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12.恋熱(2)

 フェールは何も言わず、寝台に静かに座っていた。

 アンジェリンは、床の木目をぼんやりと目に映していた。心臓だけがパクパクと無駄に大きな音を出している。フェールがどこを見ているのか確かめることもできない。


 壁が薄い集合住宅は、他人の音が外から入り込んでくる。人が話している声や、扉の開け閉めの音などが聞こえるが、静寂に支配されるこの部屋だけ切り離されたように静かだった。


 無動の沈黙を終わらせたのはフェールの方だった。

「こんなに女性を好きなったのは初めてなのだ。王太子ともあろう者が、おまえのことだけで頭がいっぱいになっている。おかしければ笑うがいい」

「いえ……おかしくない……です」

 ――私もここ数日、ずっとあなたのことばかり考えていました。

 アンジェリンは、言えない言葉を心の中でつぶやいた。今にも勃発しそうな戦争のこと、そのための王子の結婚と結婚回避のための無理な計画、そして、今の自分の気持ち。心の中はぶつかりあう様々な思いでくちゃくちゃになっている。


「おまえはこんな状況になっても媚を売らない。下心を含んだ目つきで私を見ないし、必要以上に自分をよく見せようともしない。そういうところが好ましいと思う。城の中では、私を愛してもいないくせに、身分目当てで私に近づいてくる者が何人もいる」

 アンジェリンは同僚のココルテーゼの愛らしい顔を思い出した。ココルテーゼはとてもかわいいが、フェールはきっと、彼女のような積極的な女性は苦手だったのだろう。


 アンジェリンは勇気を振り絞って顔を上げ、フェールと目を合わせた。見つめ合えば、どこにも捨てられない苦しさがさらに増してくる。

 整った高貴な顔立ち。琥珀の大きな瞳は情熱をたたえ、色のいい唇が、アンジェリンを欲しがってすぐそこまで迫る。彼を見る自分は、きっとおかしな顔をしていることだろう。こんなに近くで見つめられ、気持ちが高ぶり、顔が上気し、情欲と悲しみを抱えたゆがんだ表情になっているに決まっている。

 目を合わすたびに、よくわからない感情の高まりが、徐々にドクン、ドクン、と音をたてて強くなっていく。

 ――いっそ何も考えず、このまま許してもいいのかも……。でも。


「おまえを見ていると抱きしめたくて狂いそうになる。こういう感情を愛していると言うのだろう? 城では、誰もそんなことは教えてくれなかったのだが」

 ――私も狂いそうです。

 彼の気持ちに応えたい。

 それでも、こんなに望まれても、自分には汚い血が流れている。こんな下品な女のために婚約者がいる王太子が城を出て危険な旅に出ようとしていること自体、異常すぎる。


 見つめ合っているうちに、彼の細い指先が再びアンジェリンの頬にそっと触れてきた。それだけで、ひどく頬が敏感になってしまった気がする。頬に触れている指の動きひとつひとつがチリチリと焼くような熱を呼び込む。

 目をそらせない。この湧き上がるようなうずきを突き放して、この部屋から飛び出し、まっしぐらに城を目指せばいい。そうすることで彼を死の危険から遠ざけることができる。わかっているのに、動けない。


「……許してはもらえぬか? 私はおまえが好きだ。誰よりも愛し、大切にしたい。おまえが必要なのだ」

 アンジェリンは、高波のように押し寄せる気持ちを押さえながら唇をかみしめた。

 『必要』とは、なんと幸せで贅沢な言葉だろう。この言葉を欲して涙する人間がこの世界にはあふれている。

 しびれさせられるようなささやき。甘い空気が垂れ込める。息をすることも苦しい。頬に触れてくれる彼の指。そして彼の体。手をのばせばそこに。

 恐る恐る言葉を運んだ。

「あの……どのようにお返事をすべきなのかがわからなくて……このような場所で王太子殿下が平民の女と二人きりでいることは、許されないことで、とてつもなく恐ろしいのでございます」


 フェールはまた沈黙したが、しばらく経ってから大きなため息をついた。

「すまなかった。おまえの気持ちも考えず、事を少々急ぎすぎたようだ。今日は家まで送ってやる」

 フェールは立ち上がると、かつらを置いたテーブルに向かって歩き出した。

「王子に生まれた運命を呪いたい。できることなら、この胸を引き裂いて王族の血など一滴残らず捨ててしまいたい。こんな血が流れているおかげで、私はいつも差別されるのだ」

「えっ……」

 ――差別! それは違う!

