1.侍女たちのうわさ話
横並びに存在する三つの王国。
その真ん中に位置するセヴォローン国は、西隣の国との関係が急速に悪化し、戦争勃発の危機にさらされていた。
王城内では、王を交えた軍事会議が連日夜遅くまで開かれていたが、王城で働く侍女たちの日常は何も変わらず、彼女たちは与えられた仕事を普通にこなしていた。
「ねえ、アンジェリン、王太子殿下用に昨日届いた衣装、見た?」
「ごめんね、ココちゃん。昨日は非番だったから」
アンジェリンが「見ていない」と答えると、ココルテーゼは茶色の目を輝かせて説明を始めた。
王城の廊下を歩きながら話しているこの二人は、共に王族専属の侍女で十七歳。紺色の侍女服に身を包み、髪を後ろで束ねている。
「とにかくもう、すっごく豪華な衣装だったのよ。王太子殿下には珍しい真っ赤で、金糸が贅沢に使われた大きな刺繍が背中にあって」
アンジェリンは、うん、うん、と頷きながらココルテーゼの話を聞く。
「あの衣裳は絶対にご本人の婚約式用ね。そうでなければ、濃紺色の衣裳が多い王太子殿下があんな派手な赤い服を仕立てるわけがないわ。お相手はたぶんザンガクム国の王女様よ」
「やっぱりそうなの? 警備の方もそんなことを言っておられたわ。王太子殿下が隣の国の王女様と政略結婚なさるって」
「正式な発表はまだでも、この状況なら普通はそうなるって思うわよ」
「そうね……こんな情勢だから」
西隣のシャムア国と戦争になりかけており、東隣のザンガクム国から王太子妃を迎えて東と二国同盟を結ぶ、といううわさ話は、このところあちこちで頻繁に飛び交っている。
「近いうちに婚約発表がありそう。だってこの前花屋さんも来ていたし」
ココルテーゼは、アンジェリンを相手に『自説』を熱く語り続ける。
アンジェリンの方はココルテーゼの早口に全く付いて行けず、いつも相槌を打つ側だった。
「ねえ、ねえ、アンジェリン、どう思う? やっぱり無理よねえ? 隣国の王女様が王太子殿下のお相手なんて、私なんかが勝てるわけがない」
アンジェリンはくすくす笑った。
「ココちゃんったら、想像がすぎるわよ。王太子殿下がご結婚、なんて発表はまだないし、赤い衣装が婚約式用とは決まっていないのに」
「そう? まだ希望を持ってもいい? じゃあ、私でも王太子妃になれる可能性は残っているかしら。王太子殿下って本当にすてきよねえ。大人っぽくて二十歳には見えないし、あの低めの声もゾクゾクするわ。ああ、殿下ぁぁ」
「う、うん」
「私、まだあきらめない。王族に嫁いでお父様とお母様を喜ばせたいの。王太子殿下のご結婚がまだ本決まりでないなら、私に目を向けてもらえるよう努力するから、応援してね」
「がんばって、ココちゃん」
わざとらしい咳払いが背後から聞こえ、二人はそこで話を止めた。
いつの間にか、侍女長のマリラがそこに来ていて、怖い顔で二人を睨んでいた。
マリラは、ふっくらした顔立ちの四十歳前の女性で、怒ると丸い顔がさらに膨らんで大きくなる。
「あなた方、失礼なうわさ話はしてはいけないと前にも言ったはずですよ。よいですか、あなた方は王族の方々の世話を許された特別な侍女。大きな声で下品にうわさをするようなことがあってはなりません」
「すみませんでした」「気をつけます」
アンジェリンたちが同時に謝罪すると、マリラはさらに険しい顔になった。
「なんですか、その謝り方は。気持ちが入っていません。きちんと反省しなさい。だいたいあなた方は、いつもいつも事の重大さをわかっていないのです。気をつけるつもりならもっと自身の言動に責任を持って――」
ブツブツブツブツと長い説教はしばらく続いた。
説教が終了し、マリラの姿が見えなくなると、ココルテーゼは大げさに顔をしかめ、ベーと舌を大きく出した。
「はー、侍女長さんってほんとにうるさいおばさん。大嫌い。あの人だって若いころは絶対に国王陛下のお妃様の座を狙っていたに決まっている」
「しっ、聞こえたらまた叱られるわよ」
「王太子殿下にあこがれてどこが悪いのよねえ? 廃貴族の娘なら、できるだけ身分の高い男性に嫁ぎたいって思うのは普通じゃない。あっ、しまった!」
「どうしたの?」
「殿下の部屋の前にそうじ道具を置いてきちゃった。ごめん、取りに行ってくる」
