はじまりの通勤電車
短編です。
少しだけ混み合った通勤電車の中。
人目も憚らずイチャつくように見える男女。
大人しそうに見える黒髪ロングの女に、茶髪のツンツン尖った髪型の男が話しかけている。
「さっきお年寄りに席譲ってたじゃん。いいと思うよ。そういうの」
「そんな…普通の事よ」
「俺にも座らせてよ。アキの彼氏の椅子にさ」
「えっ?かっ、かれし…?」
「アキ、今フリーなんだろ?」
アキの長い髪をかき上げて、ユウスケは耳元で囁いた。
「お前の素直なところが好きだ」
「答えがyesなら次の駅で降りてきて」
アキは戸惑った。ユウスケは通勤途中に何度か見たことがあった人だ。
いつもは学生服で、多分高校生。
あんなチャラチャラした髪型をしているけれど、制服はきちんと着ていて多分市立の進学校。
男子校だったか共学だったかは分からない。
でも、どうして年上の私なんかに…?
色々な思いを巡らせていたら次の駅のアナウンスがされていた。
(降りなくちゃ)
アキの足は自然と次の駅のホームへと向かっていた。
「アキ、降りてくれたんだ」
「ユウスケくん…で良かった?」
「あれ、俺の名前知ってるんだ」
「あなたの友達がそう呼んでたじゃない。そっちこそ何で私の名前知ってるの?」
「ああ、それでね。アキの名前は…聞かない方がいいんじゃね?」
「え?」
思い当たる事といえば…やっぱり言わないで欲しいと願ったのも虚しく。
「こないだ電車の中で彼氏と痴話喧嘩してただろ?そん時男がアキって呼んでたから」
「ああ…それ言わないで欲しかったのに」
途端に涙目になるアキ。
「あんな奴忘れて俺にしなって」
「確かに私は電車を降りたけど、タクヤの事、そんなすぐに忘れられない…」
「タクヤって彼氏?」
「うん。結局、あれから別れちゃったけどね」
「じゃあ、少しずつでいい。好きになってよ、俺のこと。身代わりでも良いから。俺はアキがいい。どんなアキの事も好きでいたい。年上とか関係ねーよ」
「ユウスケくん?」
「呼び捨てで良いから」
まともに言葉を交わしたのは今日が初めてなのに、いくら年下だとはいえ名前を呼び捨てるのに抵抗があった。
「えっと…」
「名前、呼んでくれないとキスするよ」
そしてなかなか彼の名前を口に出せずにいるアキは。
「ユウ…ス…んっ……」
最後まで言い終えるまでに唇を塞がれた。ユウスケの柔らかな唇に。
それはとても温かくて、何故か涙が出た。
「俺とキス出来て嬉しかったの?」
頭を掻きながら目をそらす。
照れてる時の仕草。アキは知っていた。
電車の中で全然無関心だった訳じゃない。仲間といる時、照れるとそうやって頭を掻きながら笑うのを何度も見たことがあったから。
「キスって、こんなに優しかったっけ?」
二人は人気のないホームのベンチに腰掛けて、沈黙と会話を交互に楽しんだ。
「アキ…キスしてごめんな…」
「ううん、私は軽い女だと思われるかも知れないけど、ユウスケにキスされて思ったよ」
「なんて?」
「好き…キスされた瞬間ユウスケを好きになっていたの。ねぇ、単純で軽い女でしょう?私って」
アキは本当の気持ちをさらけ出した。
本当はこんな事、言いたくなかった。でも連絡先を交換する事もなく電車も時間や車両を変えればもう、ユウスケとは会わないで済むと思ったから、だから言えたのかも知れない。
だけれど、それだけじゃない。
何故かユウスケには嘘をついたり着飾ったり、自分を誤魔化したくないと思ったから。
"お前の素直なところが好きだ"そう言ってくれたユウスケは、アキにとってどんな存在だろう。
アキは見つめた。端正な顔立ちのユウスケの真剣な眼差しを。
「それなら俺だって単純だぞ。お年寄りに席譲ってたとこ見たことがきっかけでアキの事意識したんだからな」
「でも」
照れ笑いをしながらユウスケは続けた。
「最初は綺麗なお姉さんがいるなーって思って遠くから眺めてたんだよな。実は!」
「えー!私、そんな綺麗じゃないよっ!」
「こんなに良い香りがしてるのに?コロンとかつけてるの?」
はらりと、長い黒髪を避けて後ろに流し、首もとからうなじにかけて顔を近づけてくる。
「ひゃっ…ユウスケ!ひ、人が来ちゃう!」
「…じゃあ、来いよ」
「へっ?」
「俺んち、父親も母親も帰り遅いから。」
少し強引に誘われてアキの心は動揺したが、ユウスケのたくましい背中に着いていきたいと、今は思えたのだった。そして、これからもずっと…。
「お、お邪魔します…」
「誰もいないって!面白いなアキは」
アキの高鳴る鼓動とは相反する様に、ユウスケは笑いながらアキの長い黒髪をくしゃっと撫でる。
「やだっ!くしゃくしゃになっちゃう」
本当は嬉しかったけれど、そんな気持ちを隠すかの様に慌てて乱れた髪の毛を両手で直そうとすると、さっきまで余裕を見せていたユウスケの表情がだんだん夕陽に染まり―。
「綺麗な髪、好きだ…アキ」
ぎゅうっ…。こわれものを扱う様にアキの上半身を抱きしめて、長い髪を優しく指ですく。
長く延びる二つの影が重なった瞬間、どちらからか分からないタイミングで柔らかな唇が触れ合った。
ありがとうございました。




