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10/17

#10:五月の狼

 更衣室は薄い汗の匂いがした。私以外誰もいないから照明は付けない。もう一年もここで着替えている。手探りでだって、どこが何かくらい判る。例えば、これがアイツの使っているロッカーに違いない、ってことくらい。

 小西は私より半年も遅れてアルバイトを始めたのに、奥さん方に評判の笑顔と、センスのある冗談のおかげで一躍人気者になっていた。正直、私も嫌いじゃない。

 ただ、気に入らない。上っ面だけで渡っていけるほど、世の中は甘くない。それを知ってか知らずか、どちらにせよ、誰かが教えてやる必要がある。

「今日はちょっと、欲しいものがあるんで、財布に五万ほど入ってるんですよ」

 出勤前の、小西と店長の会話から抜粋。

 化けの皮を剥いでやる。ていねいに付けられた仮面を無理矢理外してやる。

 十九年生きてきて、悪いことをした自覚なんか一つもない私だから、ロッカーを開けるときにはもう心臓が暴走していた。それでも、手際よくやらないと誰かが来てしまうかもしれない。

 黒いトートバッグの上に、無造作に置かれた長財布。

 手に取ってみると、ずっしりと重かった。紙幣のせいじゃない。目の大きな女の子がプリントされた、気持ち悪いカードがぎっしり詰まっているせいだ。でも、それだけだろうか。よくわからない。

 ぱかりと開いて、茶色い紙幣を三枚抜く。全部じゃあ酷すぎる。ひとつじゃ気が付かないかも知れない。そう、私はすっかりゾクゾクしていた。


* * *


 店長のお疲れ様でした、に続いて、私と小西が同時に礼をする。間がいいのか悪いのか、二人とも18時で退勤だった。

 それぞれの性別の更衣室に入り、出てくる。そこはもう事務所で休憩所だ。社風で、このまま流れで帰ってしまうバイトは少ない。サビが見え始めたパイプ椅子に座って、タバコを吸ったり雑談をしてから帰る。

 没収した紙幣はカバンの一番下にしまった化粧ポーチの中のファンデーションのふたの裏に隠した。私は自他共に認める貧乏フリーターだから、あんな大金を財布に入れておくわけにはいかない。

「小西、小西ぃ」

「はい?」

 同い年なのに、彼は私にずっと敬語を使い続けている。先輩だから、じゃなくて、彼のライフスタイルなのだろうか。

「今日、オカネモチなんでしょ? ジュース、おごってよ」

 彼はにっこりと微笑んだ。ええ、いいですよ。

 紅茶を注文して、連絡ノートを見るフリをして口元を隠した。軽くなったことを自覚して、薄くなった紙幣の束を見たら、彼はどんな顔をするんだろう。敵を作らない笑顔の仮面、その下の表情を、私は今か今かと心待ちにしていた。

「っと、小銭がないや」

 おあつらえだ。

 小西は紙幣のゾーンを覗き込んだ。

―気付いたろう

 彼はすっと千円札を出して自販機に飲ませ、私の紅茶を買ってから自分の分のお茶を買った。両手にひとつずつ持ってテーブルに戻ってくる。

「どうぞ」

 いつもの笑みだ。

「お・・・。あ、ありがと」

 動揺してしまっては台無しだ。私はすっと受け取り、紅茶の香りを少し楽しんでから、異常に乾いた喉に流し込んだ。

―マジですか・・・

 想像して欲しい。五万入っている財布に二万しかない。千円札を取り出す動作をしたとき、このことに気が付かない人間がいるだろうか。

 いや、いないとは言い切れない。もっともこれは可能性の話だけれど、実家がとても裕福で、お金の意味と価値を知らない、とか。でもそれは、今朝の店長との会話と相反する。では、本当に間が抜けている、というのはどうだろうか。自分のものがなくなったことに気が付かない人間は、実は結構いる。

