#5:卵
「? なんだこれ」
卵だった。エルエルサイズの卵よりちょっと大きめの、真っ白な卵が道路にくてんと転がっていた。初めはカラーボールか何かだと思ったくらいだ。
つい自転車を停めて、手に取ってまじまじと見てみたけれど、何の卵だかわからない。ニワトリのそれだとすれば異常なくらい大きいし、ダチョウのそれだとするならば病気を疑うしかないほど小さい。
表面をよく見てみる。人工物ではない証拠に、まだらな薄茶の斑点が浮かんでいた。わたしは文系ではないから、どう表現すればいいかわからないけれど、生命が形になろうとしてあがいた軌跡のような、いとおしさを感じる。
そう、この卵はたぶん生きている。もちろん表面は殻だし、何も付いていないんだけど、手にする前、道に無防備に転がっていたときから、ずっと見つめられていた気がしている。
* * *
「なんだ、今井。まだそんなもん大事そうに眺めてンのか?」
本田部長は高そうなシャツをずらして首を掻いた。バイトもしていないのに、いつも質のいい服を着ている。人がごった返す大学の廊下でも一発で見つけられるほど、彼は目立つ。ちょっとしたアイドルのような存在なのだ。
「いやー、ひょっとしたらひょっこり孵化するかも知れないじゃないですか」
しねえよ。窓を開けて煙草を吸い始める部長。
「道に落っこちてた、得体の知れない卵だろ? いっそ割ってみれば? それか、化学室で判別してもらうとか、さ」
彼は答えを急ぐ傾向がある。
「そんなあ。わたしのワクワクを取らないでくださいよ」
「成人迎えて何がワクワクだよ」
揃って苦笑。この時間に二人しかいないということは、きっと他のサークルメンバーは帰ってしまった。
まあ、それはそれで好都合。一気に距離を縮めるチャンスだ。
煙を吐いて部長が言った。
「ま、黒いノートじゃなくてよかったよな」
「ああ、この前映画やってたアレですか?」
「そ。イメージして名前書くと、そいつが死んじゃうやつ。原作は漫画なんだけどさ。ま、漫画の方が面白かったよ」
「へえ、そうなんですか。部長、持ってます?」
「集めたけど売っちまったよ」
ちぇ、貸してもらおうと思ったのに。
「そもそもさ、拾ったものに興味とか期待を持つってのが、そもそも間違いじゃねえ?」
窓の外に灰を捨てる。
「ええ、そうですかね?」
「そうだよ。楽しいことしたいなら映画とか本を観ればいいし、不確定要素の強い、しかも裏切られる確率の方がずっと高いことに時間を費やすのって、結構な無駄だと思うんだよね」
この発言には、“仏の今井”と呼ばれたわたしもムッとした。
「無駄なことなんてありませんよ。もしかしたら、この卵はわたしに拾われるのを待っていたかも知れないじゃないですか?」
「どんなメルヘンだよ・・・」
「でも、無いとは言い切れないはずです。そうやって、何でもあっさり見限ってると、楽しいこと見逃しちゃいますよ」
「はは、お呼びじゃねえや」
がらがら、と乱暴な音が鳴って、入り口が開いた。振り返ると、今時の格好をした女生徒が強くあごを引いてわたしたちの様子を伺っていた。
「あ、本田さん。ちょっといいですか?」
空気など一切読まずそう言う女子も女子なら、煙草をガラス皿に捨ててお呼びに答える部長も部長だと思った。確かに区切りはよかったかもしれないけれど、迷惑だし不快だった。
ぴしゃん、と閉じた扉が、まるで部長の拒絶の意思を代弁しているように思えて泣きそうになった。
卵は水槽の中にある。もちろん水なんか入れていない。何かの包装に使われていた薄い発砲スチロールみたいなやつをちぎって鳥の巣に見立ててその真ん中に鎮座させてある。
お願いは聞いてくれないかも知れないけど、愚痴ぐらいは聞いてくれるもの。無駄なんかじゃない。人付き合いが苦手だから、こういう何も言わない「安全なもの」に逃げてるわけじゃない。こういうものが好きなんだ。
言い聞かせながら、ガラス越しに願い事。
