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#15:不治の病

 すっかり日が長くなった。窓の向こうの太陽はまだ傾いてもいないのに、腕時計は五時半を示している。うだるような、とまでは行かなくても、昼間のふぞろいな雨の名残もあり、粘り気のある暑さが図書室に満ちている。

 千草はぼくの原稿をテーブルにそっと置くと、腕を組んで考え始めた。なんと言えば効果的か。どんな言葉が適切か。

 もちろん、ぼくの心中は穏やかではないけれど、千草のこの仕草はなかなか好きだった。こっそり見とれていたら、首を汗が伝った。シャツのボタンをいくつか外す。

「4ページ目」

 千草は左目を守っている医療用の眼帯をコリコリ掻きながら講評を始めた。

「悩みながらコマ割りしたでしょ?」

「ああ、うん」

「ちょっと読みにくいかな。スピードを抑えて読ませる場面だってのはわかるんだけど、だからこそもっとていねいに表現してみてもいいかもね」

 的外れとはいかなくても、意に反すること、またはぼくの考えを射抜き損ねた言葉が飛んできたらディスカッション開始。

「でもそこは、主人公がヒロインを思い浮かべて迷うシーンだよ。確かにいくらか荒いように見えるかもしれないけれど、スムーズに読み流されるよりはいいと思う」

「前後のリズムが軽快なのに、わざわざここで崩す必要ある?」

「読みにくいって言うのはさ、意味がわからないってこと?」

「読むのに時間がかかるってこと。視線が行ったり来たりはしないけどこの順番でいいのか慎重になっちゃう」

「なら狙い通りかな」

 千草は量の腕をテーブルに伸ばした。

「じゃあ、5ページ目を調節したほうがいいかも」

「標準的なコマのサイズと構図だったと思うけど」

「だからだよ。4ページのペースのまま5ページに行くと、5ページの見栄えが減る。もう少しのんびりしたほうが、作品に流れができていいと思う」

 それはそうかもしれないと思った。メモ帳に殴り書く。

 あとは、と千草が口を開いたところで、えんじ色のシャツを着た図書室の先生がやってきて退室命令を出した。

 命令と言ってもきつい言葉はなく、時間ですよ、とやわらかく言われるだけ。なにせ、ぼくと千草はこの学校で唯一の図書室の常連。生徒と先生だからではなく、顔見知りだからこそ通う気持ちもある。



 千草がプルタブを引くと、コーラが泡となってじわじわと噴き出てきた。彼女は慌ててそれをすする。ぼくは小さく笑いながらコーヒーを飲んだ。

 遠くでは、野球部が大きな声を出している。校舎の向こう側がグラウンドだ。なんでも、明日の試合に勝てば甲子園出場らしい。相手はもちろん県下屈指の強豪だし、うちが決勝に駒を進めるのは初めてのことだそうだ。ルールも理解していないし、どちらかと言えばサッカーのほうが好きだけれど、ぜひとも頑張ってほしいと思う。

「8ページ目なんだけど」

「うん」

「あの展開は好きだな。表現技法も好みだったよ」

 千草がまっすぐぼくの作品を褒めることは珍しい。気分が高まり彼女のほうを向くと、右目がぼくをまっすぐ見ていた。

「ありがとう」

「うん」

 でもね、と言う。

「そのあとがグダグダしてたかな。黒い髪の男の子がいたでしょ? あの子のキャラがちょっと弱い」

「まあ、そこまで重要ではないよね」

「でも必要だよね」

「うん」

「構成上どうしても出なくちゃならなくて、挙動に意味があるキャラなのに、アレじゃ駄目だよね」

 ストレートな言葉で言われるときは本当に駄目だということだ。

「無理にキャラを持たせるほどではないと思うんだ」

「でも空気じゃもったいないよ。厚みがあって立体的なほうが、あの作品には合うと思う」

 例えば、あの漫画がアニメ化されたら、あの子供の声優はエンドロールの最後に意味ありげに浮かんでくることだろう。そういう位置に“彼”はいる。一度読んだだけで、極力隠していたそこを見抜いてしまうなんて。やはり彼女に見せなくては意味が無い。

 議論はもう少し白熱するかと思ったけど、風紀委員の顧問に見つかって学校を追い出された。日は傾き、上着を羽織ろうか迷うような、暗い世界になりつつあった。



 どこにでも半端者がいることは、うすうす誰もが感じていることだと思う。クラス、部活、バイト先、はたまた家族。そこでは本気ではない人間が必ずいる。でもそれは仕方のないことで、何故ならその人物にはそこが本領ではないからなんだと、ぼくは千草に会って気が付いた。

 漫画研究部なんてものはなかった。そう名乗っているところはあったけれど、ふたを開けてみれば漫画好きが自分の好みの作品を祭り上げて、そこに互いに拍手を送るような、鬱陶しいところだった。もちろん、本気で漫画を創っている人間なんかいなかった。

