6.方向性
「今更打ち合わせをする必要はあるんですか? どうせ自分の意見なんかないくせに」
新井は水槽で優雅に泳ぐ熱帯魚を見つめて毒づいた。
この薄暗い喫茶店内にはジャズが流れており、ナポリタンの香りがカウンター越しに漂ってきた。
僕は結露したアイスコーヒーのグラスをコースターに置く。
反論はしなかった。改心したことはまだ伝えていない。
はあ。彼はそう溜め息をつく。
「山田さんの将来の夢って何だったんですか?」
会話を楽しもうという感じではない。
ネームに行き詰った気晴らしなのだろう。
「マンガの編集者になってヒット作を手掛けることだ。それは今も変わらない」
「いつまで経っても右顧左眄しているようにしか見えませんが?」
言い返すことが出来ない。
僕はストローで苦い汁をすすった。
「この打ち合わせだってそうでしょう。形式的なだけで建設的な意見がまるで出ない」
ナポリタンの皿が運ばれてきた。
ケチャップの香りが食欲をそそる。
「いつも通り原稿は郵送しますから、打ち合わせはこれで終了にしましょう」
「新井くんはどんな方向性で描きたいんだ?」
僕は彼の提案を無視する形で、銀の食器を手に取った。
パスタをくるくると絡め取っていく。
「上の意見を反映してばかりいたら新井くんの持ち味が相殺されてしまうだろ」
「何を今更……」
そう吐き捨てる彼から視線を外すことなく、僕はナポリタンを頬張る。
新井は気勢を削がれたらしく、サンドイッチの入ったバスケットに手を伸ばした。
「僕は今まで、自分の方向性を見失っていたよ」
そうアイスコーヒーのグラスを握る。
「新井くんの言う通り、流されてばかりの人生だった」
サンドイッチを咀嚼しながら新井は耳を傾けている。
「だけど、新井くんを見てわかったんだ。自分の人生に責任を持たないといけないって」
大人になってもブラックコーヒーは苦い。
僕はミルクとシロップを入れてから飲んだ。
新井は照れたように後頭部を掻いている。
「僕には夢を叶えた責任がある。果たさなければならない義務がある」
そう熱弁する。
「だから聞かせてくれ。新井くんはどうしたいんだ?」
「答えたくありません」
しかし、届かなかった。
「山田さんに言っても上層部には響かない。それなら言わない方がマシです」
どうやらここからが正念場のようだ。
そうだ。僕は生まれ変わるんだ。
「そんなことはない」
そう立ち上がって、叫ぶ。
「今までの愚行を水に流せとは言わない。だけど信じてくれ。僕は自立しなければならないんだ」
理由は大原班長の部内移動だけじゃないはずだ。
「物理的に立たないでくださいよ」
そういさめられて、僕は赤くなりながら着席する。
「わかりました。お話ししましょう」
決して全面的な信頼を得たわけではないだろうが、新井は胸襟を開いてくれた。
「テコ入れをして話を引き延ばしたいのはわかりますが」
彼は腕を組んで人気作家らしい苦悩の表情を浮かべた。
テコ入れをした理由は人気が低迷しているからだが、そこは口をつぐもう。
「俺は早めにこの話を畳んでしまいたいんです」
「どうしてだ?」
「このままじゃきっと飽きられる。だから新作で勝負したいんです」
聡明な判断じゃないか。僕は机の下でガッツポーズを作った。
「あれ、驚かないんですか?」
キョトンとした様子で新井はサンドイッチをつまんだ。
「僕も同じ意見だ。それでいこう」
「反対しないんですか?」
「責任は僕が取る」
新井はそれこそ夢でも見ているような面持ちである。
「さっきも言ったけど、長期連載をするのが目標じゃないんだ。最高潮のところで打ち切りにしよう」
コーヒーグラスから水滴は消えていた。
いつの間にか氷も解けている。
「そして読者にもっと読みたかったと言わせるんだ。コミックスの最終巻は番外編を増やして、内容の充実に努めよう」
僕はてきぱきと指揮を執る。
もう後悔なんてしないためにも。
「ネームが出来たらすぐ僕に見せてくれ。新作の方も随時受付中だ」