世の理と二人のこと
「オレアはいつまで怒ってるんだい?」
「もう知らないです」
食後のお茶の香りが漂う食卓で、ネセブは片づけをするオレアの背中に目をやった。しかしオレアの反応は冷たく、彼の方を見返りもせずに使った皿を片づけていた。しかし泉が傍にあるとはいえ水は大切なので、まずは布切れで汚れをふき取る。
(ちゃんと! 考えた! お料理! なのにっ!)
汚れを落とそうと力を入れるたび、心の声にも力が入る。どうも、先程の「片腕だから食べにくい」というネセブの言葉がカチンときたらしい。
もっとオレアが幼い頃、彼女の食事は素材をそのままかじるだけの粗末なものだった。彼女の保護者であるネセブは、片腕なのもそうだが、それ以上に食事に頓着する人ではなくて、当時は適当な食材を大量に買いこんできてはそれを食べるよう言いつけるだけの、全く料理ができない人間だった。
しかし、きっと元から試行錯誤を楽しむ好奇心に満ちた性格だったのだろう。いつの間にかオレアはそうした食材に味を付けはじめ、切ることを覚え、火を通しだし、幾多の失敗と火傷と怪我を経た末に、気がつけば完全なる我流ではあるが料理を習得していた。それ以来、この家の料理当番はいつだって彼女である。そして街に出るようになってからは既存の料理にも触れ、彼女の腕は今も磨かれ続けていたのだった。
また、ロクに食事も取らなかったネセブがまともな食事をするようになったのも、彼女の功績が大きい。彼女が料理を作るようになったのは、一人で座るだけだった食卓に彼を呼ぶためでもあり、そのために片腕の人間にとって何が食べやすいのかも色々と試行錯誤していたのだった。
こうした経緯もあって、オレアはネセブの食事に関してはある種の自負がある。だからこそ、彼の一言に怒っているのだった。例えそれが単なる冗談とわかっているとしても。
(ちゃんと先生のこと考えてるもん……家族なんだから)
「家族」という言葉は、オレアにとっては特別だ。
幼い頃に拾われた孤児のオレアには、顔も忘れてしまったが、両親がいたというおぼろげな記憶しか残っていない。今の彼女に家族と呼べる存在は、ネセブだけだ。
だから、自分はこの人のためになりたい。できれば、この人に自分を見ていてもらいたい。だって、自分にはこの人しかいないのだから。
そうした彼女の気持ちを、果たしてわかっているのかどうなのか。ネセブは頭を掻いて何事かを思案しているようだった。
「うーん……じゃあ、オレアにいいものを見せてあげよう」
「いいです。見ないです」
「まあまあそう言わず。きっと面白いから」
「…………」
そっぽを向いたままのオレア。しかしネセブが構わず奥に引っ込んで、何かを持って戻ってくる音が聞こえると、つい好奇心に負けてちらりと目を向けてしまった。目に入ったネセブが持つ二つの木箱には、見覚えがあった。
「それって、今日道具屋さんから預かってきた」
「そう。前に作ってくれるよう頼んであったんだ」
食卓に木箱を置いて、ネセブはその蓋を開けた。片方には楕円形のガラス球が、もう片方にはやはりガラスで出来た細い管が、どちらも綿に包まれて収めてあった。
「これは、ガラスの……何でしょう?」
さっきの意地はどこかに行ってしまって、オレアは興味深げに箱の中の奇妙な道具に見入っていた。ネセブは見やすいよう、ガラス球の入った箱をオレアの方にたぐりよせた。
「こっちは光を屈折させて集中させるための道具。家にあった物を親父さんに渡して、複製できないかお願いしていたんだ。これはその試作品」
「はあ……さっき食べたお豆みたいな形ですね。レンズ豆」
オレアは初めて見た道具をしげしげと眺める。今は名無しの道具でしかなかったが、それはしばらく時代が下った後に、「レンズ」と呼ばれるはずの代物だった。
「太陽の光が魔法の源という話は昔にしただろう?」
「はい。この世の恵みの源は太陽の光だから、その光の力を人が用いてこの世の理に干渉するのが魔法……なんですよね。それに、いつも使う『太陽の石』は、太陽の光を物質になるまで凝縮させて石にしたものだって」
フィーに与えた太陽色の石の粒が入った小瓶に手を添えて、オレアは言った。彼女の答えにネセブは「その通り」と言ってにこりと笑い、左の人さし指をかざして説明する。
「太陽の石は私の先代、つまり父上が作り上げた秘術だ。それまでは太陽の光が届く時間や場所でしか使えなかった魔法が、これでいつでもどこでも使えるようになった」
