#8:翼をください
「高校に進学してから2年間、ずっといじめを受けてきました。
上履きを捨てるとかオーソドックスなものから、かばんに毛虫を詰め込むとか突飛なものまで。本当にたくさん、それは飽きるほど受け続けてきました。
友人と呼べる人はいません。仲のよかった人は家庭の事情や夢のせいで別の学校に進学しました。新しい友達を作る前に、私はクラス全員のストレス発散の的になってしまいましたから」
「それはまた、大変というか、災難というか」
「何度も死のうと思いました。ほら、リストカットの痕がこんなに。まだ治っていないものもあります。少し力めば、開いて肉が覗いて血が出てきますよ。見ますか?」
「いえ・・・遠慮しておきます」
「それでも、とうとう何もできなくて、それでも辛くて悔しくて、私はいよいよ逃げることにしたんです。今度は本当に。だから飛び降りることにしたんです。私の家は一軒家だから、学校の屋上から。私の教室の窓から見える場所から、頭から真っ逆さまに」
「あてつけ、ということですね」
「そのとき、ああ、そうですね。見なければよかったのに、私はつい、あごを上げてしまったんです。
びっくりしました。こんなことってあるんですね。
雲ひとつ無い、見事な晴天だったんです」
「・・・」
「空は私を少しだけ前向きにしました。まだ、できることをやってない。ううん、そこで私はやっと、やりたいことを見つけたんです」
「それが、先ほどのお話ですね。こう言っては失礼ですが、思春期の女性が抱く希望としては、酷く陳腐な部類に入ります。この国を見渡しても、それを本気で叶えようとしている人はいないでしょう。そう、常識を備えていない子供以外は。
つまり、“空を飛びたい”と」
「インターネットってすごいですね。その気になれば、なんでも調べられる。近くに住んでいる、パソコンに詳しいお兄さんに“一度抱かれてあげた”ら、博士のことを見つけて、アポイントまで取ってくれましたよ」
「そこまでして・・・」
「そんな顔なさらないでください。自分で決めたことですから。
お兄さんの調べた結果はこうです。
生物学の草分け的存在の博士が、人体に羽を生やす研究を進めている。もちろん秘密裏に。でもそれは、完成しつつあるものだ。間違いありませんよね。いえ、返事は結構です。もう、わかってますから。
お願いします。私に翼をください。私に、新しい世界をください。お願いします」
「・・・痛みを伴いますよ?」
「大丈夫です。そういうのにはもう、慣れてます」
「元には戻れませんよ?」
「こんなものには未練もありません」
「・・・どうやら、意志はかなり固いようだ。
よろしい。では、この薬を飲んでください。すぐに意識はなくなります。ですが目覚めれば、あなたは空を飛ぶことができるようになっています」
「・・・」
「恐いですか? 無理もない。しかし、こちらも腹をくくりました。不安定な精神状態では術後の機能に支障が生じてしまう。走馬灯でも見ながら、ゆっくり羽休めするといいですよ」
* * *
「もしもし。どうですか。ぼくの声が聞こえますか。
・・・よろしい。ぼくの姿が見えますか。はい。これは何本ですか。結構。
さあ、体を起こしてみてください」
「・・・ああ、博士、わかります。よおく、わかります。
まるで、背中にもう一対手が生えた様な感覚なんですね。それに、想像していたよりずっと軽い。これなら、今すぐにでも空に飛び出せそうです!」
「大成功でしたからね。そう言うだろうと思って、屋上であなたを起こした。どうですか。皮肉なものですね、雲ひとつ無い晴天だ」
「本当だ。あんなに憎たらしかった空が、今は恋人みたいに思えます!」
「おめでとう。
あなたは生まれ変わった。これからは、それで、自分の思うとおりの道を進めばよろしい」
「はい。ありがとうございました」
「そうそう、鏡を用意しておきましたよ。新しいあなたを、しっかりと見ておくといい。これからずっと、付き合うものですからね」
「まあ、ごていねいに・・・・・・」
「どうですか? 美しいでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嫌」
「日の光に透け、浮かび上がる金色の筋。羽ばたくたびに鳴る付け根。身の丈を軽く越えてしまうほどの、それもここまで生々しい羽を作り、人体に埋め込むまでに数年の時を要しました。あなたは、この羽を持った人間第一号だ。ぼくとしても、あなたをとても誇りに思いますよ」
「嫌です、博士」
「あ、タバコを失礼しますよ。いい仕事をしたあとは、これがまた格別に美味い」