 ならば、自覚させてやろうじゃないか。もう、徹底的に盗みきってやろうじゃないか。

「ねえ」

「はい」

「このあと、暇?」

「ええ、まあ」

「ご飯食べに行かない?」

「いいですよ。実は、僕もそう思ってました」


* * *


 三皿目のミノに手を伸ばしてから、網に乗せるまで、ある違和感を感じていた。

 小西は、あの金で何か欲しいものがあったはずだ。それを買いに行く、と言っていたはずだ。なのに何故か、私とこうして焼肉を食べている。それも、いい食べっぷりだ。遠慮なし、よりも手当たり次第、がしっくりくる。

 もしかしたら、を考えて、やめた。まだ何もわからないじゃないか。自分から進んで不安になる必要はない。

「田中さん」

 活気付いてきた店内でもはっきり聞こえる、彼の声。

「ん?」

「何か飲みますか?」

 まだオーダーする気かよ。フリーターのディナーのレベルじゃない。飲むけど。

「んじゃ、コーラお願い」

「カクテルとかでもいいですけど?」

「ん?」

 お酒は大好きだ。でも今日は酔えない。

「ううん、今日は止めとくわ」

「大丈夫ですよ、おごりますから」

 びくつきそうな体と心を必死に抑える。もちろん、表情をそのままにしておくことも忘れずに。

「悪いよ。割り勘にしよ」

 小西は笑って濁した。

 私は残りの水を流し込む。

 さて。動かなくてはならない。これでは何をしに来たのかわからない。

 でも、どうに動こうか。へたに金額のことを話しては、彼の胸に疑いが芽吹いてしまう。買いたいものに触れるのがベストだけれど、店長との会話を聞いていた、という事実がやはり危なっかしい。しかしそこに触れるのが一番手っ取り早い。

「小西ってさ、休みの日は何をしてるの?」

 彼は少し驚いた。

「知らないんでしたっけ?」

「何を?」

「僕、漫画家志望なんですよ」

「へえ」

 驚かない。きっと、イマドキの漫画家志望なのだろう。あの財布の中のカードのデザインが脳裏でスライドショーを始めていた。

「早番の人は皆さん知ってますよ。店長が喋っちゃったんで。なので執筆とか勉強とか、ネタ探しとか」

 を、できたらいいんですけど、と言い、カルビを口に運ぶ。

「結局、遊んじゃいますね。ゲームとか漫画ばっかり買っちゃいます。あとは、好きな声優さんのCDとか。本当に、お金のかかる趣味ですよ。今度出るDVDボックスなんか五万円もするんですよ」

 来た。

 これだ。

「へえ、そうなんだ。そういう風には全然見えないね」

 自然と満面の笑みが出る。

 なるほど、なるほど。おおよその察しのとおり、あの大金は趣味のための大事な資金だったのだ。それがバイト先でなくなった。彼は慌てふためくだろう。誰彼構わず疑うだろう。食って掛かるかも知れない。そんな彼を是非見てみたい。早く明日にならないかな。

 しかし期せずして、この食事会は第二幕を迎える。

「でも、また今度にしようと思うんです」

 彼の台詞も、にっこりとした表情も、全て想定外のものだった。

「なんで?」

「田中さんとご飯が食べられましたから」

 胸がえずいた。

「何、ソレ・・・」

「ずっと思っていたんです。いつか、一緒に食事に行けたら、楽しいだろうなあ、って」

 さて、どういうことか。

 いや、今のは何だ?

 え、まさか、告白?

―落ち着け

 うろたえては駄目だ。ぼろが出る。平常心、平常心。

 しかし、彼も間が悪い。何もこんなタイミングで言ってこなくてもいいのに。ちょうど、前の彼氏と別れて二ヶ月。いい感じに、人肌恋しくなってきているところだ。

 顔だけなら、小西はタイプだ。でも、私には中身がわからない。それも込みで査定している。

―落ち着け

 待って。

 おかしい。

 私は彼に優しくしたことなんかないし、そもそも仕事を一緒にしたことも少ない。プライベートで一緒になったのもコレが初めてだし、そもそも下の名前すら知らない。

 なのに、告白?