「先生のお父様、すごい人なんですか」
「まあね。あ、私と比べるのはやめてね。みじめになるから」
「何も言ってないじゃないですか」
などと冗談を挟みつつ、ネセブはガラス球を手に取ってかざした。
「ただ、その石を作るためにはこのガラスが必要でね。なのに手元にあるガラスは父上が遺した一枚だけだから、何とか再現できないかと親父さんと相談していたんだ。親父さんは父上と懇意で、よく道具を頼まれていたりしたから」
「へぇー」
「ほら、そっちから覗いてごらん」
そう言われ、オレアは反対側からガラスの面になっている側を覗きこんだ。その向こうに見える逆さまのネセブの姿に、レンズ越しの像を初めて見たオレアは目を輝かせた。
「わあ! 先生が逆さまになってます!」
「面白いだろう。これほど整った像になるのは、親父さんと父上の技術の賜物だろうけど」
すっかりはしゃいだオレアの逆さまな姿をガラス越しに見ながら、ネセブはふと漏らした。
「私たちも、父上に初めて見せてもらった時は君みたいにはしゃいだなあ。光の力が世界の見方さえ変える……それが私の魔法の入口だった」
「先生、たち……ですか?」
何気ない一言をオレアは気になり尋ねたが、失敗したとすぐに思った。尋ねられたネセブの顔がこわばったのだ。
「ん……ああ、兄が……いたから……」
「そうなん……です、か……」
彼に兄がいたというのは、オレアには初耳の話だった。ただし、そんなことよりもこの変な空気をどうしたものかとオレアがオロオロしていると、ネセブの方がこわばった顔を無理矢理笑顔にして言った。
「ま、まあ……古い話だけどね。兄どころか家族みんなもう死んじゃったし……あはは……」
「え……ご、ごめんなさい……私何も知らないで……」
「ああいや、君が気にすることじゃ……私こそすまない……」
「…………」
「…………」
ますます気まずくなり、ただよう沈黙が数秒。うつむくオレアより先に会話のタイミングを見つけたのはネセブだった。そっとレンズを箱にしまうと、もう一つの箱の方に手を伸ばして中の道具を取ってオレアに示す。
「ええとあのねこっちのはね、私専用の魔法用のペンなんだ。片腕でも使えるよう設計したのを親父さんに作ってもらえってね。しかも私だって一つ父上にも負けない発明をしたんだよ」
そう言ってネセブが見せたのは、ペンというよりはガラス製の注射器に近いものだ。
外筒の内部は空洞で、一方の先端はペン先のように尖った金属がついて、先端には空洞と繋がる穴が空いている。内筒はピストンができるようになっていて、外筒と内筒の接合部分は気密性の確保のためか、コルクが詰めてあった。
「わあすごいですね! どういうものなんですか!?」
気まずさを紛らわそうとしているのか、オレアはレンズの時よりも食いついてネセブに尋ねた。そんなオレアに乗っかって、ネセブもわざと空元気で声を張った。
「ふふふ、先生はね……太陽の石を液体にする技術を開発したのだ! そしてその液体をインクにしてこのペンで文字を書くことにより、簡易な魔法の発動を可能にしたのだー!」
「なるほどー! よくわからないけど先生すごい!」
「よーし言うより見る方が早いね! 早速試してみよう!」
ほぼ勢い任せなやりとりをしつつ、ネセブは自分の左腰に手を伸ばした。腰の帯にはいくつか色の違う土器の小瓶が括りつけてあり、ネセブはその中の白い小瓶の蓋を指二つで器用に開けてガラスの筒を瓶の中に入れると、内筒を引き上げた。するとキラキラと輝く黄金色の液体が、筒の中に満たされていく。
「わあ……!」
オレアはガラスの中に満ちていく太陽色の液体に目を見張った。それはランプの灯りよりも眩しく室内を照らし、まるで小さな太陽のようであった。
「うーん……ま、試しにこんな……」
ネセブが手の平で器用に内筒を押すと、先端から押し出された光の液は、彼の動きに合わせて文字となっていく。
淀みなく描いたのは、独自に図案化された『風』を意味する表意の文字。
「風の中の魂よ、さあ、一つくるりと舞い踊ろう」
そして宙に浮く文字に指を這わせ、ネセブは詩のように唱えた。
「え、それって」
それを聞いたオレアが、何が起きるかを察した。しかし、既に手遅れ。光る文字は溶けるように消えたと思ったら――
――家の中を突然のつむじ風が襲った。
「うわっと!?」
「きゃーっ!!」
吹き荒れる風にネセブがのけ反り、オレアがしゃがみこむ。日干レンガの家が、みしりと揺らいだ。