 アンジェリンは無意識に立ち上がっていた。

「私、殿下のことを差別するつもりなどありません。私は自分の血が汚いと思いながらずっと生きてきたので、つい……私だって、こんな卑しい血なんか入れ替えたいと何度も思ってきたんです」

 フェールはアンジェリンの方を振り向かず、無言のままかつらを手にとった。その背中に不機嫌さと悲しみがにじみ出ている。

「お待ちくださいませ。差別とかではないんです」

 フェールは返事をしない。黙ってかつらをかぶり、上着に手を通し始めた。

 ――殿下を怒らせてしまった。

 アンジェリンは思わず走り寄り、フェールの背に飛びついていた。

「殿下、私が間違っていました」


 急に背中にしがみつかれたフェールが息をひいたことがわかった。恥ずかしくて顔など見せられない。彼は自分のことを出自に関係なく見てくれたのに、自分は頑なに彼が王子であることを強調してばかりで、突き放しているだけだった。

「アンジェリン?」

「殿下、私は本当に、もう本当に、とんでもなく汚らわしい生まれなのです。それでも殿下は、差別することなく私を好きになってくださいました」


「離せ」

 フェールの声は冷たかった。

「離しません」

「おまえの気持ちはどこにあるのだ。散々拒んでおいて、今更なぜしがみつくのか。そんなに私が嫌いならさっさと離れろ。期待させるようなことをするな」

 フェールのひとことひとことがすべて痛い。それでもアンジェリンは彼の背から離れなかった。

「生まれとか、血がどうとか、関係ないんですよね? 私、殿下と一緒に過ごせてうれしかった気持ちもあったんです。でも出自のことがひっかかって、それに殿下はご結婚が決まっている方ですから、どうしていいかわからない思いもあって……それでも私を望んでくださるならば、私は――」

 ――もう、どうなってもいい。

「何が言いたいのか」

「私、素直になります。ですから……あのっ……私を……」

 今度はフェールの方から手が伸びた。背中に顔をくっつけているアンジェリンを引きはがすと、向き合ってアンジェリンの顎に手をかけた。

「触れてもよい、と解釈しても?」

 アンジェリンは無言で頷き、目を閉じて唇を差し出した。


 ――私を、あなたに。今は何も考えずに。

 唇に期待通りの熱を受けた。


 

 二人では狭い寝台の上、服が一枚ずつほどかれた。

 とてつもなく大それたことをしている自分が信じられない。本当は説得にきたというのに抵抗しがたい流れに巻かれていく。荒い吐息で弛められる身体は熱い。 

 低い声が何度も名を呼んでくれた。

 ――この方にもっとふさわしい女性はいくらでもいるのに。この方は私を必要だと言ってくれる。生みの親にさえ捨てられた私のことを。

 寝台がきしみ、また涙があふれてきた。


 ◇


 アンジェリンが目覚めた時、縦長の細い窓にかかる薄い日よけ布の向こうは、すでに明るくなっていた。外からは昨日と同様に、様々な生活の音が聞こえる。子供が叱られて泣いている声、ドタドタと階段を駆け降りる音など。

 狭い寝台で体に密着している肌のぬくもり。あどけない、子供のようなフェールの無防備な寝顔がすぐ横にあった。少し開いた唇から規則正しく息がもれている。いつもきれいに整えられている黄金の髪は、くしゃくしゃになって枕の上にある。

 城内では常に胸をはって歩き、とてつもなく高貴で偉大に見えるこの男性は、こうして見るとごく普通の若い男と変わらなかった。

 よく考えたら彼はまだ二十歳でアンジェリンと三つしか違わない。

 いつも大人ぶった物言いをするフェール。アンジェリンは彼のことを実年齢よりもずっと上に見ていた。王太子の地位はどれほど重いことだろう。


 ――【裸】で【肌】が丸見え……って、洒落を考えている場合じゃないわ!

