#10:五月の狼
更衣室は薄い汗の匂いがした。私以外誰もいないから照明は付けない。もう一年もここで着替えている。手探りでだって、どこが何かくらい判る。例えば、これがアイツの使っているロッカーに違いない、ってことくらい。
小西は私より半年も遅れてアルバイトを始めたのに、奥さん方に評判の笑顔と、センスのある冗談のおかげで一躍人気者になっていた。正直、私も嫌いじゃない。
ただ、気に入らない。上っ面だけで渡っていけるほど、世の中は甘くない。それを知ってか知らずか、どちらにせよ、誰かが教えてやる必要がある。
「今日はちょっと、欲しいものがあるんで、財布に五万ほど入ってるんですよ」
出勤前の、小西と店長の会話から抜粋。
化けの皮を剥いでやる。ていねいに付けられた仮面を無理矢理外してやる。
十九年生きてきて、悪いことをした自覚なんか一つもない私だから、ロッカーを開けるときにはもう心臓が暴走していた。それでも、手際よくやらないと誰かが来てしまうかもしれない。
黒いトートバッグの上に、無造作に置かれた長財布。
手に取ってみると、ずっしりと重かった。紙幣のせいじゃない。目の大きな女の子がプリントされた、気持ち悪いカードがぎっしり詰まっているせいだ。でも、それだけだろうか。よくわからない。
ぱかりと開いて、茶色い紙幣を三枚抜く。全部じゃあ酷すぎる。ひとつじゃ気が付かないかも知れない。そう、私はすっかりゾクゾクしていた。
* * *
店長のお疲れ様でした、に続いて、私と小西が同時に礼をする。間がいいのか悪いのか、二人とも18時で退勤だった。
それぞれの性別の更衣室に入り、出てくる。そこはもう事務所で休憩所だ。社風で、このまま流れで帰ってしまうバイトは少ない。サビが見え始めたパイプ椅子に座って、タバコを吸ったり雑談をしてから帰る。
没収した紙幣はカバンの一番下にしまった化粧ポーチの中のファンデーションのふたの裏に隠した。私は自他共に認める貧乏フリーターだから、あんな大金を財布に入れておくわけにはいかない。
「小西、小西ぃ」
「はい?」
同い年なのに、彼は私にずっと敬語を使い続けている。先輩だから、じゃなくて、彼のライフスタイルなのだろうか。
「今日、オカネモチなんでしょ? ジュース、おごってよ」
彼はにっこりと微笑んだ。ええ、いいですよ。
紅茶を注文して、連絡ノートを見るフリをして口元を隠した。軽くなったことを自覚して、薄くなった紙幣の束を見たら、彼はどんな顔をするんだろう。敵を作らない笑顔の仮面、その下の表情を、私は今か今かと心待ちにしていた。
「っと、小銭がないや」
おあつらえだ。
小西は紙幣のゾーンを覗き込んだ。
―気付いたろう
彼はすっと千円札を出して自販機に飲ませ、私の紅茶を買ってから自分の分のお茶を買った。両手にひとつずつ持ってテーブルに戻ってくる。
「どうぞ」
いつもの笑みだ。
「お・・・。あ、ありがと」
動揺してしまっては台無しだ。私はすっと受け取り、紅茶の香りを少し楽しんでから、異常に乾いた喉に流し込んだ。
―マジですか・・・
想像して欲しい。五万入っている財布に二万しかない。千円札を取り出す動作をしたとき、このことに気が付かない人間がいるだろうか。
いや、いないとは言い切れない。もっともこれは可能性の話だけれど、実家がとても裕福で、お金の意味と価値を知らない、とか。でもそれは、今朝の店長との会話と相反する。では、本当に間が抜けている、というのはどうだろうか。自分のものがなくなったことに気が付かない人間は、実は結構いる。
ならば、自覚させてやろうじゃないか。もう、徹底的に盗みきってやろうじゃないか。
「ねえ」
「はい」
「このあと、暇?」
「ええ、まあ」
「ご飯食べに行かない?」
「いいですよ。実は、僕もそう思ってました」
* * *
三皿目のミノに手を伸ばしてから、網に乗せるまで、ある違和感を感じていた。
小西は、あの金で何か欲しいものがあったはずだ。それを買いに行く、と言っていたはずだ。なのに何故か、私とこうして焼肉を食べている。それも、いい食べっぷりだ。遠慮なし、よりも手当たり次第、がしっくりくる。
もしかしたら、を考えて、やめた。まだ何もわからないじゃないか。自分から進んで不安になる必要はない。
「田中さん」
活気付いてきた店内でもはっきり聞こえる、彼の声。
「ん?」
「何か飲みますか?」
まだオーダーする気かよ。フリーターのディナーのレベルじゃない。飲むけど。
「んじゃ、コーラお願い」
「カクテルとかでもいいですけど?」
「ん?」
お酒は大好きだ。でも今日は酔えない。
「ううん、今日は止めとくわ」
「大丈夫ですよ、おごりますから」
