#4:HOME
彼はこの店で「チャンプ」と呼ばれていた。実際に何かの大会で優勝したわけではなく、ただ、いつの間にか常連がそう呼ぶようになり、本人もそれを快く受理した。
ほんのりと暗い店内、背中合わせに並んだ白い筐体。入り口から見ていつも左側にチャンプは座っていた。反対側では、やはり常連の友人が、一喜一憂しながらテレビゲームを楽しんでいた。
友人の後ろに回る。見慣れたキャラクターたちが忙しなく画面内を駆け巡っていた。画面の上部、体力ゲージに目を運ぶと、チャンプが大きくリードしていた。これも見慣れた光景だ。
やがて友人が敗北。苦笑いをしながら席を立ち、ぼくに促す。ぼくは会釈をしてから腰を降ろし、ポケットに忍ばせておいた百円玉を投入してスタートボタンを押した。レバーを操作し、キャラクターを選ぶ。対戦スタート。シンプルながらに奥の深いゲームで、熟練度が増せば戦力の差は歴然なものとしてプレイヤー間に立ちはだかる。ぼくは今日もそれをまざまざと見せ付けられながら、チャンプに秒殺されてしまった。
苦笑いして席を立つ。すぐに友人が座った。ぼくはチャンプに挨拶をしに反対側へ回った。
友人がキャラクターを選んでいる間に、チャンプはシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火をつけていた。
「こんばんは」
「おう、やっぱ小田だったか」
他の筐体から出てくる効果音に消されそうな、それでいて圧倒的な存在感を持った低い声。こういうのをカリスマ性と言うんだと、常連の誰かが言っていた。
「今の連携、初めて見ました」
対戦が始まった。
「ああ。だろうね。オレもこの間たまたま見つけちゃってさ」
相変わらず、圧倒的に優勢のまま試合を運んでいくチャンプ。
「ネットとかにも上がってませんよね?」
一旦防戦に回っても丁寧に切り返す。友人も決して下手ではないのだけれど、下手だと思わざるを得ないほど、チャンプの操作は精密で巧妙だ。
「いいゲームってのは、いつまで経っても研究の余地があるんだよ。それが好きなゲームなら尚更だよな」
チャンプの勝ち。
「最初の頃に比べると、彼も強くなったよ。油断できないもんな。ま、ガチでやって負ける気はしないけど、オレも頑張らないとな、って気にはなるよな」
「これ以上頑張られたら、ぼくなんか追いつけなくなっちゃいますよ」
チャンプは笑って二セット目に臨んだ。ぼくは空いている椅子に座り、試合の様子を見守った。
やがて他の常連の人たちがやってきた。作業着、スーツ、学生服に私服。普段の生活はバラバラだけど、一日のうちこの時間だけはこのお店で時間を共にする。ひとつのゲームに対して、そして、いつも環の中心にいるチャンプに会いに。
ぼくはこの時間が、本当に大好きだった。
* * *
それは吉報と思われた。
一ヶ月後に、隣町の大きなゲームセンターで、例のタイトルの大規模な大会が行われることになった。県内はもちろん、都会からわざわざ足を運ぶプレイヤーもいそうな、ビッグタイトル。
未だ無名のチャンプが、一躍有名になるチャンス。ぼくらのチャンプが、業界のチャンプになる日が、とうとうやってきたんだ。
店先のポスターで日時を記憶してから店内へ。いつもの席にチャンプはいた。咥え煙草で黙々と対戦を繰り返している。反対側には、常連と呼べる殆どの人が集まっていた。皆で大会に向けての調整をしながら、チャンプのテクニックから何かを学び取ろうとしている。
ぼくはまずチャンプのほうへ向かった。挨拶をしたけれど、珍しく返ってこなかった。チャンプは真顔で対戦を続けていた。でもその表情がどうにも気になった。好きなことに夢中になっている、というよりは、淡々と仕事を終わらせている、という感じで、とてもじゃないけれどチャンプらしくなかった。
「ちょっと、ちょっと」
立ち尽くしていたぼくを常連の一人が呼んだ。ぼくはチャンプの邪魔にならないように注意しながら、常連に駆け寄った。
「今は何言っても駄目だよ。チャンプ、マジになっちゃってるから」
うれしかった。
「あ、やっぱり大会に向けて、ですか?」
常連の人は眉をせばめて首を振った。
「出ないんだってさ」
「え?」
信じられなかった。
「なんでですか? チャンプの腕なら、優勝だって狙えるでしょう?」