ココルテーゼは一方的に話を切ると、アンジェリンを置いて駆け出して行った。
このセヴォローン国には、貴族の分家など、貴族の血が比較的薄いため平民扱いされている『廃貴族』という中途半端な身分があった。廃貴族と呼ばれる人々の多くは、王族の近くにいることを許された特別の兵や侍女など、もしくは地方役人の高官として仕事を用意され、不満をおさえられながら都合よく使われていた。
ココルテーゼも、アンジェリンも共に廃貴族の娘として城で働いていた。廃貴族の娘たちは、できるだけ高貴な人に嫁いで貴族扱いしてもらうことが幸せなことだと刷り込まれて育つ。王太子妃の座を狙う侍女がいてもおかしなことではない。
ひとりになったアンジェリンは、下を向きながら侍女部屋へ向かった。いつものように、多くて重い前髪を手でひっぱり、顔を隠すようにして歩く。
王族の妻になる夢を語る同僚の話は、養女の自分にとっては、おとぎ話のように感じてしまう。アンジェリンは廃貴族の娘とはいえ養女で、実の両親は平民。本来ならば王族の世話をさせてもらえるような出自ではない。
ココルテーゼの家は父親が庶子のため廃貴族の扱いだが、名門貴族の血は濃い。
しかも、アンジェリンから見ると、ココルテーゼは小柄できゃしゃだが、体つきの割には男性が好みそうな大きな胸も魅力的だった。
――ココちゃんなら願いが叶うかも。彼女、かわいいし。王太子殿下はすてきな方だと私も思うけれど、私がお妃さまの座を狙うなんて考えられないわ。私は平民、しかも最悪の親から生まれた娘だから。
アンジェリンは歩いている最中にふと浮かんできた言葉をつぶやいてみた。
「現実はどうしようもないんだから、悩むだけ無駄ね。いつも明るく、歯【は】を見せてあは【は】はと笑って楽しく……ね。私は私らしく」
◇
侍女たちのうわさの主、王太子フェールは、その日も、王の代行業務で忙しかった。
仕事はいっこうに減らない。仕事を終えて部屋に戻ると、いつも夜。
父王は連日の軍事会議で忙しく、フェールがやる王の代理の事務的な仕事はどんどん増えている。多忙な王と話す暇もなく、王太子でありながら、軍事会議でどのようなことが決められているのかすら知らない。
その日の仕事が終わり、自室の大きな椅子に腰かけていたフェールは、侍女の手によって温かなお茶が用意される様をぼんやりと眺めていた。年若い侍女が茶を淹れ終わると頭を下げて部屋から退室していく。
フェールは、その姿を目で追い、こみあげる不快感を飲み込んだ。
――今日のこの時間はあの侍女ひとりだ。ということは今日も。
今退室した暑苦しそうな前髪の侍女は、まだ若いようで、やわらかそうな頬には幼さが残る。癖が全くない茶金色の髪は、前髪を残して後ろで一つに束ねられ、背中の真ん中あたりまであった。侍女の制服である白い襟が付いた濃紺のブラウスに、同色の胸当て付きの長いスカート姿。どこにでもいる普通の侍女に見える。
扉が閉まり、侍女の姿は消えた。
フェールが想像した通りの喧騒が耳に入って来た。
――予想通りか。
あの侍女がひとりの時に仕事を終えてこの部屋を出て行くと、必ずと言っていいほど、閉まった扉の向こうで、クスクス、と笑い声が起こる。笑い声の主は、扉の向こうに立つ警備兵たちや、控えている侍従だと思われる。もちろん、王子の部屋の前でのことで、皆、それなりに大声にならないように気をつけている様子ではあるが、それがよけいに不快だった。
扉の外はすぐに静かになったが、フェールは無意識に眉を寄せていた。この部屋から退室するだけというのに、何をそう笑うことがあるのか。毎日ではなく、彼女がひとりで当番をこなしている時だけとはいえ、押さえた笑い声を聞くと、いらだちの塊が胸の底から泥の泡のように膨れ上がってくる。見逃すのもそろそろ限界だ。
昨日は別の侍女が来ていたが、笑い声は聞こえなかった。
やはり、人々が笑うのはあの妙に暑苦しい前髪の侍女がひとりの時だけらしい。どう見ても自分より年下に見える若い女性に毎回笑われていてはこちらもたまらないではないか。
フェールは、重い前髪の侍女が次に当番になった日に、厳しく問い詰めてやることに決めた。
──これ以上、無礼なふるまいを続けるならば、あの女の前髪を切り落としてやる。