#16:猫は見ている
小さい頃から動物が好きだった。ふさふさした毛、ころころしたフォルム、くりんと可愛い眼。どれもたまらないじゃないか。
特に猫が好きだった。これはぼくの感想だけれど、連中は人間に似ている。子猫は何もかもを射抜いてしまうような真っ直ぐな表情をしているし、大人の猫は全てを見透かしたような深い目をしている。言葉が通じないぶん、理解もできないから、ぼくはまるで怖がるみたいに彼らのあごしたを指先で転がす。すると、目を細めて隠してしまってから、彼らはぼくの手に頭を乗せるんだ。
営業周りの途中、たまたま通りかかったビル街の裏路地で、1匹の猫を見つけた。正確には、この段階ではまだ見つけてはいなかった。路地の暗がりで、ホタルみたいに薄く光る一対の円を見かけただけ。
ぼくは腰を落として、ゆっくり忍び足で近付いた。見下ろされること、それを猫が嫌がると、ぼくは知っていた。
やっぱり猫だった。ひどく汚れた、黒猫。あまり大きくないし、何より線が細い。こんなオフィス街では、餌の調達にも苦労するのだろう。抱き上げてみると、中身が空っぽみたいに軽かった。
頭を撫でてやると、ぼくの手を舐めてきた。のどを触ってやると、手のひらに甘えてきた。さすがに人は怖がらない。それどころか、こいつからは、なんだか媚びているような雰囲気さえする。
ぼくはしばらく、両手を一瞬も止めないで猫をかわいがった。頭、のど、背中。手の油で毛がつややかになるまで、ぼくは手を休めなかった。
そうすることで時間を潰していた。
営業という仕事は厳しい。人と話すのは苦手ではないけれど、見下されるのは嫌いだ。人見知りもするから業務も苦手。もちろん、この職種の楽しみややりがいは知っている。でも、もう長いこと味わっていないから、ぼくの中でどんどん価値が薄れていっている。
ぼくがこうして時間を潰している間にも、ライバルたちは新しい紙に新しい判子を押してもらっているに違いない。悔しくないわけではないけれど、見返してやろう、とは思えていない。
やがて日が落ちてきた。もうとっくに会社は終わっている。じゃあ、名残惜しいけどお開きにしよう。
猫から手を離した。彼はすっと立ち上がるぼくをじっと見つめている。
また来るよ。膝で手のひらの毛を叩いて、小さく呟いた。
「なあ」
猫は高い声で鳴いた。ぼくはその声に後ろ髪を引っ張られながら、二駅向こうの会社を目指した。
*
もう誰も残っていない、暗いオフィス。机の上には見覚えのない書類が山を二つも作っていた。一番上の一枚を眺めてみると、どうやら過去の資料のようだった。それも五年も六年も前のものだ。
トイレから戻ってきた課長が気の無いお疲れ様を言った。
「悪いんだけどさ、それ、今晩中にまとめておいてくれない? 明日の会議で急に必要になっちゃったんだけど、他のみんなは忙しいらしくて、他に頼める人がいないんだよ」
体こそいいものの、つまりはぼくが暇そうで仕事をしていないってこと。もちろん、反論の余地はない。
ぼくが返事をし、作業を始めると、部長はそそくさと退社してしまった。帰りたくて仕方なかったのだろう。待たせてしまって申し訳ないし、それとはまた別のベクトルで嫌な気分になった。
1時間も作業を進めたころだろうか。隣で人の気配がした。同期の小林だ。
「お疲れ様」
「おう、お疲れ」
「今まで外回り?」
「それと、接待な」
「キャリア組は大変だね」
「仕事のうちさ。ま、疲れるけどな。
……なんだ? そりゃ。残業にしちゃあ色がないな?」
「明日の会議で必要なんだって」
「ふうん」
小林はぼくの肩に手を置いて、頬を歪ませた。
「お前、今日はサボってたろ?」
つまらなそうに答える。
「なんで?」
「猫の匂いがするぜ」
彼もまた、無類の猫好きだった。
「ちょっと触ってただけだよ」
「へえ、そうかい」
この様子では、彼は見透かしている。ぼくが午後いっぱい、猫を触っていたことを。
「ま、ほどほどにしておけよ」小林は席を立った。「おまえ、人事課で話題になってるぜ」
「リストラ?」
「簡単に言うねえ」
「準備も覚悟もないけど、予感はしてるから」
「へえ、そうかい」
小林はぼくの肩を叩いた。
「ま、気をつけてな」
「うん、お疲れさま」
彼はわざとらしく鼻歌を歌いながら帰っていった。
時間にすれば数分というこの場面を経験しただけで、ぼくの気力はあっさり空っぽになってしまった。そういえば約束をしていた彼女から電話がきても上の空で返してしまったし、泣きながら切り出された別れ話も快諾してしまった。商談もこんなふうにスムーズだったら楽なのに。単純作業を繰り返しながら、ぼくは悲しむように目頭を押さえた。
結局、残業は終電ギリギリまでかかった。
翌日の会議で、その資料が使われることはなかった。
*
ネクタイをしめて会社に出向き、資料や商品なんか何も持たずに外回りに出て、猫の待つ路地で時間を潰す。それがすっかり日課になってしまってから、あっという間に1週間が過ぎた。まばらだった飲み会の誘いはまったく無くなり、周りの誰もがぼくと関わることを避け始めた。