「俺たちだってそう言ったさ。○○勢の代表として頑張ってください、俺たち応援しますから、って。そしたらさ、チャンプ、人ごみが苦手だって言うんだ」
「そんなの、初めて聞きました」
「皆そうなんだよ。だから、今対戦してる奴が聞いたんだ。本当ですか、嘘でしょ、本当の理由を教えてください、って。そしたらチャンプの奴、オレに勝てたら教えてやる、って言ったんだ。だから今、皆でなんとかチャンプを倒そうとしてるんだけどさ、チャンプ、メインのキャラクターで大マジなんだよ」
それではどれだけ頑張っても勝てるわけがない。チャンプの上手さはそれほどのものだった。それは常連もチャンプも重々承知しているはずだ。だから普段、チャンプはメインのキャラクターも使わないし、連続技だって威力の低い見栄えのいいものを使う。その方が、みんな楽しめるからだ。しかし今は、確かに、使い古された最大ダメージの見込める連続技を繰り返している。
「皆、もう半ば諦めててさ。もう百円ずつ使ったら諦めて帰ろうって話してたところなんだ」
ぼくの肩の力がすっと消えた。ポケットに準備していた百円玉でコーラを買って、常連の人の隙間から遠巻きに画面を見ていた。
やがて決着が付き、そこから、ぽつりぽつりと店を後にしだした。
最後の一人が挑み、負け、退店してから、ぼくはチャンプの様子を見に、反対側へ回った。
手元の灰皿は吸殻が山盛りになっていた。
チャンプがぼくに気付いた。筐体を指差し、「やる?」と表情で尋ねた。ぼくは首を何度も振って断った。
チャンプは苦笑すると、まだコンピュータ戦が残っているのに席を立ち、ぼくの隣をすり抜けて自動ドアの向こうに消えた。
ぼくは少し躊躇ってから、急いでチャンプの後を追った。
* * *
チャンプは入り口前の薄汚れた自販機に寄りかかってコーヒーを飲んでいた。春特有のぬるまったい風に吹かれて、咥えている煙草の先端が赤く光っていた。吐かれた煙はすぐに霧散するけれど、チャンプはぼんやりとそれを懸命に目で追っていた。
話し掛けていいものか、そもそも近付いていいかどうかもわからず、ぼくは店の外に突っ立っていた。自動ドアが開いて、誰か出てくるのかと思ったけれど、どうやらぼくの立ち位置が悪かったようだった。慌てて場所を移す。あのポスターの前だった。
「大会、ねえ」
チャンプは独り言を話し始めた。
「どうでもいいんだよな、正直。誰より上手いとか、そういうの。興味がないんだよ。オレはあのゲームが好きだからやってる。学生の頃からずっと続けてる。だから、そこらへんのプレイヤーよりは上手くなった。敵がいない実感だってある」
でも、それはいいことなのか。チャンプは立ち上がって、煙草を踏み潰した。
「チャンプじゃねえよ、まったく。そうやって自分よりうまいやつを皆で祭り上げて、目標にする。そうしてるやつらはモチベが上がるだろうけど、オレは下がりっぱなしだっつの。根が負けず嫌いだからさ、プレッシャー掛かるんだよ」
ぼくは、とっくに炭酸のなくなったコーラで唇を湿らせた。
「そう、負けられねえんだよ。ここの常連とも、何回かメシ食いに行ったけど、やっぱり、なんだ、居心地がいいっつーか、楽しいんだよな、やっぱり。でもさ、ゲームで知り合った間柄だろ? もしオレが大会に出て、負けたら、なんか、見損なわれそうじゃん。そしたら、もうこの店にも来れなくなっちまうだろうからな。それはさ、やっぱり嫌じゃん?」
コーラの缶がへこんだ。
「そんなことないと思います」
チャンプは煙草を吸い始めた。
「皆、チャンプを尊敬してるし、大好きだと思うから。もし明日、あのゲームがなくなっても、きっと皆来ると思うし、チャンプに会いたいって思うはずです」
だから大会に出てください。
その言葉が、でも喉元で踏みとどまった。
ぼくは気付いた。チャンプは、本当は寂しかったんじゃないかな。絶対的な存在としてじゃなく、ひとりの遊び仲間として、常連の皆と話したかったんじゃないかな。常連になりたかったんじゃないかな。
チャンプは笑った。
「バァカ。何真に受けてンだよ?」
「え・・・」
「冗談だよ、冗ー談。本当はさ、出張が入ってるから行けないんだよ。でもさ、正直に言うと、あいつら“仕事より大会ですよ!”とか馬鹿なこと言いそうだろ? その手間を省かせてもらったんだよ。ホント、そんだけだから」
嘘だ。
「いつからですか?」
「明日から」
「どこに行くんですか?」
「そんなの、言わなくてもいいだろ」
