次章
「のう、四郎。赤崎を討つのと遠藤を討つのはどちらが容易いかの?」
これには山田四郎も返答に困ります。
赤崎家は赤崎、船越、俵浦などの領地と水軍を治め、遠藤家は佐世保、日宇、早岐を領しており、供に家老職。如何に松浦家とも言えどもおいそれとは手出し出来ません。
第一、落ち度も無い家臣を攻め落とすなど、言語道断であり波多や大村、後藤など近隣諸国からの干渉の種火ともなり兼ねません。
「殿、その様な無体を申されても困りますぞ。第一大殿が何と申されます。」
「わしは相浦の主ぞ!親父殿や兄者が何だと言うのだ。」と癇癪を起こします。
古川治部左衛門も馬を寄せ「殿、一度飯盛へ御戻り下され。我々にて、策を練ります故。
渋々、飯盛城がある愛宕へと馬を進める親であるが、その内心では艶やかな白縫姫の舞を想い恋慕の炎が燻り続けるのであった。
その頃佐世保城下では、白縫姫の輿入れの準備に追われておりました。
「白縫、息災か?」
月代の青さも爽やかな小袖姿の若武者が佐世保館に姿を現す。
「まあ、右近兄様。御戻りになられたのですか。」
「うむ、右近久しいの。」
「親父殿、只今戻りました。伊予守殿も白縫の輿入れを心待ちにしておりましたぞ。」
「まあ、兄様ったら。」
頬を染める妹を優しげに見守る若者こそ、遠藤家の嫡男 遠藤右近である。
肥前国の北部を殆ど領す松浦氏ではあるが、その支配は盤石とは言えない状況であった。
南の大村・西海を抑える大村、諫早の西郷や島原の有馬。東には武雄の後藤、伊万里・唐津の波多
。
佐賀では龍造寺が肥前、肥後、筑後にその勢力を伸ばしつつある。
先だっては針尾で、大村方に寝返った針尾伊賀守が反乱を起こすなどなど当に群雄割拠の時代であった。
「爾五郎は如何にして居る?」
「廣田の城にて詰めておりますが、この度の祝言には、拙と供に赤崎へ向かいます。」
「爾五郎兄様も見えられるのですね。」
「拙も一度長峰(日宇)城に戻りますが、針尾も当主であった針尾三郎左衛門が討ち取られ下りましたし、宮の宇都宮家との和議も成っておりますので、戦は当分起きぬでしょう。」
「それは上々、針尾から横瀬まで歩を進めたか。平戸の大殿も壱岐を下されたとの事、遠藤と赤崎の婚姻が成せばこの地も盤石。益々栄えるばかりであるな。」
「丹後守殿が諦めて下さればであればな。」
地名や人名はかなり難しいでしょうがご勘弁下さい。