びくつきそうな体と心を必死に抑える。もちろん、表情をそのままにしておくことも忘れずに。
「悪いよ。割り勘にしよ」
小西は笑って濁した。
私は残りの水を流し込む。
さて。動かなくてはならない。これでは何をしに来たのかわからない。
でも、どうに動こうか。へたに金額のことを話しては、彼の胸に疑いが芽吹いてしまう。買いたいものに触れるのがベストだけれど、店長との会話を聞いていた、という事実がやはり危なっかしい。しかしそこに触れるのが一番手っ取り早い。
「小西ってさ、休みの日は何をしてるの?」
彼は少し驚いた。
「知らないんでしたっけ?」
「何を?」
「僕、漫画家志望なんですよ」
「へえ」
驚かない。きっと、イマドキの漫画家志望なのだろう。あの財布の中のカードのデザインが脳裏でスライドショーを始めていた。
「早番の人は皆さん知ってますよ。店長が喋っちゃったんで。なので執筆とか勉強とか、ネタ探しとか」
を、できたらいいんですけど、と言い、カルビを口に運ぶ。
「結局、遊んじゃいますね。ゲームとか漫画ばっかり買っちゃいます。あとは、好きな声優さんのCDとか。本当に、お金のかかる趣味ですよ。今度出るDVDボックスなんか五万円もするんですよ」
来た。
これだ。
「へえ、そうなんだ。そういう風には全然見えないね」
自然と満面の笑みが出る。
なるほど、なるほど。おおよその察しのとおり、あの大金は趣味のための大事な資金だったのだ。それがバイト先でなくなった。彼は慌てふためくだろう。誰彼構わず疑うだろう。食って掛かるかも知れない。そんな彼を是非見てみたい。早く明日にならないかな。
しかし期せずして、この食事会は第二幕を迎える。
「でも、また今度にしようと思うんです」
彼の台詞も、にっこりとした表情も、全て想定外のものだった。
「なんで?」
「田中さんとご飯が食べられましたから」
胸がえずいた。
「何、ソレ・・・」
「ずっと思っていたんです。いつか、一緒に食事に行けたら、楽しいだろうなあ、って」
さて、どういうことか。
いや、今のは何だ?
え、まさか、告白?
―落ち着け
うろたえては駄目だ。ぼろが出る。平常心、平常心。
しかし、彼も間が悪い。何もこんなタイミングで言ってこなくてもいいのに。ちょうど、前の彼氏と別れて二ヶ月。いい感じに、人肌恋しくなってきているところだ。
顔だけなら、小西はタイプだ。でも、私には中身がわからない。それも込みで査定している。
―落ち着け
待って。
おかしい。
私は彼に優しくしたことなんかないし、そもそも仕事を一緒にしたことも少ない。プライベートで一緒になったのもコレが初めてだし、そもそも下の名前すら知らない。
なのに、告白?
いや、そうじゃないとしても、違和感のある一言だ。一目惚れなんて私は信じてない。
もしかしたら、彼は全部見透かしているんじゃないのかな。金を盗まれたことも、犯人が私だということも。全部知った上で、彼は私を泳がせて、楽しんでいるんじゃないのかな。
だとしたら最悪だ。とんだお笑い種だ。恥ずかしくて生きて行けない。いや、もう死にたい。
―だが
でも、まだそうだと決まったわけじゃない。彼が本当に私のことを好いてくれているのかも知れない。
悪人だとばれないように、善人でいなくてはならない。
これが、いわゆる業というものだ。
「田中さんは、将来どうなりたい、とかあるんですか?」
「あるよ」
即答して、体を机に乗り出した。
「美容師になりたいんだ。夜間だけど、専門学校も行ってるよ。この前初めて生きた髪の毛を切ったんだ。モデルの人も大満足してくれてたんだよ」
「へえ、すごいですね」
馬ァ鹿、ハサミなんか百円均一のしか持ったことがない。
「じゃあ、いずれは自分のお店を?」
「もう土地も買ってあるんだよ、実は。親に頼んで手入れしてもらってるんだ。高校のときの後輩がガテン系の仕事のお偉いさんやってるから、資金が溜まったらソイツに頼んで店を建ててもらう。デザインも決まってるんだよ。今度見せてあげるね」
親はさっさと離婚してしまったし、もう何年も母の顔を見ていない。
「ありがとうございます。そしたら、そこを舞台に漫画を描きますよ」
二人して、笑う。彼は楽しいのかも知れないけど、私は馬鹿らしくて笑った。
「僕も実は、まったく宛てがないわけじゃないんですよ」
網の上で真っ黒になった野菜を空いた皿にどけながら、彼は話を続けた。
「先日、某出版社の編集さんに送ったネームがとても好評で、もしかしたら近々デビューしちゃうかも知れません。まあ、いきなり週刊っていうのは大変だと思いますけど、ずっと追いかけてた夢ですから、叶えたいですね」
「へえ。有名どころ?」
