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11.恋熱(1)

「シド様の従者様……」

 アンジェリンを呼び止めたのは、ゾンデという名の背が低い男だった。

 この男はシドの従者としてフェールの部屋にもよく来ているため、アンジェリンは相手が名乗らなくてもすぐに分かった。フェールからの手紙をシドが持ってきたときも、一緒に来ていた。

 ゾンデはいつも姿勢が悪く、首を前に突き出すように背を曲げて歩いている。頭は白黒入り混じった斬髪。ふぞろいの前髪が顔の半分ほどを覆い、目の色はわからない。王妹を母に持つシドに付く者でありながら、いつも、何の飾りもない灰色や茶色の単純服ばかりで、どことなく薄汚く見える恰好をしている。歳はおそらくシドよりもずっと上の三十代後半ぐらいに見えるが、『この男は見た目よりはるかに若い』とシドが言っているのを聞いたことはあった。


 軽く身をかがめて挨拶したアンジェリンは、フェールのことで何か連絡があるのかと思ったが、相手は、ふっ、と笑った。

「私だ」

 聞き覚えのある声に息を飲む。

 汚い前髪で隠された下から覗いた眼が、街灯りに照らされてきらりと光った。

「王太子殿下!」

 唇に指を押し当てられた。

「大きな声で呼ぶな。待たせて悪かった。城を出るのに手間取ってしまったのだ。さあ、行くぞ」

「あ、あの」

「私はうれしい。そなたが私のことをどう思っているかいまひとつわからず不安であったが、そなたはこんな時間まで待っていてくれた。身一つで来てくれたのだな。それが求婚の返事だと思ってよいのだな?」

 うれしそうな顔をしているフェールに、アンジェリンはつい下を向いてしまった。

「返事とかではなくて……あの、本当にあの計画を実行なさるおつもりですか」

「それは後ほど詳しく話す。そなたとはいろいろ打ち合わせする必要がある」


 フェールは従者ゾンデをまねて、猫背のままスタスタ歩き出した。アンジェリンも遅れまいと付いて行く。向かう方向は城方面だった。

 アンジェリンは首をかしげたくなった。祝福式を目指す男女として出国する設定にしては、そういうふうには全く見えず、彼は腰にゾンデの物と思われる地味な長剣をぶら下げているものの、手荷物ひとつ持っていない。


 日は沈み、町中の石畳の道にはまだ人通りはあるが、さほど明るくもない街灯がところどころあるだけで、町は夜色に包まれている。暗い方が目立ちにくいが、この時間から城方面を目指す意味がわからない。それとも、城には戻らず、城付近のどこかに出立用の馬車と荷物が用意してあるのだろうか。


 ――お城へお戻りになるのですか?

 アンジェリンは、質問したい気持ちを押さえながら付いて行った。

 フェールは、遠目に城の正門が見える位置まで来た場所で、狭い路地へと進路を変えた。そこも石畳の通りが続いているが、道幅は馬車一台がぎりぎり通れるぐらいしかなく、道の両側はと二階建てや三階建ての入り口が細い集合住宅がびっしりと並んでいる。こんな狭い通りでは、馬車を置いておく場所すらなさそうだった。

 フェールは背後を振り返って尾行がついていないことを確かめると、アンジェリンの手を握り、再び歩き出した。

「ここからは暗く狭い。危険だから私の手を離すな」

「はい……」

 暗い路地はどこにでも隠れる場所があり、いきなり襲われたらどうしようもなくなる。

「手がこんなに冷えているではないか。だいぶ待たせてしまったな」

「私は大丈夫です」

 ――もう寒くないですから。

 アンジェリンは自然に微笑んだ。

 強く繋がれた手は湯たんぽのように温かい。


 フェールは、入り組んだ薄暗い路地にも慣れた様子で、迷うことなく古いレンガ造りの建物に入った。扉がいくつも並ぶ集合住宅の三階まで階段を上り、角部屋の扉の前で立ち止まると、持っていた鍵で扉を開けた。


 扉を開けるなり、油臭い絵の具の臭いが鼻をついた。フェールが手慣れた様子で、室内の壁に取り付けられたランプを灯すと、闇は部屋の隅に引き下がり、内部がはっきりした。

「ここはシドの部屋。家族に内緒で借りている秘密のアトリエなのだ」

「シド様が絵を?」

 アンジェリンは部屋を見渡した。集合住宅の一室。王族の血を持つ大貴族の子息が住むとは思えないほど質素で、建物は古く汚い。しかも部屋の作りのすべてが狭い。

 入り口すぐの部屋が創作室のようで、腰の高さの細いテーブルが壁際に置かれており、その上には、さまざまな材料の絵の具や筆が雑然と並べられ、テーブルの下には、使っていない額縁がいくつも重ね置きされている。