風が起きたのはほんの一瞬のこと。しかし、窓も戸も閉ざしていた家の中は風がくまなく駆けめぐり、掻きまわされていた。消えたランプ、倒れた食卓、割れた茶碗、巻き上がる埃とかまどの灰……そんな風の名残の中、尻もちをついたネセブは自分の腰をさすった。
「いたた……思ったより強い風が……インクの量が多かったかな……ん?」
ランプの火は消えてしまったので、ペンに残ったインクの光を照明にして辺りを見ると、自分の前に仁王立ちする少女の足が見えた。あ、不味いな……とネセブは思う。
「せーんーせーいー……!」
「あはは……いやあ、びっくりしたねえ……」
どう聞いても怒っているオレアの声。ネセブは怒られるのを覚悟して、肩をすくめた。しかし待てど叱る声はなく、代わりにもたらされたのは押し殺すような笑い声だった。
「ぷっ……ふふ……ふふふ……」
思っていた反応と違って、ネセブはきょとんとする。何事かわかっていない彼に、オレアは笑いを噛み殺しながら言った。
「だって先生……灰まみれの顔……下から照らしてるから……ぷふふふ……!」
「え……ああ。あはは」
手に持ったペンを掲げて辺りを照らし、ようやくネセブは意味がわかった。さっきの風で飛んだ灰が顔にもかかっていたのだ。
ネセブも苦笑しながら立ち上がり、左手のペンでいくつか宙に光の点を打った。その光はひとりでに家中のランプへと飛んでいき、種火に変化して再びランプを灯した。そして灯りに浮かび上がる、廃墟もかくやというほどの家の散らかりよう。失敗したなあと、ネセブはペン先で頭を掻いた。
「……片づけようか」
「そ、その前に……お顔洗ってください……! 私……私、もうダメです……んふふふふ……!」
家の惨状が露わになっても、オレアはまだ笑いをこらえようと必死になっている。どうも灰まみれなネセブの顔がツボに入ってしまったらしい。そんな腹を抱える彼女に、ネセブは少し迷いながらも優しく一言を添えた。
「オレアも……洗った方がいいよ?」
「……へ?」
言われたオレアは、自分の顔に手を当てた。すると指先には、たっぷりと白い灰が。
「~~っ!!」
オレアの顔が、被った灰の上からでもわかるほど真っ赤になった。
***
とりあえず二人とも顔をさっぱりさせ、一緒に家を片づけていた時のこと。しゃがんで割れた茶碗の破片を拾っていたネセブに、オレアがおずおずと尋ねた。
「先生……さっきのお話なんですけど」
「ん?」
「先生、寂しいですか? 家族が……いないって……」
それは、先程無理矢理に終わらせた話のはずだった。しかし、こうして落ち着いてふと思うと、彼につきまとう厭世的な雰囲気は寂しさが根底にあるではないかと、オレアは思い至ったのだ。自分では、やはり家族の代わりにはなれないのだろうか。そう考えると、オレアは聞かずにはいられなかった。
その質問に、ネセブはしゃがんだまま、しばらく無言でいた。
またしても気まずい沈黙が続いて、オレアが発言に後悔を始めた頃、ようやくネセブは口を開いた。
「以前に教えたけれど、死んだからと言ってその人の魂まで消滅するわけじゃない。人の体を離れた命は大地に、風に、水に融けて、自然の中に生きながらいつか再び人の身に宿り生まれ落ちる。だから姿はなくとも、皆はいつもこの世のどこかにはいる」
彼が言ったのは、この地に伝わる一般的な死生観だ。
この世に存在する魂の総数は増えたり減ったりはせず常に一定で、それは肉体という可視的な物体の中にあるか、不可視な自然に融合しているかの違いしかない。そして、人が増えれば文明が育つように、肉体のない魂が増えれば自然が育つ。肉体を持つ魂が増えれば自然は減り、自然が減少し荒廃すれば天災を起こし、結果として魂は肉体を手放し再び自然に帰り、自然を育てていく。そうした”環る大いなる流れ”が、魂には存在すると考えられていた。
「だから、寂しいと思ったことはないよ。……ただ」
「……ただ?」
「……ふがいないとは、思っている。今も、ずっと」
ネセブはそう言って、肘までしかない右腕を、茶碗の破片を持ったままの左手で握りしめた。
ふがいない。
その言葉が何を意味するのか、まだオレアにはわからない。しかし、彼が辛い記憶を抱えているだろうこと、そして失った右腕が彼の記憶に関わっているであろうことは、その表情で痛いほどに伝わっていた。
「って! 先生!」
「ん……ああ」