 フェールの寝顔を眺めていたアンジェリンは、ひどく幸せな気分になっている自分を叱った。

 このまま流されてはいけない。一夜の愛を受け入れた今、彼を無事に城に帰すことが自分の役目なのだ。彼の無理な計画は絶対にやめさせるべきであり、このままずっと一緒にいたいという自分の気持ちは心の奥にしまっておく。


 アンジェリンはフェールを起こさないよう、できるだけ静かに身を起こした。何も身に着けていない胸を毛布がすべり落ちた。

 昨夜、深く愛された体は重いが、そんなことを気にしてなどいられない。彼が眠っているうちに城へ行く。脱ぎ捨てられた服が寝台の上や横に散らかっている。下に落ちている服を拾おうとして――


「どうした」

 後ろからかけられた声に、心臓が冷えた。

 振り返ると、琥珀色の鋭い目に射すくめられた。

「あ、あの、おはようございます。起こしてしまい、すみませんでした。ちょっと出かけてきます」

「どこへ行く。シドが来るまではここで待つと言ったはずだ。朝食にしよう」

 フェールの言葉にアンジェリンは、あわてて寝台から飛び出していた。

 もしかすると昼近くまで時が進んでしまっているかもしれなかった。侍女の分際で朝寝など、あってはならないこと。暖炉に火も入れておらず、冬が近づくこの季節の室内はすっかり冷え込んでいる。二人で眠り暖かかったからといって、火入れすらしなくていい、ということにはならない。

 やらかしてしまった感に肌から一気に汗が噴き出す。あわててフェールの前に跪いて許しを請うた。

「申し訳ございませんでした。お食事の準備はまだ整っておりません。すぐに準備いたしますのでお待ちくださいませ」

「あわてなくてよい。共に食事を作ろう」

「私がやります。少々お待ちくださいませ」

「いや、私も手伝いたい。城では皆がうるさくて、なかなか手伝わせてもらえないのだ。こんな機会はめったにない。城に戻るまでは何でも自分でやってみることにする」

「ですが」

「これでも二年前まではシドと一緒に士官学校にいたのだから、多少のことはできるよう訓練されている。何もできないと思わないでくれ。まずは暖炉に火を入れればいいのか?」

「はい……では、遠慮なく、火入れをお願いいたします。えっと……それからお召し物は……」

「服はここへ来るとき着てきたゾンデの服を自分で着るから手伝いはいらない。これからの旅立ち用の服ならば、今、シドが準備してくれているところだ。まあそれよりも、まずは自分の服を着てくれないか。そんな恰好でうろうろされても目のやり場に困るではないか」

 アンジェリンはまだ何も身につけていなかった。

「きゃっ! すみません!」

 真っ赤になって胸を隠してしゃがみ込んだアンジェリンを見て、フェールは声を出して笑った。

「すばらしいものを見せてもらえて大満足だ。城を出て本当によかった」

「こ、こ、こんな見苦しい姿を見ないでくださいませ」

「とてもきれいだ。昨夜にも同じことを言ったが、そなたは自分の美しさをもっと誇るべきだ」

「おほめいただくのはうれしいのですが……」

 アンジェリンは上目使いにフェールを見上げた。彼の鍛えぬいた身体には無駄がない。服を着ているときには目立たない肩や腕は、生身で見ると筋肉がしっかりついている。腹もよけいな贅肉はなく、腹筋はしっかり割れていた。王族は暗殺者から身を守るため、予定が空く限り、毎日、剣や格闘のけいこをすることが義務付けられているが、フェールの見事な体は、その義務をきちんとこなしていることを証明していた。

