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13/17

#13:relief

 早く起きる必要などないのに、自然と目が覚めた。実を言えば、空のすみっこが緑に褪せるまで眠れなかった。

 子供のころから慣れた、突然復活するこの習慣。時計なんか確認しなくても時刻はちゃんとわかってる。6時だろ? 正解、と時計が鳴った。

 少しだけ力を入れて起き上がる。何かの決意か、それとも得体の知れない覚悟の表れか。まるで何かから逃げるように。

―参ったな

 おれは頭を何回か掻いてから、白いジャージに着替えてロードワークにくり出した。


 父は野球バカだった。小学生のころから少年野球のチームに入り、六年生には控えの投手としてチームを支えていた。中学、高校と歴史は続き、夏の甲子園の地区予選の準々決勝まで残ったんだ、と酒が入るたびに自慢していた。

 温厚な人だった。大切なものをおれが間違って壊してしまっても、苦笑いして頭を撫でてくれた。やんちゃさがたたって機嫌を悪くするようなことをしても、数時間後にはけろりとして普段どおり接してくれた。だから、おれが野球をやりたい、と言うまで、おれに野球を強要することはなかった。

 野球をやりたい。そういえば、動機は不純だった。親父にはひとつだけ譲れないライフスタイルがあった。ひいきのチームの野球中継だけは絶対にテレビで見て、隣の家まで届くような大声で声援を送る。おれが野球をやってみたかった、勉強してみたかった理由は、そうすれば、その退屈な時間が少しは楽しくなるかもしれない、という、浅はかでつまらない理由だった。

 親父は、直接おれに言うことはしばらくなかったけど、相当嬉しかったみたいだ。うちがそれほど裕福でないことも知っていたから「安ものでいいよ」と言ったのに、初めが肝心なんだ、と言ってかなり高価なグローブを買ってくれた。数年ぶりに買った自分のグローブは、その何分の一かの安ものだったくせに。

 地元のダサい名前のチームに入り、新しい友達もでき、なんとか守備練習に加われるようになった頃から、休日の過ごし方のベーシックが河川敷でのキャッチボールになった。

「違う、肩はこう使うんだ」

「足をもっと前に、まっすぐ出してみろ」

 人が変わった、は少し言いすぎだけれど、親父のあんな表情が見れるのはその時だけだった。バットも使わない、強い球の飛んでこない練習は退屈だったけれど、親父の意外な一面を見れるその瞬間が、きっとおれはそれなりに楽しみだったんだと思う。


 住宅街の舗装された道を通り過ぎる。そろそろ体が汗のかき方を思い出してきた。これから坂を下る。


 やがてピッチャーになれたものの、これと言ってパッとしないまま少年野球は終わり、中学でも流れで野球部に入部したまではよかったものの、そこが完全な年功序列制だったことにより、おれのモチベーションは見事に地に落ちた。

 自分よりずっと下手な人間の球拾い。大人になった今だって、そんなもの楽しめるわけがない。

 比例するように、親父とのキャッチボールも減っていった。隔週だったものが月一になり、なくなった。

良継よしつぐっ」

 と言い、部屋の外でグローブを握って笑って見せる親父。それがうっとおしくて、怒鳴り散らした。

 感情性豊かな母親が大声を上げて割り込んできても、親父は絶対に声を荒げなかった。ただ静かに、台詞じゃないかと疑ってしまう言葉を言うだけだった。

「焦るな、良継。先輩たちだって、やっと守備練習をしているんだ。お前も、その姿をしっかり見ておきなさい。それが必ず、お前のためになるんだよ」

 最後までその台詞を聞いたのは、最初の一度しかない。それ以降は途中で、悪い日は何も言わせず

「うるせえ」

 と蹴散らしていたんだから。


 この坂はこんなに急だったっけ。いや、ペース配分がおかしくなっているんだ。スピードがどんどん上がっていく。


 先輩が怖くて、だと思っていたけれど、おれが律儀にも毎日欠かさず練習に出ていたのは野球が好きだからなんだと気が付いたのは、中学野球の引退試合で負けた日だった。

 受験というシーズンオフになってから、おれはやっと親父との休日を復活させた。久しぶりに受け取った親父の球は弱く、おれの球を受けた親父は痛そうに手を振りながら苦笑いをしていた。

 野球での推薦が取れなかったので、必死に勉強して名門校に入学、ブレザーに袖を通すより前に野球部を見学、入部した。今度こそ、腐らずちゃんとやるんだと覚悟していったのに、ザコなりにしてきた努力が報われて、二学期の期末試験が終わったころには控えの投手として肩を温めるようになった。そのことを親父に報告したら

「さすがはオレの息子だ」

 と鼻を鳴らしていた。

 初めて投げた試合が12対0という結果に終わり、3回登板8失点だったことを親父に不機嫌に伝えると

「さすがはオレの息子だ」

 と苦笑いしていた。

 三度目の春、甲子園地区予選初日前日。

 親父のひいきのチームの初戦。おれは初めて親父の晩酌に付き合った。ビール党の親父が、わざわざ甘ったるいカクテルをぶら下げて帰ってきたときからなんとなくそんな気はしていた。何より、ずいぶんとにやついていた。