 いや、そうじゃないとしても、違和感のある一言だ。一目惚れなんて私は信じてない。

 もしかしたら、彼は全部見透かしているんじゃないのかな。金を盗まれたことも、犯人が私だということも。全部知った上で、彼は私を泳がせて、楽しんでいるんじゃないのかな。

 だとしたら最悪だ。とんだお笑い種だ。恥ずかしくて生きて行けない。いや、もう死にたい。

―だが

 でも、まだそうだと決まったわけじゃない。彼が本当に私のことを好いてくれているのかも知れない。

 悪人だとばれないように、善人でいなくてはならない。

 これが、いわゆる業というものだ。

「田中さんは、将来どうなりたい、とかあるんですか?」

「あるよ」

 即答して、体を机に乗り出した。

「美容師になりたいんだ。夜間だけど、専門学校も行ってるよ。この前初めて生きた髪の毛を切ったんだ。モデルの人も大満足してくれてたんだよ」

「へえ、すごいですね」

 馬ァ鹿、ハサミなんか百円均一のしか持ったことがない。

「じゃあ、いずれは自分のお店を?」

「もう土地も買ってあるんだよ、実は。親に頼んで手入れしてもらってるんだ。高校のときの後輩がガテン系の仕事のお偉いさんやってるから、資金が溜まったらソイツに頼んで店を建ててもらう。デザインも決まってるんだよ。今度見せてあげるね」

 親はさっさと離婚してしまったし、もう何年も母の顔を見ていない。

「ありがとうございます。そしたら、そこを舞台に漫画を描きますよ」

 二人して、笑う。彼は楽しいのかも知れないけど、私は馬鹿らしくて笑った。

「僕も実は、まったく宛てがないわけじゃないんですよ」

 網の上で真っ黒になった野菜を空いた皿にどけながら、彼は話を続けた。

「先日、某出版社の編集さんに送ったネームがとても好評で、もしかしたら近々デビューしちゃうかも知れません。まあ、いきなり週刊っていうのは大変だと思いますけど、ずっと追いかけてた夢ですから、叶えたいですね」

「へえ。有名どころ?」

「絶対読んだことあるでしょうし、本の置いてあるお店なら間違いなく売っていますよ」

「本のタイトルは?」

「それは秘密です。言ったら、チェックしちゃうでしょう? それはちょっと、味気ないじゃないですか」

 本当に? を飲み込む。

 十中八九、嘘に違いない。そんな大ニュースなら、きっと他のバイトさんにも話している。となれば、あの噂好きの主婦チームが黙っているはずがない。必然、私の耳にも一度は入っていなくてはいけない情報なのだ。

 これで断言できる。彼も嘘をついている。でも、それに気が付いてしまってはいけない。彼も私の嘘に気が付いているだろうから。先に本音を言ったほうが負けなのだ。

 少し間が開いた。こちらの出方を伺っているのだろうか。と思い、ちらりと見ると、視線がぶつかった。また笑う。静電気が飛びそうな緊張がテーブルを占領している。

 肌がちりちりする。なんという、心地よい感覚だろう。こんなに真面目に生きたこと、いままでなかった。

 田中さん。

 小西がテーブルに肘をついて、私の顔をじっと見た。その表情からは、あのいけ好かない笑みが失われていた。

「僕は、初めて田中さんに会った日から、ずっとあなたのことが好きでした。

 綺麗な髪」色の抜き過ぎで痛みが酷い。

「大きな目」本気で整形を考えたことがあるほどのコンプレックス。

「魅力的な声」今日は仕事で張ったので枯れている。

「服装のセンス」黒いスウェットだ。

「香水も本当に似合っていて」付けてない。

「素敵だなあ、と思っていました。よろしかったら、是非、僕と」

 つばを飲んだ。

「ケッコンヲゼンテイニツキアッテクダサイ」

 感心した。どれほど苦労して、そこまでの科白を吐いたのだろう。

 もしかしたら、これは、本当に好きなのか?

