13.離れた家族
セヴォローンの王城内では、フェール失踪の情報は、ごく一部の者だけが知る秘密事項だった。
国王ラングレの怒りは収まらない。
「何をやっておる! フェールはまだ見つからぬのか。もう三日目である」
王の苛立った声に、ひれ伏す兵は、さらに縮こまって床に額をつけた。
「申し訳ございません。港を押さえ、あちこちに検問所を設けておりますが、今のところ発見の情報は入っておりません」
「アンジェリン・ヴェーノの家にもいなかったのだな?」
「その女も行方が知れないままでございます。ロイエンニ・ヴェーノを拘束し、屋敷で張り込みを続けておりますが、王太子殿下はすでに出国なさった可能性もあります」
「やはり女と二人で逃げたか。逃がしはせぬ。男女二人でいる旅行者たちを徹底的に当たるのだ。出国していても必ず見つけ出せ。捕まえたら引きずってでも連れ帰ってこい!」
ラングレは、恐縮する兵が下がると、頭痛がする額を手で押さえた。その様子を横から黙って見ていた第二王子ザースが声をかけた。
「父上、少しお休みください」
「フェールのやつが見つかったらすぐに休む。フェールめ! まさか、いやしい女と自殺したなどということはあるまいな」
「大丈夫ですよ、兄上はそんなことはなさらない」
「とにかく、時が差し迫っておる。ザンガクムから花嫁が到着する前になんとしてでも連れ戻さねばならぬ」
ラングレは眉を寄せた疲れ顔で、日があたる窓際のソファにドスンと腰を下ろした。
「まったく……砦問題が緊迫しているときに城を逃げ出すとは、我が息子ながら愚かしい。そなたをザンガクムへ出すことができなくなるではないか」
「それが兄上の計画でございましょう」
「あの愚か者のフェールがそこまで考えていると?」
「兄上の行動力を軽く考えてはいけません。兄上は恐ろしい面を持っておられる。どんなことでも決めたことに向かって迅速に動き、必ず現実にしてつかんでしまいますからね」
「いや、あれはただの感情にまかせた直線的行動が得意なだけの間抜けにすぎぬ。実際に、今回のことは王太子にふさわしくない振る舞いである」
「兄上は王太子の座にこだわっておられないだけです。愛する女性を失わず、この国にとって一番いい方向に話が進むよう考えた上で失踪なさったのだと私は思いますよ。いつかきっとお戻りになります」
「しかし、戻ると信じても、いつになるかわからぬ話など待っておれぬ。ザンガクムから花嫁が来る件はいかがする。こちらから申し込んだ結婚であるぞ」
「花嫁には来ていただきましょう。ザンガクム側にはこの事態を伏せて、花嫁のクレイア王女が到着したら、兄上は病で寝込んでしまった、病がうつるといけないからとしばらく会えない、ということにすれば、対面が先延ばしになっても問題ありません」
「たしかに、そういうことにすれば、フェールの結婚式を延期し、そなたの出立も遅らせる理由もできるが……それでも王太子がいないことを何日もごまかしはできまい。戻らぬ場合はいかがする」
「その時は、兄上のことはあきらめ、兄上は病死した、と発表するしかありません。兄上がいないなら、私はこの国を離れることはできませんから、私が兄上に代わって王太子となってクレイア様を妃に迎えましょう」
「花嫁をまんまと人質にできて、代わりの婿を出さずか。それではザンガクムが納得するわけがない。不可侵同盟は、花嫁と花婿の交換が条件である。そなたの代わりに出すべき王子はわが国にはいない。シドを婿にすると言っても向こうが承知するとは思えぬ」
「そこは父上の外交手腕の見せ所でございます。場合によっては婿に行けない私の代わりに、母上にあちらに行ってもらえばいかがでしょうか」
ザースのこの案に、王は心底驚いた顔をした。
「なにっ、フェールのせいで王妃を人質に出せばよいと申すか」
「それなら私が婿に出なくても、あちらは承知するかもしれません。向こうが欲しいのは人質でございますよ。婿でなくても王族としての価値がある者なら代わりになりましょう」
王はうつむき、眉間にしわをよせた難しい顔で唸り声をあげた。
「そなたの生みの母を人質にせよと言うか。そのようなことを、賢いそなたが軽々しく口にするとは」
ザースは冷たく返した。
「母上を出すことに問題はありませんよね? 現状ではそれが一番の案だと私は思います」
「余の妃であるぞ」
「父上と母上のお心が離れておられることは存じております。父上が命じれば、母上は躊躇することなくザンガクムへ行かれることでしょうね」
「しかし……」
「もちろん、母上出国案は、兄上が戻らなかった場合の策。兄上が戻ってこられたなら、兄上にはクレイア王女と結婚してもらい、人質婿は予定通り、私になるだけです」
「ううむ……」
城で王たちが気をもんでいる間も、シドの秘密のアトリエで、アンジェリンとフェールの二人だけの時は続いていた。
アンジェリンはまだフェールの計画を中止させる話を出せずにいた。必要とされる喜びで満たされ、このままではいけないと思いながらも、つい時を忘れてしまう。
それでも、アンジェリン自身、いつまでもこの状態でいいとはどうしても思えず、フェールを怒らせることを覚悟しながら、その日の夜、寝台に入ってから勇気を出して言ってみた。
「明日の朝にはお城へお戻りください。きっと皆様が心配しながらお帰りを待っておられます」
