さよなら
さよならーー。
その言葉だけが、冬空にとけていった……。
クリスマス一色に染まる街を見下ろせるホテルの最上階レストランで僕は、その言葉を切り出した。ああ、見下ろした先では恋人たちが幸せそうに街を歩いている。あるいは、幸せな人たちのみが歩いているのかもしれないが。
「なん、でーー」
言葉は途切れたようだけど、顔は思った通り、青ざめてなどいなかった。
その言葉の先は、なんと続けたかったのだろう? 「なんで今日?」とか、「なんでこんな場所で?」とかだろうか? それはそうだろう。今日は十二月二十四日、クリスマスイブだ。そして、ここは幸せそうな恋人たちで溢れているホテルの最上階のレストランだ。客も店員もーー店員のは心の底からの笑顔ではないかもしれないがーー皆、顔には笑みを浮かべているのだから。
僕はあえて言葉の先を待たずに切り出した。
「もう、君の心の片隅にしか僕はいないから」
分かっていたんだ。少しずつ、君の心が僕の側から離れていっているのを。君の視線が僕ではなく、違う誰かを追いかけて行っているのを。
待たせすぎてしまったのかもしれない。高校時代に出会い、大学に入ってから交際を始めたけれど、僕は心のどこかで、なんでもある程度卒なくこなす君に負い目を感じていたのかもしれない。大学を卒業して、なんとか就職出来たけれど、仕事に自信の持てなかった僕は、僅か2年で三つも職を変えてしまった。君はその度に励ましてくれたけれど、その励ましが少しずつ重荷に感じるようになってきたんだ。「今度新しくプロジェクトを任せられたんだ」などと明るく語る君を、鬱陶しく感じるようになってしまったんだ。
交際を始めた頃は、君の側に居られるだけで、ありのままの自分でいられた気がしたのに、でも、今の僕の側に君をいさせ続けることは、夢へと向かう君の翼を十分に羽ばたかせることが出来やしないんだ……。
だから僕は、君に告げよう。優しい君だから、君からは僕に「さよなら」を告げることは出来ないだろう。僕が傷つくことを怖れて。僕が前に進めなくなる子ことを怖れて。
君の優しい心を少しでも傷つけないように、君が夢へと向かう翼を十分に広げられるように。君がありのままの自分でいられるように。
これが、僕に出来る最大限の優しさ。最大限の強がり。もしかしたら優しい君は、泣いてくれるかもしれないけれど、もしかしたら間違った選択かもしれないけれど。
違うな。本当は、ただ君から言われることがきっと怖いだけなんだ。君から「さよなら」を告げられるのが怖いだけなんだ。きっと僕は、立ち直れなくなってしまうから。ほんのちっぽけなとるに足らない自尊心ーープライドーーすらなくしてしまうから。
だから告げよう、「さよなら」をーー。
その後は食事の味も覚えていない。君と二人での最後の食事だから、と、なけなしの金で奮発したけれど、ちょっと無理をしすぎたかな。
幸せそうな恋人たちが僕たちの近くを通り過ぎていく中、君は今にも泣き出しそうな顔をしながら、それでも精一杯に笑ってくれたね。
「雪だ」
恋人たちの誰かの言葉に、僕らは思わず空を見上げた。空からは、白い雪が降り始めていた。
「ホワイトクリスマス、だね」
「ああ」
大学時代、初めて想いを告げたのもクリスマスイブ、しかも雪が降り出した時だった。ああ、そんなことも忘れていたな。
「さよなら」
数日前までは「またね」が僕らの別れの言葉だったけど、もう使えない。
「さよなら」
背を向け歩き出す君を、呼び止めようと思えば呼び止められたのかもしれない。でも、僕は手を伸ばすことも声をかけることも出来なかった。
幸せそうな人混みを抜けて遠ざかる君の背中が見えなくなるまで、その場を動けずにいた。
雪だけが降っていた。
優しい君を傷つけた僕の罪が、白く塗りつぶされるまで降ってはくれないだろうけど、体よりも心が冷えていくのを感じた。
「さよなら」
君にも、そして誰にも聞こえないだろうその言葉をもう一度口にして、僕もまた、幸せそうな恋人たちで溢れかえる街から足早に後にした。
リハビリがてら、季節感を無視した作品を書いてみた。