#11:駅
いまだに腕時計がデジタルなのは、きっと私くらいなのだろう。最近では新入社員も、聞き覚えのあるメーカーの腕時計を巻いているし、課長補佐ともなれば装飾品ひとつにも気を配るのが当然だ。しかし私はデジタル時計を愛用している。何故か。簡単なことだ。見間違えがないからだ。
仕事柄、昼夜逆転の生活になることもあるし、お日様を拝めない事だってめずらしくない。そんな状況でも、正確な時間がわからなくては、登りつめることなどできはしない。お洒落に気を遣っている暇など、企業戦士にはないのだ。それをわかっていない連中が多すぎる。
実際、歯痒い思いをしている。どいつもこいつも、文屋としての自覚が足りない。肌荒れを、抜け毛を、体調を気にして、いいものが書けると思っているのだ。もちろん、体調不良やローテンションでいいものが書けるとは思えない。しかしベストコンディションを維持していたままでは、辿り着けない境地があることを知らないのだ。
それを教えるのも年長者と先輩の務めかも知れない。でも私は優しくない。こうして始発に乗り込み、仕事に勤しむ姿を見せ付けることによって、学び取ってもらう他、ない。
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思わず首が動きそうになるのを抑える。こんなことなら、一番お気に入りのミュージックリストなんか準備してこなければよかった。でも、もう遅い。家までは二十分かかるし、なによりもうすぐ電車が来る。
例え満員電車に乗っても隣にひとつの音も漏れないような音量にしてある。よくいるだろ? シャカシャカうるさい音を立てて、自分の世界に浸っているアホが。オレはあんな連中と一緒に見られるのはごめんだ。たしかに、今のオレは赤いシャツに黒いレザーズボン、ごてごてしたベルトのバックルとシルバーアクセサリー、髪の色も金髪だし、不必要なピアスを顔中にぶらさげている。でもこれはオシャレではない。カモフラージュなんだ。
秘密はこの、ギターケースにある。この格好でこの持ち物だ。どこぞの大学生がライブに行くようにしか見えない。でも、実は違う。このケースの中には、とある巨大国家の最先端の技術を駆使した、殺人銃がしまってある。サツジンジュウ、なんて大げさな、と思うだろう。でも事実なんだ。壁でも障害物でも、動物を撃つために作られたわけでもない。今オレが背中に背負っているこれは、正真正銘、人間を殺すためだけにつくられたものなんだそうだ。
そう。オレは運び屋。郊外の辺鄙な駅から出る始発に乗り、港まで送り届けるのがオレの仕事だ。だから辺りに気にされないような格好をしている。あの、すみっこにいる、さっきから独り言をぶつぶつ並べている危なそうなサラリーマンのように、目立ってはいけない。
この格好の素晴らしいところは、長いものを持っていてもごまかせることと、誰も積極的に目を合わせようとしないことだ。
・・・絶対に、とはいえない。先ほどから、母親に手を持たれている男の子がオレのことを凝視している。まあ、あんな子供を気にする必要はないんだけど、緊張をなくしてしまったら、そのままオレの命までなくなってしまうから。
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あの、背の高い男は、ここに立ってからずっと、チラチラとぼくのことを見ている。気になるのだろう。気にしなくてはいけないことがあるから。どう見ても不審者だ。無事に目的地に辿り着けることを、願って止まない。
ぼくはまだ五歳だけれど、世界的な水準で計ったとしても賢い、という自負がある。誰も信じてくれないけれど、ぼくは生まれたその日には話すこともできたし、様々な言葉を知っていた。色の名前、母の着ている服、今自分がいる部屋、そして地域。
テレビに出会ってからはもっと様々な知識を得た。日本語なら広辞苑並みの知識があるし、英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語も、大学生用の辞書の代わりなら造作もない。
何故、こうなって生まれてきたのかまではわからない。いや、それこそが、ぼくが抱える最大の疑問と言ってしまって差し支えない。それを解明する為に、ぼくの知識と広大な記憶野があるのだとしたら、例え悪魔に魂を売り渡してでも、ぼくは真実を究明しようとするだろう。