チャンプはわざとらしく時計を見ると、行くか、と、小さくて強い独り言を言って帰り始めた。
追おうと思ったとき、チャンプは振り向いて、お得意の苦笑いを見せてくれた。そのせいで、おやすみなさいを言うタイミングを逃してしまった。
遠のいて小さくなっていく背中を、夜に飲まれてぼやけていく背中を、何も言えずに見送った。しばらく動けなかったけれど、閉店の時間になり、店の照明が落ちると、ぼくの足は自然と我が家へ向かっていた。
次の日から、チャンプは店に来なくなってしまった。
* * *
大会は予定通り行われた。ネットの掲示板でもしばしば話題に上がる、有名なプレイヤーが無難に優勝した。
まだこのゲームを遊んだことのない人々の間では好評だったけれど、既にやり込んでいるプレイヤーには眉をひそめてしまう内容だったらしい。観戦に行った常連の話では、強いキャラクターばかりで、強い連携ばかり。蹂躙していく爽快感こそあったかもしれないけれど、面白みが全くなかったそうだ。その爽快感だって、もう何年もこの世界にいる人間は誰もが飽きてしまっているものだった。
当時、常連のやるせなさは爆発寸前まで高まった。もしチャンプが出場していれば、別の結果が見えていたことは明らかだったから。
何で来なかったんだろう。誰か知らないか。
「仕事で出張だそうです」
ぼくが意図的に口を滑らせた。チャンプのフォローになれば、と思って言った。
でも、それが事を余計にややこしくした。
常連の見解は
「仕事なら仕方ない」とフォローする人と
「びびって逃げ出した」と非難する人に分かれてしまった。その間で、またチャンプ批判が始まった。でも、双方とも、一番下にある気持ちは一致していて、それは
「なんで一言言ってくれなかったんだ」
という苛立ちに他ならなかった。しかし本人が不在なので、その不満は、誰も言いたくも聞きたくもないチャンプの悪口に発展してしまった。
以来、常連を見ることも少なくなった。集まり具合がまばらになってしまった。聞いた話では、他の店に流れてしまったり、また、このゲームで遊ぶことを止めてしまった人までいるそうだ。
悲しかった。たかがゲームで、と笑う人もいるかも知れない。でもぼくは、本当に、この店とあの時間が大好きだったんだ。
今日も未練がましく入店する。やっぱり、いつもの筐体には誰も座っていない。
右側に進んで百円を入れる。最近自信が付いてきたキャラクターでコンピュータ相手に練習開始。最初のうちは相手も弱いので、連続技の練習をする。
一人、二人と倒して三人目。そろそろ連続技が決まりにくくなってきたあたりで、背後に人の気配を感じた。誰だろう、と思い横目で見ると、懐かしい顔の人が咥え煙草でモニターを見ていた。
「さっきのとこは、違うな。もうワンセット繰り返してから叩き付けた方が、見栄えいいぞ」
まったく変わっていない、しばらく会っていないのに、その人は以前と何一つ変わらない様子でそう言った。
「お、お久しぶりです・・・」
名前を呼ぼうとして、呼べなかった。
気が付いてしまった。この人はもうチャンプではない。ただの、昔の常連なんだ。
でも、じゃあ何と呼べばいいんだろう。ぼくはこの時やっと、この人の苗字さえ知らないことに気が付いた。
「他の連中は? 駅前に移っちゃった?」
「ええ、ほとんど。あ、でも時々顔を出してくれますよ」
「ふうん」彼はコーヒーのプルタブを引いた。「小田は行かないのか?」
「ぼくは、やっぱりこの店がホーム・グラウンドですから」
彼は子供みたいに笑った。
「オレと一緒じゃん」
つられて笑うと、筐体から小気味良い効果音が聞こえた。何も操作していなかったから、ぼくのキャラクターがワンセット取られてしまっていた。もうワンセット取られたら、ゲームオーバーになってしまう。
「ったく、しょうがねえなあ」
言うと、チャンプは筐体の反対側へ向かった。面倒臭そうに頭を掻く仕草が、とてもわざとらしかった。
ぼくは必死に笑いを堪えていた。
また、彼と遊べる。
もう、チャンプだからと言って気合負けしたりしない。それに、ぼくだって腕を上げた。思い上がりだけれど、今なら勝てそうな気さえ、する。でも、結果なんかどうでもよかった。全力で遊べれば、それでよかった。
やがて、反対側の筐体に硬貨が入る音がした。ぼくはレバーとボタンに手を沿え、格上のチャレンジャーを今か今かと待ちわびた。




