15.短剣と首飾り
アンジェリンとフェールは、おそろいの皮袋を一つずつ担ぎ、手をつないで歩いた。
町中からは外れているが、通りにはきちんと石畳が敷かれており、歩きやすい。今のところは二人を探している様子の兵は見かけない。
フェールがささやき声でアンジェリンに話しかけた。
「これからはおまえのことはアンと呼ぶから、私のことは殿下と呼ぶな。どこに父の兵が隠れているかわからない」
「はい、では、なんとお呼びしましょう」
「そうだな……ディンセル、いや、ディンでいい。私の真の名はディンセルラントゥールというのだ。王位継承権を持つ者は皆、二つの名を持つ。通常使うのは短い方の名。それがフェール。長い真の名は使われることはない。使わない名をつけるとは、やめられない無駄な習慣だと私は思っている」
「では、シド様も長い名をお持ちなのですか?」
「シドもザースも持っているはずだが、私は彼らの真の名を知らない。知っているのはつけた両親と本人のみだ。長い名は、元は呪いを回避するためのものだと言われていて、人に教える名ではないのだ」
「承知しました。これからディン様とお呼びします」
「様はいらぬ。私の身分が明かされるようなことになっては困る」
「わかりました……ディン……あのっ、なんか言いにくいです……」
「慣れろ」
かつらの下のフェール目は笑っていた。
その夜は、シドが手配してくれたヘロンガル家御用立ての宿に怪しまれることなく泊まり、翌朝、町で馬車を拾い、さらに北へ向かった。
ガルダ川に沿った道は、北へ向かいながら徐々に険しく細くなり、遠すぎて見えなかったガルダ川の対岸は、今ははっきりと輪郭を見せるようになった。
さらに進むと、やがて、馬車をすれ違うことが難しいほど道は狭まり、山の方から来る馬車と対向するたびに時間がかかるようになってしまった。
下流の船着き場が閉鎖されてしまい、仕方なく山経由でシャムアへ渡ろうと、街道は多くの通行人がいる。今日は晴天でよけいに人が多いようだ。徒歩、荷馬車、馬などで道はごった返している。そういう通行人目当てに、行商が商魂たくましく、道沿いに臨時に店を出し、さらに通行をさまたげていた。
二人を乗せた馬車は、大きな馬車とすれちがうたびに停まってしまい、なかなか進まない。しびれを切らしたフェールは、馬車を降りて歩くことに決めた。
風景はすっかり山に変わり、岩と樹木が入り混じった中につけられた道は、ゆるい登りが続いている。
アンジェリンたちは、あちこちにできている露店を覗きながら歩いた。道の隅に並ぶ店は、ほとんどが地面にじゅうたんを敷くか、荷車がそのまま商品台になっているにわか作りで、ろいろな物が売っていた。取り立ての野菜だけでなく、美術品や、旅に必要な帽子、服、剣など、こんな場所に、と思うような山と谷しかないさみしい風景のところに、さまざまな店がある。
フェールは、武器をいくつか置いている店の前で足を止めた。
店を出している太った主人が、愛想よく声をかけてきた。
「お客さん、剣を一本いかがですか? この先はぶっそうですよ。すべてうちの鍛冶場で作ったもので品質は保証しますよ」
「妻の護身用に質のいい短剣はないか? 鞘付がいい」
『妻』と言われ、アンジェリンはドキリとしながら、品定めするフェールを見守る。
フェールは店に出されている短剣を片端から鞘から抜き、切れ味や持ちやすさなどを確認し、一本の短剣を選んだ。手首から指先までの長さほどの両刃で細身の剣。柄の部分は凝った葉模様が彫られており、刃の根元には職人の名が小さく刻まれていた。
「これをもらおう。これは良い品だ」
「お目が高い。そちらの短剣は最高級品でございます。お値段は少々張りますが」
店主は片手を開いた。
「五千ギルか?」
「お客さん、そりゃないですよ、五万ギルで」
アンジェリンは息を飲んだ。それは、アンジェリンのひと月分の奉仕料と同じ値段。アンジェリンにもいい剣だとはわかったが、あまりにも高価すぎる。
黙っていたらフェールはきっとそのまま払ってしまいそうだ。フェールがどれほどのお金を持って来ているかは確認していないが、こんな使い方をしていたら、すぐにお金はなくなってしまう。剣のことはよくわからないが、思いきって口をはさんだ。