「どうだ」

「何が?」

「野球。楽しいか?」

「ああ、仲間もいるし、一生懸命にやるのは楽しいよ」

「そうか」

 母お手製のサラダをつまむ。

「ピッチャーはどうだ?」

「どうだって言われても・・・」酒とは呼べないほどのアルコールをちびりと舐めた。「もう、ここが自然だからなあ」

「そうか」

 グラスに半分残っていたビールをあおり、おかわりを注ぎ始めた。

「なあ、良継」

「ん?」

「先発、中継ぎ、抑え。どれがいい?」

「いや、どれでもやるし」

「監督に選べ、って言われたら、どれを選ぶ?」

 ううん、としばらく考えた。

「先発は、完全試合とかの可能性もあるし、ゲームを作る重要な位置だから、プレッシャーは大きいけど楽しいよ。抑えも、反撃を許さない、って感じで、カッコいいよな。うん、選べ、って言われたら、そのどっちかかな」

「そうか」

 ビールは、グラス一杯にいくらか足りなかった。それを機に、親父のひいきのチームは負け始め、会話もそこで途絶えた。

 結局言い出せなかったのだ。今日言おうと、もう何ヶ月も前から決めていたのに、その話題にすることすらできなかったのだ。

 高校で野球を辞めます、と。

 春は初戦で敗退。地元の新聞に有力視されていた夏の大会も二回戦敗退。春は投げなかったけれど夏は中継ぎで登板、4回無失点だったにも関わらず結果を残せなかった。悔いは残った。しかしこれは背負っていかなければならないものだと、おれの野球人生の結果なのだと、強がって前向きに受け取った。


 河川敷の風はそれなりに冷えていて、気持ちよかった。

 まだ走れそうだったけれど、いつもどおり、ここで折り返すことにした。


 大学の合格通知が届いた日、すっかり当たり前になった親父との晩酌の席での話。

 試合中継が終わると、親父がそっとテレビを消した。でも席は立たない。

「大学では、野球はやらないのか」

「ああ」

「そうか」

 なら言いたいことがある。そう、親父は言った。お前が野球をやると言った日から、このタイミングで言っておこう、と思い続けていたことがある、と。

「オレは子供のころから、ずっとリリーフだったんだ」

「あ・・・」

「いや、別に怒ってるわけじゃあ、ない。先発だって抑えだって、お前の言うとおりの位置だと思うし、正直、なんでオレがリリーフなんだって思ったことだって、ある」

 でも、オレは今、リリーフが大好きだ。出番が少なく、目立たず、イメージの悪いリリーフが大好きだ。そう言う親父の表情は、今まで一度だって見たことの無いものだった。

「リリーフに必要性は無い。先発が相手を抑え、その間に点を取り、最後に絶対に打たれない抑えがしっかりと仕事をしてくれるなら、リリーフなんかいらない。そうだろう?」頷いた。

「でも、なんでリリーフが登板するか。リリーフが必要だからだ。先発が崩れ、このままではどうしても流れが悪くなる。そんなときにお呼びがかかるんだ。もちろん人それぞれだが、リリーフには持久力のない者が多い。もちろん抑えほどではないが・・・その、アレだ、やっぱりちょっと、見劣りするヤツが入るところなんだな」

 いつもの苦笑い。

 そしてまたあの顔。

「リリーフは大変だ。先発が崩したゲームを建て直しながら、場合によっては抑えに引き継がなきゃならない。でもそれは、とてもありがたくもあるんだよ。

 わかんないか。受け継いで、引き継ぐことができるんだ」

 ちょっと恥ずかしいことを言うぞ。親父は身を乗り出した。

「オレはオレのことを、お前のリリーフだと思ってる」

 身震いがした。

「と言っても、オレは野球しかやってこなかった男だ。オレはお前に野球しか、野球で教わったことしか、引き継げなかった。本当に情けない父親で、申し訳ないと思ってる」

 うつむいて、何度も首を振った。

「これからお前は大学に行く。そこでお前が何を目指しているのかはわからない。でも、どんな状況になっても、ここでお前が抑えに、エースになることを信じて願っている人間が“二人”、いつでもいることを忘れないでくれ。体に気をつけて、頑張りなさい」

 泣きながら、「はい」と言うのが精一杯だった。


 帰ると妻が起きていた。

「早起きね」

「たまにはね」

「走ってきたの?」

「久しぶりに」

「せっかく洗濯物を片付けようと思ったのに、今日は雨かな」

「いい天気だったよ」

 日曜の朝らしく、少しグレードの低い朝食を、目をこすりながらせっせと作っていた。

 まな板と包丁がぶつかる音を聞きながら浴室へ進む。熱めのお湯を思いっきりかぶったら、やはり無理がたたったのか、夕べのサラダとアルコールを戻してしまった。

 全部をやたらと念入りに洗い、上がり、着替え、寝室へ。

 ごちゃごちゃしたおもちゃに囲まれて、息子が健やかな寝息を立てていた。

 頬を撫でる。使い古したミットのように柔らかい。

 リリーフとは、こんなに大変な仕事だっただろうか。

―やっぱり先発はすごいな

 しかし、親父もまたリリーフだったのだ。

 では、おれみたいなヤツは、この子に何を引き継げるのだろうか。

 息子が目を覚ました。急いで笑顔を作り、朝のあいさつをした。

 隣の部屋で、ご飯だよ、と妻が呼んでいる。

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