黒猫はいつもいてくれた。ぼくが手を伸ばすと近付いてくれたし、素直に甘えてくれた。ポケットに突っ込んでおいたビスケットを差し出せば、美味しそうにむさぼりついた。
頭を撫でながらつぶやく。
「いいなあ、お前は」
その途端、猫は
すっと首を伸ばし、体の向きを変えて
軽やかに、重い色の塀を登って、ぼくを見下ろした。
「なあ」
見下ろして、鳴く。
強く、とても強く見下ろされ、
いや、
見下されたような気がして、ぼくはそそくさとその場を離れた。
*
週の初め、会社に行ったら、ぼくの机がなくなっていた。
予測できたことだ。仕方のないことだ。何回自分に言い聞かせても、結構こたえた。
どこに行こうか。これからどうしようか。そんなことを考えていただけなのに、気が付いたらあの路地に来ていた。どうやら、ぼくは本当にこの場所が気に入ってしまったらしい。猫と触れ合えるからなのか、あの猫に会えるからなのかはわからない。
でも、黒猫はいなかった。ゴミ箱の裏、忘れられた看板の陰、ぼくを見下ろしていた塀の上。とうとう猫にまで愛想を尽かされたみたいだ。
哀れで情けない自分を笑い、大人しく帰ろうとした
その視界に
あの黒猫が映った。
二車線の大通りの向こう、太陽の下で、薄汚れた大きなものを咥えている。
あごを離す。
白猫、の、遺体だった。
息を呑むと、同時に吐き気がこみ上げた。
黒猫の視線がぼくを貫く。
「なあ」
遠くの信号が赤から青に変わり、遠くの町からやってきたトラックや派手な色の乗用車が色の塊になって目の前をかき混ぜる。
「なあ」
エンジンの音。
「なあ」
タイヤがアスファルトを削る音。
「なあ」
遠くの街頭テレビの呟き。
「なあ」
それに隠れるようにして
いや、それらを掻き消すように
「なあ」
あの黒猫がぼくを呼んでいる。
呼んでいる。それは間違いない。でも遊歩道も地下道もないし、歩道橋はビルの向こうにしかない。ここの信号はなかなか変わらないことで有名だ。かと言って、ぼやぼやしていたら彼は帰ってしまうかも知れない。いや、ここで彼のもとへ行かなければ、もしそのタイミングを逃してしまったら、もう彼には二度と会えない。そんな予感がする。
なら、
「ああ、」
そうか。
このまま真っ直ぐ行けばいいんだ。
猛スピードで先を急ぐ車は、ぼくの行為を許しはしないだろう。文字通り、黙殺するに違いない。でも、それが何だって言うんだ。もう誰も、そう、彼以外は、ぼくを呼んでくれる人なんか、いやしない。
覚悟を決めても、一歩目が踏み出せなかった。仕事も恋人も、友すらなくなってしまったぼくなのに、最後の勇気すら、なくなってしまっていた。
痛いのが怖かった。
死んでしまうのが怖かった。
でもやっぱり、彼に見限られてしまうのが嫌だった。
腹を括った。
行こう。最後になってしまってもいいから、もう一度、彼を撫でたい。
ちょうど、信号が赤に染まった。今なら、なんとか行ける。
黒猫は目を細めて
「チッ」
向こうの路地の影に溶けた。
*
突然携帯が鳴った。律儀なことに、自分をクビにした会社の番号を、ぼくはていねいに取っておいていた。あれから何ヶ月経ったかわからないけれど、ぼくはやっと紹介してもらった派遣先で、来月から社員として扱われることが約束されていた。絶好と言えばそれらしく、今更と言えなくもないタイミングだ。
出る。部長からだった。
「小林が交通事故で亡くなった」
「そうですか」
連絡も取っていなかったし、どちらかと言えば苦手なタイプだったから、それほど驚きはしなかった。ただ、深く、同情した。順風満帆だった社会人生活に、こんな形で幕を降ろすことは、彼はもちろん、彼に携わる人も全て、不本意だったことだろう。
葬儀の予定をメモに殴り書いてから、ぼくはビスケットをポケットに仕舞ってアパートを出た。
あの日からも、黒猫はぼくを出迎えてくれていた。ただ、愛想が悪くなった。えさがないとわかると、さっさとどこかに帰ってしまったし、えさを平らげるとそっぽを向いて眠ってしまった。それでもぼくは、一日の終わりに彼に会いに行くことを楽しみにしていた。頭や背中を撫で、迷惑そうに見つめられても、懲りずに毎日彼に会いに行った。
今日は先客がいた。黒猫の他に、やはり薄汚れた白い猫がいた。そいつはまるで、そうしていないと死んでしまうかのように、捨てられた段ボールで爪を研いでいた。
お仲間かい? 塀の上で行儀良く座っている彼に言う。
黒猫は鳴かない。やっぱり、嫌われてしまったみたいだ。
ぼくはビスケットを取り出し、手のひらに乗せ、白猫に差し出した。
白猫はぼくを見ると
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
指にかじりつき、一口分の皮と肉を毟り取って、一拍も置かずに、黒猫の、もっと向こうに跳んで行ってしまった。
指から血をぼたぼたと垂らし、軽い眩暈を覚えたころ、黒猫は静かに立ち上がった。
彼は目を細め、笑うように鼻を鳴らすと、塀の向こうに消えた。
けれど白猫を追ったわけではない。