―いつか、先輩と一緒になれますように
気が付いたら目を閉じていた。本気になった人間の性だと思う。ばつを悪くしながら目を開く。やだ、鼻から出た息でガラスが曇ってしまっていた。これはかなり恥ずかしい。
袖口で拭いていると、再び入り口が開いた。部長かと思ってドキリとしたけれど、冴えないオッサンだった。
「ああ、よかった。今井くん、論文のことで少し話があるんだけど、今ちょっといいかな?」
「あ、はい。え、ここで、ですか?」
「ううん、ボクの研究室で。ちょっと長くなるから」
軽い返事をして立ち上がる。
一対一は得意ではないけれど、仕方ない。そう、部長は唯一、わたしが気兼ねなく話せる相手なんだ。だから、気が付いたら好きになっていた。もちろん、こんなこと誰にも言ってない。言う相手もいない。
でも、もしその気持ちが論文にありありと表現されていて、これからそこを突っ込まれたらどうしよう。
そんな妄想を頭を振って消しながら、わたしは教授の小さな背中に続いた。
* * *
女生徒の執拗な告白を断り、本田は部室に戻った。
どいつもこいつも外見で好みを決める。第一印象の9割が外見で決まるとは言え、それが全てじゃあない。それに気が付かない異性を、彼はとことん嫌っていた。
また、突き刺さる視線が増えた。
そう思うと、本田の心はしぼんだ。
同時に、脳裏に今井の顔が浮かぶ。何故だかわからない。顔も好みではないし、考え方も正反対だ。にも関わらず、彼はこのところ彼女のことを思い出す時間が増えていた。すっかり枯れてしまったサークル活動にいやいやながらも顔を出すのは、そこに今井がいるからだと、彼はこっそり気が付いていた。
ことん。
卵が鳴った。土台が崩れたのか、太った生徒が廊下を通ったのかはわからない。しかし、戻ってから彼が一瞥した位置から、明らかに動いていた。
―卵、ねえ
ふたを外して、親指と人差し指で摘み上げる。
なるほど、不思議な魅力があるかもしれない。中に何が入っているんだろう。気になる気持ちもわかるかも知れない。
いや、それこそが卵の魅力なのかも知れない。
そう思い当たった瞬間、親指がチリっと痛んだ。
何だ、と思い指を離そうとした。しかし離れない。
見た。
親指が殻の内側に食い込んでいた。
吸われているのだ。
本田は声にならない悲鳴を上げた。しかしその間も、渦に絵の具を流したように、本田は卵に飲み込まれていく。
痛みはもうない。その代わり、まるごとミキサーにかけられているような強い不快感が彼を支配していた。
「誰か!」
そう言おうと思ったときには、彼はすっかり消えていた。両親に買ってもらったシャツも、昔の恋人に買ってもらった腕時計も、何もかもなくなっていた。
卵は元いた位置に軟着陸。満足そうに軽くのけぞると
「あ゛っ」
控えめに、げっぷをした。
* * *
部室に戻るころには、太陽が傾いていた。机も壁も床も、全部オレンジに染まって、わたしの一番好きな姿に変わっていた。
論文は素直に褒められた。観点がよく、要点がよく書けている、と。他の教授に推薦するそうだ。好きなことでもないし、どちらかと言えばこなすつもりでやったことだけれど、認められるのは、やっぱり嬉しい。
部長はいない。煙草の匂いも薄い。きっと帰ってしまったんだ。それか、さっきの頭の軽そうな女と食事にでも行っちゃったんだろうな。
今日はプラスマイナスゼロ。
いや、少し赤字。
そうだ、と思い、卵を覗いた。わずかだけれど、体勢が変わっていることに気が付いた。
嘆くのは早い。わたしにはまだ、明日からもやることがある。意中の人を振り向かせたり、この卵の行く末を見届けたり。ほら、無駄なことなんかない。世の中は楽しいことだらけだ。
もしかしたらある中身を傷つけないように、そっと卵を手に取る。言葉にならない今日一日のいろいろな思いを込めて、わたしは卵に控えめのキスをした。




