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偏執病  作者: オリンポス
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5.転換期

「大原班長。折り入ってお話したいことがあります。よろしいでしょうか?」

 僕はそうデジタル補聴器をつけた初老の男性と向かい合う。

 憮然としたあの表情がこちらを見据えてきた。


「よろしい、話してみろ」

「田中さんの新連載についてですが……」

 言い終わらないうちに苦い顔をされた。さすがに察しが早い。

「次回の連載会議も、野球マンガでいかせてください」

 編集部内の印刷機がやかましく音を立てている。

 見ると同期の斎藤が手掛けている野球マンガが、コピーされるところだった。

 あのマンガは連載会議や班長など、そう言ったトップの枠組みを超えて評価される異例の作品となっていた。

「君も読んでみるか。これは傑作だぞ」

 そうネームのコピーを手渡される。受け取る手がわずかに震えた。

 読了しているにもかかわらず、その絵の迫力はすさまじかった。

 効果線をほとんど使わずに、マウンドの臨場感を伝える表現力は、とても新人とは思えない。


「これを見た後でも同じことが言えるのか?」

 大原は来週発売される見本誌を、トントンと指で叩いた。

「君が担当している作家はまたひとつ順位を落としたようだ」

 新井のマンガの掲載スペースが巻末に近づいている。

 やはりあれ以上のテコ入れはするべきではなかったのだ。


 憂慮すべき事態はそれだけに留まらない。


 来月からは編集部に激震を走らせた"野球賭博~甲子園を目指す者たち~"が掲載されるのだ。これではますます安泰からは遠ざかってしまう。最悪の場合、打ち切りも考えられる。


「どちらのリスクも承知の上です」

 だが、引くわけにはいかない。

 僕にだって編集者としての矜持きょうじがある。

 忘れてはいけない目標もある。

 田中さんにだって言っただろ。僕の目標は、ヒット作を出すことだと。


「確かに商業誌である以上、内容が被ってしまうことは避けたいです」

 そう僕はコピー用紙を握りしめる。

「ですが僕の目標は長期連載ではなく、ヒット作を世に送り出すことなんです」

 むむぅ。大原班長はそう眉間にしわを寄せて威嚇する。

 ここで逃げたらダメだ。マンガからも目を背けることになってしまう。

 僕が担当するんだ。僕たちのマンガを作り上げるんだ。

「マンガ家はいつだって打ち切りの恐怖を味わいながら、それでも絶対に曲げられない信念をもって描いています」

 脳裏に田中さんと新井の姿を思い浮かべる。

「それなら僕だって自分の信念を貫いてみたい。例え失敗したとしても、後悔はしないと思うんです」

 後悔するとしたら今までの人生だ。

 自分の意見は言わずに流されてきたこと。今ではそれがすごく悔しい。

 斎藤はいつだって私見を曲げなかった。そしてここまで来たのだ。

 こんな僕とは大違いだ。

 それなら僕だって変わりたい。今がその転換期なんだ。

「責任は僕が取ります。田中さんの新連載を、いいえ、新井くんの連載マンガも、僕に一任していただけないでしょうか」

 いつも多忙な編集部に静寂が訪れた。

 みんなが聞き耳を立てていたのだろう。


「ダメだ」

「左遷も覚悟の上です」

「ダメだと言っている」

「そんな……」

 目の前が、暗転した気がする。

 やっぱり僕は変われないのか。斎藤みたいにはなれないのか。

「責任は私がとる。好きにやれ」

 ……え?


「私も高齢だ。少年誌を担当するには荷が重いと感じていた」

 そう大原は柔和な笑みをこぼす。

 仕事中では決して見せることのない顔だった。

「しかし君がずいぶんと頼りないものだったのでな。つい出過ぎた真似をしてしまった」

 すまなかったな。壮年男性はそう白髪頭を前に倒す。

「いえいえ。こちらこそご教授いただけて幸せです」

 僕も頭を下げる。


「ずいぶんと良い目をするようになったが、彼女の影響か?」

 彼女とは田中さんのことを言っているのだろう。

 そう豊満なおっぱいを想起する僕。

「ええ」

 今度は凛とした田中さんを思い浮かべて、僕は続けた。

「夢を追うものはいつだって覚悟と責任が問われます。夢を叶える覚悟と叶えた後の責任です」

 田中さんはマンガ家になる覚悟を決めて持ち込みをしてきた。

 アルバイトもこなしながらマンガを描くというのは一筋縄ではいかないだろう。

 それに新井だって、貧しい両親に仕送りをしながら描いている。

 自分自身は質素倹約を強いられているというのに見上げた根性だ。


「そのプレッシャーに打ち克った人こそが夢を叶えられると思うんです」

 僕は言った。自分の意見を力強く主張した。

「だからこそ、その思いを無下にはしたくないんです。責任を果たそうとしている人を、僕は間近で支えてあげたい。それが担当編集のあるべき姿だと気付かされました」


「一丁前な口を利くようになったな、若造が。これなら安心して部内移動が出来そうだ」

「移動、ですか?」

 上司から発せられた突然の言葉に、僕は動揺を隠せなかった。

「そうだ。青年マンガの編集部から誘いが来ているんだよ」

 すぐには二の句が継げなかった。

 ただ、どうしても伝えたい言葉だけがこぼれ出た。

「大原班長。今までありがとうございました」

 僕はまた頭を下げる。最大限の敬意を込めて。

「よしてくれ、まだ移動するわけじゃない」

 騒然とする編集部内を一瞥して、照れたように笑う大原班長。

 こんなに笑う人だったのか。

「これからの活躍、期待してるぞ。後生畏るべしだ」

 それから表情をキリッと切り替えて、

「打ち合わせはどうした。さっさと行け!」

 大原班長は怒号を飛ばす。

「はい」

 僕は急いで駆け出した。

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