 置物のように静かに、エアコンのようにこっそりと作業することにも慣れ始めた一年前の六月、千草が入部してきた。アイドルのような顔立ちと絵に描いたようにきれいな髪は、女子が圧倒的に多かった部内でも必要以上に目立っていた。

 千草もまた、本気で漫画を愛する人だった。ただし、自らがペンを握ることはなかった。彼女は、編集者志望だった。絵が描けず、ストーリーが思い浮かばない。それでも漫画に関わりたかった彼女は、編集者としての技術と知識をむさぼり続けていた。

 ぼくは千草に原稿を見せた。とても緊張した。同い年くらいの女子と話すこと自体、必要がなければやってこなかった。それでも、ありったけの勇気をふりしぼってまで、ぼくは彼女に声をかけ、下書き段階の原稿を手渡した。

 純粋に興味があった。自ら編集者を名乗る、およそ業界には不釣合いそうな彼女は、どんな言葉をくれるのか。

 隣のテーブルでは相変わらず黄色い声を上げながら漫画を読んでいる連中がいたけれど、それら雑音を見事に貫通して、千草の言葉はぼくの胸に飛び込んだ。その日も、今日とまるで違わず、手元の設計書を見ているかのような口調でぼくの作品を講評した。

 彼女の言葉を聞いた途端、鼓動が大きくなり、まるで世界が広がったような錯覚を感じた。千草の酷評を受けても、ぼくの体と頭は一向に静まる様子がなかった。

 確信した。彼女と話せば、ぼくはもっと前に進める。

 その日から、放課後の図書室はどんどん静かになっていった。窓際のテーブルに原稿を広げ、チャイムさえ耳に入らないほど熱を入れて議論するぼくと千草。本気は半端を砕く。気まずくなったのか、それともぼくらが邪魔だったのか、他の部員はある日を境に、誰一人姿を見せることがなくなった。

 進級し、部員が正式に二人になり、部費が小遣いよりも少なくなっても、特に用事がある日を除いて、ぼくらは毎日顔を合わせては図書室の先生に急かされるまで意見をぶつけ合った。心地よく、やや大風呂敷に言えば、生きていることを実感できる、かけがえのない時間だった。



 人通りの少ない、住宅街の十字路。真っすぐ行ったところにはぼくの家が、左に曲がって少し行ったところには千草の家がある。

 やや疲れている街灯の下で、ぼくはふと足を止めた。

 不完全燃焼だったのだ。今日はどの議論も尻切れトンボで終わってしまった。数十分の帰路も、ぽつりぽつりと作品の話が出るだけ。それは考えながら、思い返しながら話しているからなのだけれど、やはり物足りなかった。最近、こういう日が多い。

「ねえ」

 呼びかけると、千草も足を止めて振り向いた。

「左目、まだ治らないの? 結構前から痛めてるみたいだけど」

 ああ、と彼女は微笑んだ。彼女はぼくの足元を見ていた。

「伊達なんだ」

「伊達眼帯? 聞いたことないな」

「これも、編集者としての技術なんだけど」

「そうなの?」

「そうなの。だって」

「なにさ?」

「達也、私が両目で顔を見ると、視線逸らすんだもん」

 彼女は顔を上げた。ぼくは意識して目を胸元に落とし、余計に駄目だと気付いて、かばんのひもを握る細くて白い指を見ることにした。

 初めて言われた。そんなつもりはなかったから、少しだけ胸焼けを覚えた。

「不便じゃないの?」

「大丈夫だよ。部活と、今以外は外してるから」

 それはそれで解せなかった。

 なんでぼくは目を逸らすんだろう、と考えてみた。すぐに答えは出た。彼女はとても美人で、ぼくは取り立てて誇れる見た目でもないからだ。無意識に引け目を感じていたのだ。

 いや、なんで引け目を感じなくてはいけないのだろう。ぼくは漫画を描いて、彼女はそれに対して意見を言うだけだ。技術と知識と感性がモノを言う間柄だ。外見なんかで遠慮はしていられない。他にもっと大切なことがあるからだ。

「気を遣わせてたんだ。ごめん。明日から、してこなくても大丈夫だから」

 彼女は強めに首を振った。

「別に意地を張る場面じゃないだろう」

 ぼくの言葉も少しとがった。

「やだよ、信用できない」

 こういう議論は長い付き合いでも初めてだ。感性と気持ちしか、頼れない。なんとも心もとない。でも負けちゃいけない。

「あのさ……」

「信頼している人間に、目を逸らされるってことがどれだけ辛いか、達也にわかる?」

 ぼくは彼女に目を逸らされたことがないのでわからなかった。

「私ね、達也と漫画の話をしている時間が大好き。もちろん、達也の漫画も好きだよ。だから、そういう時間が台無しになっちゃうのが、本当に嫌なんだ。だから、これからもずっと、私の左目は悪いままだよ」