フェールは少し悲しそうな顔をしたが、怒りはしなかった。
「父上は私の心配などしないと言っただろう。道具としての私がいなくなったことを残念がっているだけだ。気にする必要などない」
「王妃様だって、お心を痛めておられるのではないでしょうか」
「それもない。母は変わり者だ。母が愛しているのは、死者にたむけるような白い花ばかりで、父だけでなく、私やザースにも無関心だ。もしかすると、母は、私がいなくなったことすら知らないかもしれない」
「そんな……殿下がいなくなるような非常事態なのに、陛下は王妃様に相談なさらないのですか?」
「仲の悪い両親が私のことを相談しているわけがない。まあ両親は政略結婚だから愛などないのは当たり前だが」
フェールはアンジェリンの素肌の肩を抱き寄せ、少し声を落とした。
「母は当時の法務長官の娘で、父が王として法を支配していく体制を強化するための政治的な結婚だった。母は、この結婚がつらかったに違いない。世継ぎを産むという義務を済ませたら、城の奥に白花館を建ててそこにこもって暮らすようになってしまった」
アンジェリンは、侍女として、王妃の部屋と呼ばれている王の寝室の隣の部屋の清掃作業をすることもあったが、その部屋はいつもまったく使われていない状態だった。思えば、国王夫妻が私室で仲睦まじく話をしている、という光景も見たことがない。
王妃が現在住まっている『白花館』と呼ばれている建物は、城内でも特別な場所で、アンジェリンのような王族専門の侍女でも出入りは許されていない。出入りを認められているのは、王の他には、王妃専属の侍女や兵士のみ。白花隊と呼ばれている彼らの制服の襟には皆、目印として白い花の刺繍が付けられており、一般の使用人とは区別されている。館内に設けられた兵舎や侍女部屋なども一般の使用人の出入りは固く禁じられており、厩に至るまで別に存在している。
白花館は城内にありながら、すべてがそこだけ独立して機能している王妃の聖域だった。
「母は、ザースをザンガクムへやることに賛成したらしい。母親が自分の息子を他国の人質に出すことに賛成するとはあきれるだろう? 母は、生みの親のくせに、息子たちのことなどどうでもよいらしい。私とザースが、愛してもいない父上の子だからだ」
はき捨てるような言い方だった。
アンジェリンは彼を傷つけないようにできるだけやさしい言葉を探した。
フェールをとりまく環境は思った以上に厳しかった。
一方的で話を聞かない父、無関心な母、なんでもよく出来すぎる弟。
フェールがアンジェリンに駄洒落を求めたのは、このおもしろくない現実を忘れるためだったに違いない。
「王妃様が奥にこもっておられるのは、きっと、何か他のお仕事がおありなのでしょうし、ザース殿下の婿入りの件も、いろいろお考えになられて結論を出されたのではないでしょうか」
「考えた結果だとしても、両親は自分たちだって望まぬ結婚を強いられたくせに、自分たちの息子にも同じことを押し付けようとしているのだ。政略結婚で何でも解決しようとするのは間違っている」
フェールは体を横にしてアンジェリンの方へ向きを変えた。
「夫婦とは愛情があってこそ夫婦であるべきだ。今回の計画がうまくいかなければ私はすべてを失う。それでも私は計画を実行しようと思う。必ず、皆に認められる実績を立てて、おまえを私の隣に堂々と立たせてやる」
「ありがとうございます……でも……私は不安です。計画がうまくいかなかった場合のことを考えると……ザンガクムとも戦争になってしまったら」
シャムアとの戦争がうまく回避できたとしても、ザンガクムの王女との結婚を簡単に撤回できるとは思えない。
――それに、私はどろぼうの娘。殿下の計画がすべてうまくいったとしても、私が王太子妃になれるわけもないのに。
アンジェリンを安心させるように、フェールの手が素肌の背中にそっと触れてきた。
「どことも戦争にはならない。そのために私は行動する」
「はい……」
「不安はつきものだが、すべてうまく行くと信じなければ願いなど叶わない。強く望むのだ。そして信じる方向へ突き進む。そうすれば、願いは必ず叶う」
アンジェリンの体に回っているフェールの腕がきつくなった。
アンジェリンは与えられるぬくもりの中で目を閉じた。彼の心はぶれることなく定まっている。
――殿下にとって、お城は居心地のよい場所ではなかった……。
フェールの家族の話を聞けば聞くほど、息苦しくなっていく。
――親に捨てられても、愛されて育てられた私は幸運だった。王家の方々はお心がみんなバラバラ。私、殿下のお心の支えになりたい。
思いついた駄洒落を口にしてみる。
「殿下の【肩】は【固】まって【硬】いですね」
フェールは、アンジェリンの顔を覗き込むとにっこりと笑った。
「いきなり駄洒落が来た。そういう言い【方】をするのだな。このやわらかな【肩】の女は」
フェールが笑いながらアンジェリンの肩を軽く噛むと、アンジェリンも負けず、噛み返してやった。
「こらっ、やったな」
カリリ、カプリ、と互いの素肌の肩を甘噛みする。
ふふふ、ははは、と寝台の中で自然に笑い声が上がる。
どうしても消えない将来の不安。すべてを忘れるように、甘く、熱く触れ合う。
――今は。今だけは殿下と笑顔で。
この部屋の主、シド・ヘロンガルが姿を見せたのは、フェール失踪後四日目の昼のことだった。