「私、そんな高級品は使いこなせません。もう少し安いので充分です」
ふところから財布を出しかかっていたフェールは、不思議そうな顔をした。
「これは女性の手でも持ちやすくてすばらしい剣だと思う。道具はよい物を買った方が長く使える」
「でもあまりにも高すぎます。他を当たりましょう」
アンジェリンはさっさと歩き出そうとした。フェールがしぶしぶ剣を返し、アンジェリンに付いて行こうとすると、店主が呼び止めた。
「お客さん、お待ちください。うちで買ってくださるなら少し負けますよ。この値なら買ってもらえますかね?」
店主は指を四本見せた。
四万ギル。
フェールは眉を動かして嫌味を言った。
「素晴らしい商売をしているな。同じものが四万ギルか。そんないいかげんな値をつけるなら買わぬ」
「そうおっしゃらずに。ではもうひと負け。これならいかがでしょう?」
「三万ギルでも商売が成り立つわけか。おまえのような悪徳業者は王都に戻ったら、取り締まってもらうよう役人に通報してやる」
太った店主は、ひぃ、と顔をひきつらせた。
「通報だけはかんべんしてくださいよ。三万ギルでいいですから、おまけに、この屑鉄を入れたガラス玉の首飾りもおつけしますから。お値打ちだと思いますよ」
フェールは厳しい顔で店主をにらみつけ、ふん、と嘲笑った。
「ならば、首飾りまで付けて二万五千だ。それ以上なら買わない」
「半値にしろとおしゃいますか。それはちょっと無理でございますよ」
「ならば必要ない。他をあたる」
店主は顔をしかめながら、しぶしぶ折れた。
「わかりましたよ、お客さん。買い物上手でいらっしゃる。では、二万五千で」
「最初からその値段にすればよいだろうに」
店主は、罰が悪そうに、ヘラヘラと笑いながら、お金と引き換えに短剣と首飾りを渡した。
「うちも商売ですからねえ、これで女房と子供を食わせているんで、価格のことはお許しくださいよ。今日は一本も売れていないんで、仕方なく値段を下げさせてもらったんですがね、普段はこんなに引かないです。お客さんもそれが五万ギルの価値のある剣だとはお分かりになるでしょう。それは本当に良い品でしてね、渾身の作でございます」
「だが売れ残りの在庫処分品だろう? 刃は新品のようだが、少々古いと思う。柄の模様にほこりがたまっている」
「ここは埃っぽいですからねえ、ですが、中古ではありませんから」
アンジェリンたちは、まだ言い訳をしている店主から離れ、再び北へ向かって歩き出した。
しばらく歩いて疲れたので、途中、河原に降りて石に腰かけて休憩をとった。
この辺りのガルダ川は、砦がある河口とは全く違い、渓谷のような風景に変わっている。対岸にシャムア兵の姿は見えない。河口付近のように緊迫した雰囲気は全くなく、街道を進む人の多さだけが異常に見えた。河原の日当たりがいい場所には、アンジェリンたちのように岩に腰かけて休憩している人が何組もいる。
フェールは先ほど手に入れた首飾りを手に取った。
「髪をあげろ。つけてやろう」
「はずかしいです……自分でやりますから」
「いいから、髪をあげて」
アンジェリンは言われたように、茶金色の長い髪の後ろを持ち上げた
フェールが自らの手で首飾りを付けてくれる、そう考えるだけで頬が染まってしまう。首飾りの冷たい感触。くすぐったいような幸せ。フェールが満足そうに目を細めて、アンジェリンの反応を見ている。彼の琥珀色の瞳がまぶしい。湧き上がる想いに小さな声で礼を言った。
「……ありがとうございます」
鉄くずを散りばめたガラスの玉に、皮ひもを通しただけの単純な首飾りは、高級品ではないことは明らかだったが、親指の爪ほどの大きさの透明な丸いガラスの中で、細かい鉄が、角度によってキラキラと反射してきれいで、町娘が手軽に使う装飾品としては悪くはなかった。
「城へ戻ったら、もっときちんとした装飾品を買ってやる。その日まで、それをつけておいてくれ。その首飾りは、婚約の証だ」
アンジェリンははにかみつつ下を向いた。城へ戻ったら――フェールは本当に自分と正式に結婚できると思ってくれている。でもきっとそれはない。彼は理想をどこまでも捨てられない人なのだ。旅の果てには別れが待っている。政略結婚の話がなくなったとしても、自分の生まれは――。