 立てかけられている田舎の風景画は、まだ描きかけ途中のようで半分白いが、樹木の葉や背景に溶け込む農作業をする人の様子などが、生きているように細かく正確に描きこまれている。筋骨たくましい軍人のシドからは想像もできない繊細な絵だった。


 この創作室の奥には開かれたままの扉があり、奥の部屋に一人用の寝台が置かれているのが見えた。

「シドは、本当は画家志望で、軍人になどなりたくなかったのだ。彼は家族に猛反対されて画家への道はあきらめたふりをしているが、時々ここへ来て絵を描いている。ここは彼の息抜きの場所。ここを知っているのは私とゾンデだけだ」


 フェールは、かぶっていたかつらを外し、アトリエのテーブルの隅に置いた。黄金の髪が現れ、いつものフェールに戻った。

「どうだ、このかつら、よくできていると思わないか? そなたも警備兵も騙されたほどだから。ゾンデの不潔そうな髪にそっくりだろう」

 楽しそうなフェールに、アンジェリンもつい笑ってしまった。

「歩き方までよく似ておられました。ゾンデ様ご本人は……」

「シドと共に、私の部屋で眠ってもらっている。私が、シドとゾンデの飲み物に眠り薬を入れ、二人を眠らせてゾンデになりすまし、勝手に城を抜け出した、ということにしてある。もちろん、薬は少量で、飲ませたのは本人たちの同意の上だ」


 フェールは、寝室のさらに奥にある細く狭い台所へ入った。

 アンジェリンも付いて行く。小さな調理台の上に、たくさんのパンや野菜などがかごに入った状態で置いてあるのを確認した。

「よし、頼んだ通りにきちんと用意してくれたようだ。これだけあれば充分だな」

「こんなにたくさん」

「シドが戻るまでの数日分だ」

「では、殿下は数日ここにいらっしゃるおつもりなのですね?」

 フェールは頷いた。

「私たちは、ここで数日間シドを待ち、彼が戻ってきたらただちに出国する。シャムアまでの旅の用意も彼が準備してくれる。彼は軍人でも比較的自由がきく任務だからそれができるのだ。そなたもそれまではここでゆっくりすればよい」


 アンジェリンは、どうしたら旅をやめるよう説得できるかを考えながら狭い台所から出た。

 どうやら、フェールはここで数日間アンジェリンと二人で過ごすつもりらしい。

 ――こんな状況の時にそんな浮かれたことなんて。 

 再会できた喜びがあっても弾んだ気持ちにはなれない。

 そのうちに、城で爆睡しているシドとゾンデが発見されて、フェールが逃げ出したことが判明すると大騒ぎになってしまうに決まっている。


 アンジェリンは物思いにふけっていると、いきなり背後から手が伸びて抱きすくめられた。

「で、殿下!」

「やっと捕まえた」

 強引に首だけを振り向かされ、唇を占領された。

「んっ……いけませんっ」

 アンジェリンは力が抜けそうになる足で必死になって立ち、フェールの手を振りほどこうとしたが、フェールの唇は容赦なくアンジェリンの唇を覆い、これまでにないほど長く深く重ねた。


 長い口づけのあと、ようやく解放されたアンジェリンは、よろめき呼吸を乱しながらも、どうにか声を出した。

「ど、どうか、お城へお戻りください。皆様が心配なさっていると思います」

「城へはいつかは戻るが、それは今ではない。このまま戻れば私は結婚させられてしまう。しかし、まだ今すぐは準備不足で発てないのだ。だから、シドが戻るまでは、そなたと」

「きゃっ」

 見えている室内が傾いた。アンジェリンは軽々と抱き上げられていた。

「お城へお戻りください。私はそのために――っ」

「そんな顔をしても今宵は離さぬぞ。そなたは私のものだ」

 アンジェリンが、そんな、と言う間もなかった。

 横抱きにされたまま寝台へ運ばれた。


 アンジェリンを寝台に下ろしたフェールは、ゾンデの上着を手早く脱ぎ捨てると、アンジェリンが何も言わないうちにさっさと隣に横になり、体を密着させた。

「殿下、あのっ」

 狭い一人用の寝台の上で体がくっつき、互いの顔がすぐそこにある。

 ――殿下、近すぎます!

 フェールは、アンジェリンの心の悲鳴など気にもしていない様子で、ひじをついて顔を上げると、片手でアンジェリンの重い前髪をかき分けた。

「そなたは目がきれいだから、私にはきちんと見せてほしい。生みの親に似ていてもかまわないではないか。前髪を上げたほうがよいと思う」

「……母に似ていると言われるといやなんです。額を出すと父も嫌がりますし」

 ――前髪のことなんてどうでもいいんです! 殿下、近すぎですって!