 いやいや、油断してはいけない。相手は私の人生最強の大嘘つきだ。

 私は彼の手を両手で握って、できるだけ優しく微笑んだ。

「アリガトウ。ワタシモアイシテイルワ」


* * *


 肌が熱くなっていた。初夏の窓際にずっと座っていたのだから、仕方がない。それにしても、うたた寝なんていつぶりだろう。本当に気持ちよかった。懐かしい夢も見れたし、言うことがない。

「起きましたか」

 彼はシンプルな布団にくるまったまま、私に顔を向けていた。

 あのままだらだらと、嘘だらけで付き合った私たちは、やがて結婚して、私はありがちな主婦になった。

 結局、彼は漫画家なんか目指していなかった。やがて普通の会社の歯車として働いた。私も美容師になんかならなかった。でも、お互い何も言わない。そうやって私たちは生活してきて、おじいちゃんとおばあちゃんになってしまった。子供はいない。一度も抱いてくれなかったし、求めなかったから。

「全然。ずっと起きていたわよ」

「そうですか」

「あなたは、もう少し休んだほうがいいんじゃない?」

 かも、知れませんね。彼は寝返りの代わりに溜息をうった。

「実はね、僕は飛べるんですよ」

「空を?」

「空を。どこまでも」

「素敵ね」

「ええ、本当に」

 風がぬるい。

「ああ、寝すぎたかな」

「おなかすきましたね。何か出前でも取りましょうか?」

「いや、君が好きなものを好きなときに好きなだけ食べなさい。お小遣いは渡してあるでしょう」

「はい、わかりました」

 ふう、と、重い息。

 彼は嘘ばかり言うけれど、医者は嘘を言わない。彼の体を蝕む病は、もう止められないらしい。そして彼の体も、それに耐えられる状況では、とてもないそうだ。

 彼も私も、なんとなくわかっている。でも彼は笑って跳んで見せたし、私も笑って彼にお茶を出した。

 もしかしたら、彼は私の知らないどこかで、弱音を吐いたり、泣いていたのかも知れない。そう思った時期があった。今ではそんなこと、夢にも思わない。彼が嘘を言うたびに、裏にある本心を、数年前にやっと見つけることができたから。そうなれたから。

「実はね」

 声が細い。

―いよいよか

 私は彼の傍に寄り添い、くっと手を握った。

「僕は君にひとつだけ、本当のことを言ったことがあるんだよ」

 胸が詰まって、気が遠くなった。

 何で? 何でこんなときに、そんなことを言うの? 彼の間の悪さは、とうとう死ぬまで治らなかったのだ。

 私への、罪滅ぼしだろうか。もしくは、自分の業から逃げる為の告白? どっちもいらないのに。私はあなたと会えただけで充分なのに。それに―

「ええ、わかってますよ。当てましょうか?」

「やめてください。恥ずかしい」

「実はね、私もなんですよ。ひとつだけ、本当のことを・・・?」

 彼の体が、静かに痙攣を始めた。ごぼごぼと彼の喉から血が溢れ、純白のシーツをこれでもかと汚した。それにつれて、彼の顔から血の気が引いていき、土気色に染まりきろうとしたその時

「楽しかったよ。ありがとう」

 力が消えた。

 彼は、どれほど力を入れて生き抜いたのだろう。

 私に嘘をつき続けて、時には隠そうともごまかそうとも思えないへたなそれでも、間違いなく散りばめて。

 いつしか、それが二人の自然になったとき、あなたは教えてくれたんですよ。

 続けた嘘は真実になる、って。

 ああ。

 幸太。

 幸太。

 幸太。

 私はあなたに、何も本当のことを言ってあげられませんでしたね。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ああ。

「大好きですよ、あなた」

 手を握ると、そこに涙が零れた。

 強い風が吹いた。

 庭のいちょうの葉が、駆け抜けるように鳴いていた。

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