「嫌! 嫌です! 博士、これ抜いてください! 嫌! こんなの嫌! 絶対に嫌です! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士! 博士!」
「黙りなさい。ぼくの可愛いゼミ生が起きてしまいます。
・・・ああ、それとひとつ、忠告を。ニュース、見ました? 先日、隣国が緊急事態に対応して非常戦線を張ったそうです。下手な空域を飛んでしまったら、そのまま撃墜されてしまいますよ」
「・・・そ・・・ん、な・・・。こんなのじゃないのに。もっと、もっときれいなもののはずだったのに・・・!」
「・・・ああ。神話の天使よろしく、鳥の“羽根”を想像していましたか? ならば、気の毒としか言い様がない。ぼくがメインで研究しているものは昆虫でしてね。まあ、ハッキングされたデータベースには無い情報なので、知らないのは当然ですけれど。
本当に好きなんですよ、昆虫。あの、目にも止まらない速さで動く羽に、幼少の頃より心を奪われていたんですよ。
それに、余談ですが、鳥類の羽根で飛ぶのなら、その数倍の体積と重量が必要になる。体の小さい、あなたのような子供には、到底扱えませんよ。
何より、あなたに羽根は似合わない」
「・・・はあ? 何言ってんだ、テメエ! この、クソハゲ!!」
「・・・そうそう、この際だから言ってしまいましょう。
ぼくは、死にたがりが大嫌いでしてね。リストカットなんてストレスの発散方法すら見つけられないグズの行いだと思うし、その傷跡を誇らしそうに見せている様子なんかは、なんというか、虫唾が走りましたね。なんだったんですか、あれは? 私はこんなに傷ついている。だからこれ以上言わなくても優しくして下さいね、ってことですか?
同じ話を、以前他の知人にもしたことがありましてね。そしたらソイツ、何て言ったと思います?
“あいつらは逃げる為に死んだんじゃない”なんて、真顔で言うんですよ。思わず笑っちゃいましてね。身内じゃあ温厚だと評判のぼくですが、そのときばかりは声を張って言ってしまいましたね。なら立ち向かえ、何事にも死ぬ気で挑め。誰も、自分の理想どおりに生きているわけじゃない。やれることをやりつくしても、欲求の半分も満たせない人間だっている。それでも、なんとか必死に生きているんですよ、って。そしたらそいつ、黙りこくって、まるで今にも死にそうな顔をしていました。それきり、そいつの顔は見ていません。
話が逸れてしまいました。これから、新しい人生を歩むあなたに、人生の先輩からアドバイスしましょう。
ヒトには立場、というものがあります。望もうと、望むまいと。そしてそこから移動したり抜け出したりするのは、いつだってその本人次第なのですよ。
若くて幼い自殺志願者さん、あなたには圧倒的に経験が足りない。知識が足りない。度胸が足りない。勇気が足りない。友が足りない。自己愛が足りない。他人との結びつきが足りない。そのくせ、理想だけが誰よりも高い。
だから、そういう後悔を味わうことになる。きちんとした下調べもせず、ミシン糸のような希望の欠片にぶらさがる。その癖、糸が切れて自分が落ちたら、責任はすべて糸にあると胸を張る。馬鹿な自分ではなく、それを支えられなかったこいつが悪いんだ、とね。
ありのままでいられないから死を選ぶ?
そんな人生は茶番だ。そう思いませんか?」
「うるさい! うるさい!!」
「やれやれ、失礼なヒトだ。
ぼくはあなたの希望に応えたんですよ?
もう、あなたは飛べるんですよ?
なのに、ちょっと自分の希望と食い違っていたからって、そんな失礼な罵声を?
あなた、ひょっとしたら、なんで自分がこんな立場にいるのか、考えたことすらないんじゃないんですか?」
* * *
少女は頭を抱えて、文字にできない言葉を辺りに撒き散らしながら、屋上から飛び出した。
背中に生まれた慣れない感覚に神経を集中させ、なんとか羽ばたき、木々の枝を圧し折りながらなんとか高度を維持したが、やがて目の前に現れた電波塔を避けきれず、肩から激突。脱臼と骨折で彼女の意識にもやが掛かると、そのまま駐車場に落下、首を複雑骨折、へどろのような脳漿をぶちまけた。
男はその一部始終を双眼鏡でずっと眺めていた。全てを見届けると、手元の設計図に目をやった。
やはり、この数値では方向転換が難しくなる。
すぐにひらめき、ペンで数値を消し、新しい数値を書き込む。
その紙は、もうすっかり設計図としての役目を果たしていなかった。あちこちに書き込まれた数値には、古いのから新しいのまで、ほとんどと言ってもいいほど書き直されていたのだ。
彼ははたと思い立った。
見やすい設計図に書き直そう。何度でもやり直せばいい、と。