 景色がアスファルトだけになっていた。

 許せないシーンやページを絶対に許さない彼女が、そこまではっきり言うのだ。本当に「本当に嫌」だったんだろう。

 そこまで嫌なら、表情にも出ていたはず。

 じゃあ、ぼくはなんで、それに気が付かなかったのだろう。

 図書室の景色を一年分振り返る。

 原稿と、眼帯と、細くて白い指しか出てこなかった。

 なんてことだ。

 顔を上げた。

 ぼくが口を開くより早く、それを拒絶するように、千草は顔の前で手を振っていた。

「じゃ、また明日、部活でね」

 言うと、彼女は曲がり角に消えた。ぼくは鉛のようなめまいと吐き気で、彼女を呼び止めることができなかった。

 こみ上げるものをなんとか抑え、踏み出し、夜に飲まれていく彼女を見つめた。

 彼女は眼帯を外して、ポケットにしまってから、何度か目をこすっていた。



 夕食を半分以上残し、自分の部屋に入り、机に向かって、突っ伏した。

 明日も、今日と同じ部活ができるだろうか。それだけが気がかりだった。もしかしたら、千草はもう来てくれないかもしれない。そうなってしまったら、ぼくはもう部活にも出る気にもなれないし、ペンを握る気力さえ、なくなってしまう。

 とっくにわかっていた。ぼくは、もうずいぶん前から、彼女に見せるために漫画を描いていたんだ。こうに描いたら彼女はなんと言ってくるだろう。このページはきっと気に入ってもらえるだろう。そんな想像をしながら描いたこともあった。つまり、彼女から満点をもらいたいんだ。

 もちろん、漫画家のプロになる志はなんら変わっていない。むしろ、千草と話すたびに強くなる一方だった。でも、同じように強くなっていくもうひとつの想いが、確かにあった。

 かばんから原稿を取り出す。4ページ、5ページと読むと、確かに読み手として準備が必要だった。8ページは会心の出来だった。少年が際立てば、いいアクセントになりそうだった。

 直そう。ぼくにできることは、それしかない。

 一度筆を加えてしまった原稿を修正しても、まったく無視することはできない。消しゴムで消しても筆跡が残る。ホワイトで塗りつぶしてしまうこともできるけれど、それでは「ここを間違えました」と言っているようで、あまりにもカッコ悪い。

 ならばいっそ、まっさらなところから書き直すべきだ。前よりもよくなるし、読みやすくなる。そのページだけぽっかり浮いてしまうこともあるけれど、それが気に入らないならまた全部書き直せばいい。

 今のぼくに、完璧なんかない。だったら間違えながらでも、少しでも前に進むしか、ない。



 遠いところで雷が鳴っている。昨日とはうってかわって、滝のような夕立を予感させる曇天だった。

 入念に原稿を見直し、指摘されそうな箇所の見積もりと、言われそうなことに対する反論を考えていると、図書室の扉が開いた。

 千草の左目は治っていた。

「あ……」

 彼女は苦笑。

「寝不足でさ。いろいろ考えてたら、忘れちゃった」

「そう、なんだ」

「今日は寒いね」

「うん。面倒がらず、ブレザーを持ってくればよかった」

 彼女が定位置に腰を降ろした。腕を組み、背もたれに寄りかかっているけれど、薄く笑っている。ぼくは彼女の左目に泣きホクロがあることを初めて知った。

 そして、強かった。皮肉でなく、絵に描いたような、まっすぐな目をしていた。

 ぼくは千草の目を見つめて、原稿を差し出した。

「昨日言われたところを直してきた」

 彼女は目を丸くした。

「一晩で?」

「うん」

「ちゃんと寝られたの?」

「空が白くなるまで悩んでたけど、現国と世界史の時間によく寝たから、大丈夫だよ」

「そっか」

 呟いて、千草は原稿に目を落とした。手を加えていないページを飛ばして、四枚目。

「ホワイト使わなかったんだ」

「こだわりって言うか、ポリシーなんだ」

 うなずきながら読み進める。ぼくは彼女の視線を追っていた。

 最後のページを読み終えた。千草はふうん、と言うと、ぼくに笑顔を見せた。

「うん、この方がずっといい。細かいことがいくつか目に付くけど、これはこれとして完成したね」

 大きく息を吐いた。

「ありがとう」

「うん。お疲れ様でした。読ませてくれてありがとう」

 その一言が嬉しくて、ぼくは手元に目を落とした。

「……」

「……?」

「……」

「……あっ」

 大急ぎで顔を上げる。

 彼女は相変わらず笑顔だったけれど、眉が大きく下がっていた。

「ご、ごめん……」

 いいんだよ、と千草は言う。右手がポケットから這い出てきていた。ひもの付いた、白い四角が握られている。

「これは私のホワイトだから」

 こうして、彼女の左目は隠れてしまった。

 今ならわかる。彼女の顔に、白いそれはあまりにも似合わない。

 ぼくは苦笑いをうかべながら、机の下で爪がめりこむほど拳を握っていた。抑えが効かず、皮膚が裂けたのがわかる。

 この傷はやがて治る。でも彼女の左目は、ぼくにしか、なおせない。

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