺したこともあるよ。フェール様は自分の手で人を殺したことなんてないよね? 殺したい人がいたら、命令して終わりでしょ?」


 アンジェリンは必死に叫んだ。

「逃げて! お願いです」

 フェールは逃げるどころか、さらに近づいた。もう少しでイルカンに飛びかかれそうなところまで来てしまっている。ランタンの薄灯りが、フェールの恐ろしいほどの眼光をあらわにしていた。


「マニストゥ、聞こえぬか。さっさと彼女を放すのだ。養成所の者がいようがいまいが、関係ない」

「女の開放をお望みならば、剣を捨てるのですな。わしらと戦ってもあなた様に勝ち目はありませんぞ。剣を捨てることがおできにならないのですかな?」

「剣を手放した瞬間に私を殺すつもりだろう」

「いいや、それはできればしたくありませんな。今あなた様をここで殺しても、利益が減ってしまいますゆえ」

「……では、そなたは私を殺せない、ということだな?」

「いえいえ、場合によっては、お命はいただきますぞ。たとえ死体でも、持ち込めば、いい金になりますからな。もう一度言いますが、わしらを殺そうとするならば、わしらがあなた様に殺される前に、この女は死にます。暴れるならば、お二人とも死んでいただくしかありませんなあ。この女を救いたいならば、あなた様は剣を捨てるしかございませんぞ」


 アンジェリンはマニストゥに抑え込まれたまま必死で声を上げた。

「ディン! それ以上近寄ってはいけません。こんな人たちの言うことなんか聞いてないで、逃げてください」

 フェールはアンジェリンの言うことはまったく耳に入れず、さらに一歩詰めた。

 

「王太子殿下は物分りが悪いですなあ。ならば――」

 マニストゥはアンジェリンの首筋に軽く歯を立てた。

「痛い! 何するんですか! やっ」

「わしはこの女の首を簡単に噛み切ることができますぞ。女をこの場で犯すことだって可能でございます。さあ、殿下、どうしますかな?」


 マニストゥの生暖かい息がアンジェリンの首筋にかかり、ねとっとした舌が肌を走る。

「いやっ、やめて」

 アンジェリンは思わず、鳥肌をたてていた。気持ち悪い、なんて言葉では言い表せない不快感が突き上げ、寒気がする。がっしりした腕に両肩は完全に捕まっており、振りほどくことはできない。自由になるのは足だけ。

 どうにかしてマニストゥの足を蹴飛ばしてやろうと試みたが、足がガクガクして思うように動かなかった。マニストゥの生臭い息が絶えず首筋にかかっている。涙がじわじわ出てきた。

 

「じいさん、いいなあ。彼女の肌、おいしい? 楽しそうだから僕も参加させてよ。僕、その子と今すぐやりたい」

 イルカンは、マニストゥに捕まっているアンジェリンの上着の上から、いきなり右胸をぎゅっとつかんできた。

「きゃっ!」

 イルカンは軽く笑い、いつの間にか抜いていた自分の短剣の先をアンジェリンの胸元へ向けた。

「はーい、かわいい彼女。あんた、顔も俺好みだけど、おっぱいも柔らかくていいね。フェール様はこの胸に惚れたのかな」

「さっ、触らないで、変態!」

「ひどい言われようだなあ。フェール様にだって散々触らせたんだろ? じいさんにも首をかじらせているんだから、ちょっとぐらい僕が胸を触ったっていいじゃない。減るもんじゃないし」

「いやです」

「つれないなあ。僕、フェール様よりあんたを満足させてあげる。僕はこう見えても、女を抱くのは大得意なんだよ。おーい、フェール様、降伏しないなら、そこでずっと見ていてね。この子が僕に犯されて美しく悶える様を見せてあげる。まずは彼女に裸になってもらうよ。ちょっと血まみれになるかもしれないけどさ」

 イルカンは、下品に唇をゆがめて笑いながら、アンジェリンに向かって剣を振りかざした。


 フェールもアンジェリンも、叫びにならない声を上げた。

「やめろ! やめてくれ。やめろー!」

「いやあああ!」


 悲鳴と同時にイルカンの剣が振り下ろされた。


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