 ついさきほどまで、この体に抱きしめられていた、と思うとアンジェリンは恥ずかしさで血が逆流しそうだった。


 結局、服を着た後、二人での食事作りが始まってしまい、アンジェリンはすぐに城へ通報に向かうことはできず、食後ようやく切り出した。

「殿下、今からお城へ戻りましょう」

 上機嫌だったフェールは、とたんに笑顔を消した。

「家に戻りたくなったのか?」

「いいえ、私のことはどうでもいいのです。王太子殿下が行方不明になっていることがわかったら、ザンガクムが怒って大変なことになる気がします。シャムア軍への潜入作戦がどうしても必要なことならば、誰か他の方を派遣してください。大切な御身です。今後のことをお考えになって、どうか、安全なお城へお戻りになってください」

「大切な御身だと? ふっ」

 フェールは唇をゆがめた自虐的な笑いをこぼした。「私はたしかに国王の息子ではあるが、この身の価値はおまえが思っているほどではない。私は今回のことが成就したら王太子をやめるつもりだ。弟ザースに王太子の座を譲る」

「そんな……」

 フェールはきっぱりと言い切った。

「ザースこそ次の王にふさわしい器。二つ下のザースの方がすべての分野に造詣があり、人を束ねる才能もある。私がザースに勝てるのは身長ぐらいだ。ザースは母に似て小柄だからな」

 アンジェリンは首を大きく横に振った。

「王太子殿下が卑下なさって譲位するなんておかしいです。殿下がお仕事をきちんとやっておられることは皆が知っております」

「与えられた仕事を普通にこなすだけなら誰でもできる。私は凡人だ。だが、王になるには特別な才能が求められる。私は王に向いていない。ザースが王太子になり、次期国王となる方がよい」

「おそれながら、それは今決めなくてもいいと存じます。陛下は御健在で、殿下が王位を継ぐのはまだまだ先のことですし、何よりも、警護兵も連れずに外国へ行くなんて無茶です」

「確かに、手紙に書いた私の計画には、安全面で大きな問題があることは認めよう。警護兵の一人でもつけたかったが、計画を密かに進めるにはそれは無理だと考えた。情報がどこからかもれて父上に邪魔されては終わりだ」

「国王陛下だって心配なさっているのではないでしょうか」

「心配などするわけがない。父上は私のことがお嫌いで、私がやることなすことに必ず文句をつけて反対する。父上が勝手に決めてしまった政略結婚を避けるためには、私はすぐにでも城を離れる必要があった。だからこうしてここにいるのだ。困ったことに、父の勝手な取り決めは、私の政略結婚だけではないのだ。なんと、ザースが婿に出される話まで決めてしまったらしい」

「ザース様がザンガクムに行かれるのですか」

「そうだ。あと数日でもグズグズしていたら、私は本当に王女と結婚させられて、ザースまで失ってしまうところだった。私がいなくなれば、父上もザースを出すことはできなくなると思うのだ。世継ぎが他にいないのだからな」

「そうですか……」

 アンジェリンは頷いたものの、どう説得すればいいのかわからなくなった。フェールはどうあってもシャムアへ行くつもりらしい。


「まったく……ザースを婿に出す話を決めてしまうとは、父上はどうかしておられる。それは絶対にやめたほうがよいと、私が言っても聞く気すらなかった」

「ですが、王太子殿下はすでにご婚約なさったということになっていて――」

 フェールはアンジェリンが言い終わらないうちに立ち上がると、強引にアンジェリンの手をひっぱり立ちあがらせた。

「誰が何と言おうとも、現時点では、私は正式な婚約などしていない! ザンガクムのことなら手は打ってある。あとで説明しよう。おまえが私の横に堂々と立つためには、私自身で誰もに認められる実績を作り、私の意見を通りやすくする必要がある。シャムアへ遊びに行くだけならば別の者でも可能だが、これは私が自分でやらないといけないことだ」

 フェールは言い放つと、アンジェリンを息が止まるほど強く抱きしめた。

「妻にするのはおまえだけだ。たとえ、今回、作戦は失敗し、シャムアで実績を上げることができなくても、おまえのことはあきらめない。この夢は必ず叶えてみせる。私は、王族としての身分をはく奪され、国外永久追放されてもよい。この国にはザースさえいれば問題ない。危険は承知の上」

 熱い腕に抱きとられたアンジェリンは、もう何も言えなかった。



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