「私も父に似ているとよく言われるのだが、確かにあまりうれしくはないものだな。だが、そなたの目は文句なしに美しい。そなたが生みの母のことを嫌っていても、この美しさは誇りに思うべきだ」

 フェールはアンジェリンの前髪を持ち上げ、額に唇を押し当てた。

「殿下……」

「そんなかわいい顔をするともっといじめたくなる。今日は駄洒落はなしでよい。駄洒落を考えるよりも、何も考えずにそなたと……」


 アンジェリンは、上気した顔を隠したかった。このまま流されてしまいたい。しかし、ここで自分がしっかりしないと、さらにとんでもないことになってしまう。

『あってはならないことですよ!』といつも言う侍女長のマリラの声がまた浮かんできた。

 ――侍女長様のおっしゃる通り。

 勇気をふりしぼり、フェールの胸板を押しのけようとした。

「殿下、いけません。殿下には婚約者の王女様がいらっしゃるじゃないですか」

「クレイア王女とは結婚しない。シャムアと戦争にならなければ政略結婚する必要などない。手紙にもそう書いたつもりだったが?」

「ですが、ご計画がうまくいかなかった場合だって――ひゃっ!」

 フェールの唇がアンジェリンの耳たぶをパクリととらえた。

「そなたがどんな生まれであろうとも、私はそなたを妃にすると決めたのだ。私のことを嫌いでないならば、今は私を受け止めてくれ。今宵は私が王太子であることを忘れさせてほしい」


 アンジェリンは、陽射しの中に急に暗黒の雲が出てきたような気持ちになった。

 『どんな生まれであろうとも』。

 ――殿下は身分のことだけが頭にあるみたい。私が子捨てのどろぼうの子だなんて、きっと想像すらしておられないわ。


 フェールはアンジェリンの頬を撫でるように触れながら、尋問のような口調で言った。

「王太子妃になるのは無理だと言ったな」

「確かに、そう申し上げました」

「ならば、どこにでもいる普通の男、フェールの妻にならばなってもらえるのか? そなたがいやがるなら、フェールという名など捨ててもよい。身分に関係なく私を見てほしいのだ。そなた、という言い方が不快ならば、おまえ、という言い方に変えよう」


 フェールは首を起こすと、返事ができないアンジェリンの顔を覗き込んだ。琥珀色の目がアンジェリンを射ぬいてくる。

「なぜ目を反らす。おまえの目から見て、私はそれほど見るに堪えない男か」

 沈んだフェールの声に、アンジェリンは首を横に振った。

「殿下にこんなに近くで見つめられたら、どんな女性だって心ときめかないはずはありません。ですが、私なんかがお相手ではいけないのです。前にも申し上げましたが、私は平民で、貴族の血は一滴も流れておりません」

「結局は私の身分が問題ありということで、おまえの相手として論外だと思っているのか」

「そのようなことではございません。その……私の……」

 フェールの琥珀色の目は、寝台の中で潤んでいるように見えた。苦しそうな彼の顔に申し訳なさが胸を突く。

 ここで拒めば、彼はすべてをあきらめて城に帰ってくれるだろうか。

 ――いいえ、この方は私が何を言っても、絶対にお城へは帰らない。

 なぜかそう確信した。

 ――おひとりでも危険な旅に出てしまう。私がここでお相手を拒んでも。


 黙っているアンジェリンに、フェールが待ちきれず名を呼んだ。

「アンジェリン、これは命令ではない。おまえが私の身分を気にせずに普通の男として見てくれる日を待ってもいい。私はシャムアへ行って自分に試練を課す。城に守られた王子としてではなく、一人前の男になるためだ。皆に認められるだけでなく、おまえに望まれる男になれるよう努力をする」


 望まれる男に……彼が放つ言葉一つ一つが重い。彼が近すぎて、いよいよ体温が上がっていく気がする。

「殿下は今のままでも充分素敵です。ご自分を変えてまで、いやしい私に合わせてはいけないです」

「いや、私には必要なことなのだ。おまえに望まれなければ、男としての価値などない」

「そんな……ことはないと思います……」

 わけのわからない気持ちの高まりに、アンジェリンは息を大きく飲み込んだ。なぜこれほど思ってくれるのだろう。どうあっても生まれ持った運命は変わらないというのに。

「アンジェリン、今は私のことが無理でも、いつか帰国した時、私を笑顔で迎えて、すべてを私にゆだねてほしい。この焼け付く思い、どのような言葉を出せば伝わるのか」


 フェールは寝台の上で身を起こした。

 アンジェリンも起き上がった。自分だけ横になっているのもおかしい。泣きたくても泣けない気分で寝台に腰掛けると、フェールも隣に、しかも肩が触れているほど近い隣に腰掛けた。


 並んで寝台に腰掛け、のしかかる重く熱い雰囲気に耐えながら共に口を閉ざした。


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