それにしても、子供とはつまらない。誰からも見下されてこれからの数年間を無駄にするのかと思うと寒気が走る。さっさと大人になってしまいたい。そう、もし機材さえあれば、コールドスリープの装置も、タイムマシーンだって作れてしまうと思う。
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さっきから、この子は何を考えて、足元のコンクリートを見つめているのだろう。
本当にこの子はわからない。まだお乳を飲んでいる頃から「ママ」と言ってくれたし、お隣さんとは比べ物にならない早さで歩き始めた。もう絵本をすすんで読まないし、字幕のない外国のコメディー映画を観て笑う。
この子の育て方は、どの育児書にも書いてなかった。アレコレ考えて、私なりに、夫なりにこの子を幸せにしてあげようとした。でも私たちにはできなかった。この子はきっと、生まれたその日から、私たちのことを馬鹿にして生きてきたに違いない。
そこまで考えて、やっとわかった。この子は、生まれるおなかを間違えてしまったんだ、と。私たちの子供では、ないのだと。
だから昨晩決めた。夫と話して、決めた。ちゃんと別れてくれた。
まだ三十になったばかりだけれど、それなりに楽しい人生だった。最後の最後に、尋常ではないサプライズもあったことだし。うん、上出来だった。
まだ春先だから、海はいくらか寒いだろう。でも不思議と、恐いとか、不安だとか、そういう気持ちは全く無かった。
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あのサラリーマンは、そうだなあ、リストラ必死の窓際族。後輩にぐんぐん追い抜かれちゃって、あとが無くて、焦ってるから、ヒゲも剃ってないし、あんなに切羽詰った表情をしているんだろうな。
あのバンドマンみたいなのは、どうなんだろう、もしかしたら、これから遠くの町でライブがあるのか、それともこれからギター一本で食っていくつもりなのか。オーディション? ないない。そんな腕前のはずがない。顔に覇気がないもの。
この親子はどうかな。子供はずいぶんつまらなそうだけど、お母さんはとても複雑そうな表情をしている。幸せそうな、悲しそうな表情。何かを思いつめている、のかも知れない。で、そんなお母さんの事なんか気にも留めないで、男の子はあちこちを見回しているの。好奇心からじゃなくて、まるで暇つぶしをしているみたい。
その人の外見をみるだけで中身なんかわからない。だから想像する。電車やバスで新聞や本を見ている人が信じられない。こんなにいろんな人がいる場所で、なんでそんな時間の潰し方をしてしまうんだろう。まるで、自分だけは違うんだ、一人にしてください、って大声で言っているようなものじゃないか。
朝のホームは新鮮で退屈だから、いろいろなことを考えてしまう。あたしは、この人たちに、どういう目で見られているのだろう。そんなことを気にしても何もかわらないのはわかっている。でも気になってしまう。聞いてみたい。もしそれが、自分の心のど真ん中を射抜くような文句だったらそのまま恋に落ちてもいいし、とても心外な、悲しくなってしまうような言葉だったら、そのまま死んでしまうのもいいかもしれない。
いや、それもいいかな。さっきアナウンスが流れた。もうすぐ電車がやってくる。それに飛び込んじゃうっていうのも、ありかもしれない。そしたら、車掌さんが気の利いたアナウンスを入れるの。駆け込み乗車はおやめください。電車が来る前に飛び乗るのもおやめください。
いいんだけどさ。どうせ、あたしにそんな度胸なんかないし。それに、すさんだ家出娘なんか、誰も気にしてくれないだろうからさ。
「はーぁ」
溜息をつくと、四人の視線があたしに釘付けになった。
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やがて電車がホームに滑り込んできた。行き先は東京。
眠そうなアナウンスが走ると、誰とも言わず白線に並び立つ。
それぞれの思惑をその身に静かに潜めたまま、誰も彼も電車の訪れを心待ちにしていた。