突然オレアが掃除道具を捨てて飛びついてきて、ネセブはハッとした。いつの間にか握りしめた破片が手の平と右腕に食い込み、血が滲んでいたのだ。
「すぐに手当てしないと!」
「いや、これしきで大げさな」
「ダメです! ええっとお水と包帯……あ、破片はそこに捨ててください!」
慌ただしくオレアが用意をして、水で傷口を洗い包帯を巻くのを、ネセブはじっと見つめていた。その懸命な横顔を見ているうち、ネセブは彼女に問いかけていた。
「オレアこそ、きっと寂しいだろうね」
「え?」
「私も、保護者としてまともなことができていない自覚はある。本当はちゃんと家族のある家に君を引き取ってもらえば良かったのかもしれないけれど……君には辛い思いをさせている」
その言葉に、オレアは少しうな垂れた。無理もないことだと、ネセブは思う。瓦礫の下で泣いていた彼女を拾ってずっと、道具屋の親父さんからの知恵を授かりながら、彼なりに懸命に彼女を育ててはきた。
しかし、オレアの正確な誕生日さえ知らない彼には、どうやっても親代わりになれはしない。これほどまともに育ってくれたのが奇跡と言うべきだろう。
しかし次に顔を上げた時、オレアは決然とした表情で彼を見据え、叫んでいた。
「わ、私……先生が好き! ……です!!」
突然の告白。あまりにも不意のことできょとんとするネセブに、それでもオレアは胸の内から溢れる言葉を止めなかった。
「そりゃあ先生は色んな事が適当で頼りないし、私がお料理工夫してるのも気づいてくれないし、今だってお部屋滅茶苦茶だし、本当に困った人ですけど! たまに『先生』って呼ぶのに疑問持つくらい尊敬はできませんけど! でもそんな先生の世話を焼いたりするの、嫌いじゃありません! それに、さっきみたいに色々教えてくれるのも楽しいです! だから……だから! 私先生といて寂しいなんて思ったことありません!」
しゃべりながら、オレアはじわりと涙目になっていく。自分でもとてつもなく恥ずかしいことを言っている自覚はある。しかし、本心の言葉は止められない。
「だから、その……ずっと一緒に……先生といれたら……うれしい、です……。先生がいなかったら、私……」
「…………」
結構貶された気もするが、反論の余地もないのでそれは置いておくとして、ネセブは彼女の言葉をしっかり聞き届けた。そして、泣きそうになって鼻をすするオレアの頭に、包帯の巻かれた手を優しく置いた。
「……そういえば、さっき私は寂しくないと言ったけれど、そう思う一番の理由を忘れていたよ」
そのまま、彼女の柔らかな黒髪を撫でる。オレアは恥ずかしがりはせず、彼の手を受け入れていた。
「きっと、君がいるからだろうね、私が寂しくないのは。私の方こそ、いつも君といると楽しいよ」
「……本当、ですか?」
「ああ。だから大丈夫、君が許してくれる限りは、私はちゃんと傍にいるから」
「約束……してくれますか?」
「太陽神に誓っても」
涙ぐむオレアに、彼は確信をもって微笑んだ。空に頂く太陽の名を挙げ誓う以上、もうその言葉は一言たりとも反故はできない。そんな誓いを聞いて、ようやくオレアも鼻をすすってにこりと笑った。
「じゃあ私も約束します。これからもずっと、先生のこと寂しくさせません。太陽神さまに誓います!」
「それは頼もしい。ふふっ」
そのまま二人で、くすくすと笑い合う。しかしそこへネセブが思い出したように一言。
「あ、でも、好きだというのは嬉しいけど、流石に結婚とかはできないからね」
それを聞いて、オレアの顔はさっきの恥ずかしい告白の時よりも赤く、涙も引っ込ませて燃えあがった。
「けっこ……!? ち、違います!! 好きって結婚したいとかじゃなくて……!!」
「え、そうなの? じゃあ良かった」
焦るオレアに対し、あっけらかんとしたネセブの言葉。しかし、それがまたオレアにはカチンときた。
「良かったって! 何でいっつも一言余計に……! もーっ! もーっ!」
「痛い痛い! 包帯巻いたとこ叩かないで!」
「自分で大したことないって言ったでしょう! もーっ! 先生のバカ! 甲斐性なし!」
「甲斐性とかそんな言葉どこで覚えたの!」
「道具屋さんのおばさまが男はみんなそうだって言ってました!」
「何教えてるんだあの人は!?」
結局、紆余曲折の末にオレアの機嫌は元の黙阿弥。月のない空に浮かぶ星々が地を睨む中、騒がしい二人の夜はこうして更けていくのだった。
長い割に話が進んでません。本当に申し訳ない。
なお、作中の宗教観は特定のモチーフはなく割と適当です。