アンジェリンは目を閉じてさみしくなる心を沈めた。
――だめ、今はそんないやなことを考えちゃいけないの。
アンジェリンの気持ちに気が付かないフェールは、先ほどのことを思い出して不快そうに顔をしかめた。
「それにしてもあの武器屋め、とんでもない男だ。だまされて高い買い物をさせられるところだった」
「ああいう商品は値段があってないようなものですから、どんどん値切ってもいいと思います」
「おまえの言う通りだ。はしたなくても初めから値段交渉すべきだった」
「いやしいことを申し上げてすみません。私のために買ってくださってありがとうございます。剣も首飾りも一生大切にします。この【剣】は大切だからつまらない【けんか】には出しません」
フェールの唇が楽しそうに横に伸びた。
「ははは、あいかわらずだな。私の留守中はその剣で身を守ってくれ。おまえは無防備すぎる。そんな笑顔も他の男に見せるな」
「子供っぽいことをおっしゃらないでください。私は笑いたいときには他の男性がいても笑いますよ。だめと言われても笑います」
「おまえが他の男に向けて笑顔を見せることも実はたまらなく嫌なのだ。馬車の中でシドに向けて笑っていただろう。あれも気になった。自分で言うのもなんだが、自分がこれほど嫉妬深い男だとは思っていなかった。我ながらなさけない」
「【なさけ】ない人から【情け】を受けてしまいました」
「言ったな、こらっ」
フェールはくすくす笑いながら軽く唇を合わせた。
「少々空腹である。くだものを出してくれ。荷物袋の中に入っているはずだ」
アンジェリンがリンゴを出すと、フェールは持ってきた折りたたみナイフで皮をむき始めた。
「ほら、剥けたぞ。少しは上達できただろうか」
フェールは角だらけのリンゴを誇らしげにかかげた。分厚くそぎ取られた皮が付近に散らかっている。
「うふふ……うまく出来ていますけど、あともう少し、でしょうか」
「初めての時よりもましになったと思うのだが」
「そんなに早く上達なさっては城の使用人がやることがなくなってしまいます」
「ならば、使用人など必要ない。私は自分でなんでもできるようになりたいのだ。旅の間に、いろいろなことを経験したい。リンゴの皮むきだけでなく」
フェールは剥いたリンゴを一つもち、アンジェリンの方へ身を寄せた。ドキドキするほどやさしい瞳で見下ろしてくる。フェールはリンゴをひとかけら口に含むと、口移しでアンジェリンに食べさせた。
「ん……」
口に押し込まれたリンゴの香りが、口内にほんのり広がる。
「おいしいだろう?」
無邪気な笑顔を見せるフェールに、アンジェリンも微笑み返した。
「おいしいです」
「もっと食べろ」
「いっ、いいです。自分で食べられますからっ」
「食べさせたい」
有無を言わさずリンゴがやってくる。
「んんっ」
リンゴが二つの唇の間を何度も移動した。甘酸っぱいリンゴの香り。やわらかな唇の感触にお互い酔いしれる。
アンジェリンは心に広がる温かい気持ちに、心から笑った。
――今を大切に。今しかなくてもいい。殿下のことが好き。大好きです。
今は彼を王子としてではなく、ひとりの男性として見ればいい。
セヴォローンの王太子が行方不明になっているといううわさ話は、道行く誰の口からも聞こえてこない。内部では大混乱していると思われる王城は、この事実を徹底的に伏せているらしかった。
二人は、王城のことなどを心から締め出し、二人だけの幸せの中に浸っていた。
そのころ、セヴォローンの東隣の国、ザンガクムの王城内では、国王キャムネイと娘のクレイア王女が、石造りの塔の一室で、二人きりで、ひそひそと話をしていた。
「この婚礼でわたくしが後悔することなどありませんわ。わたくし、できるだけ早くフェール様のお子をさずかって、正当なセヴォローン王の母になります。子が生まれ次第、ラングレ王とフェール様には早々と寿命を迎えていただきましょう。必ずや、セヴォローンを我が国に併合してみせますわ」
クレイア王女は青く細い目をさらに細めて、自信たっぷりの笑みを浮かべた。