「絶対読んだことあるでしょうし、本の置いてあるお店なら間違いなく売っていますよ」
「本のタイトルは?」
「それは秘密です。言ったら、チェックしちゃうでしょう? それはちょっと、味気ないじゃないですか」
本当に? を飲み込む。
十中八九、嘘に違いない。そんな大ニュースなら、きっと他のバイトさんにも話している。となれば、あの噂好きの主婦チームが黙っているはずがない。必然、私の耳にも一度は入っていなくてはいけない情報なのだ。
これで断言できる。彼も嘘をついている。でも、それに気が付いてしまってはいけない。彼も私の嘘に気が付いているだろうから。先に本音を言ったほうが負けなのだ。
少し間が開いた。こちらの出方を伺っているのだろうか。と思い、ちらりと見ると、視線がぶつかった。また笑う。静電気が飛びそうな緊張がテーブルを占領している。
肌がちりちりする。なんという、心地よい感覚だろう。こんなに真面目に生きたこと、いままでなかった。
田中さん。
小西がテーブルに肘をついて、私の顔をじっと見た。その表情からは、あのいけ好かない笑みが失われていた。
「僕は、初めて田中さんに会った日から、ずっとあなたのことが好きでした。
綺麗な髪」色の抜き過ぎで痛みが酷い。
「大きな目」本気で整形を考えたことがあるほどのコンプレックス。
「魅力的な声」今日は仕事で張ったので枯れている。
「服装のセンス」黒いスウェットだ。
「香水も本当に似合っていて」付けてない。
「素敵だなあ、と思っていました。よろしかったら、是非、僕と」
つばを飲んだ。
「ケッコンヲゼンテイニツキアッテクダサイ」
感心した。どれほど苦労して、そこまでの科白を吐いたのだろう。
もしかしたら、これは、本当に好きなのか?
いやいや、油断してはいけない。相手は私の人生最強の大嘘つきだ。
私は彼の手を両手で握って、できるだけ優しく微笑んだ。
「アリガトウ。ワタシモアイシテイルワ」
* * *
肌が熱くなっていた。初夏の窓際にずっと座っていたのだから、仕方がない。それにしても、うたた寝なんていつぶりだろう。本当に気持ちよかった。懐かしい夢も見れたし、言うことがない。
「起きましたか」
彼はシンプルな布団にくるまったまま、私に顔を向けていた。
あのままだらだらと、嘘だらけで付き合った私たちは、やがて結婚して、私はありがちな主婦になった。
結局、彼は漫画家なんか目指していなかった。やがて普通の会社の歯車として働いた。私も美容師になんかならなかった。でも、お互い何も言わない。そうやって私たちは生活してきて、おじいちゃんとおばあちゃんになってしまった。子供はいない。一度も抱いてくれなかったし、求めなかったから。
「全然。ずっと起きていたわよ」
「そうですか」
「あなたは、もう少し休んだほうがいいんじゃない?」
かも、知れませんね。彼は寝返りの代わりに溜息をうった。
「実はね、僕は飛べるんですよ」
「空を?」
「空を。どこまでも」
「素敵ね」
「ええ、本当に」
風がぬるい。
「ああ、寝すぎたかな」
「おなかすきましたね。何か出前でも取りましょうか?」
「いや、君が好きなものを好きなときに好きなだけ食べなさい。お小遣いは渡してあるでしょう」
「はい、わかりました」
ふう、と、重い息。
彼は嘘ばかり言うけれど、医者は嘘を言わない。彼の体を蝕む病は、もう止められないらしい。そして彼の体も、それに耐えられる状況では、とてもないそうだ。
彼も私も、なんとなくわかっている。でも彼は笑って跳んで見せたし、私も笑って彼にお茶を出した。
もしかしたら、彼は私の知らないどこかで、弱音を吐いたり、泣いていたのかも知れない。そう思った時期があった。今ではそんなこと、夢にも思わない。彼が嘘を言うたびに、裏にある本心を、数年前にやっと見つけることができたから。そうなれたから。
「実はね」
声が細い。
―いよいよか
私は彼の傍に寄り添い、くっと手を握った。
「僕は君にひとつだけ、本当のことを言ったことがあるんだよ」
胸が詰まって、気が遠くなった。
何で? 何でこんなときに、そんなことを言うの? 彼の間の悪さは、とうとう死ぬまで治らなかったのだ。
私への、罪滅ぼしだろうか。もしくは、自分の業から逃げる為の告白? どっちもいらないのに。私はあなたと会えただけで充分なのに。それに―
「ええ、わかってますよ。当てましょうか?」
「やめてください。恥ずかしい」
「実はね、私もなんですよ。ひとつだけ、本当のことを・・・?」
彼の体が、静かに痙攣を始めた。ごぼごぼと彼の喉から血が溢れ、純白のシーツをこれでもかと汚した。それにつれて、彼の顔から血の気が引いていき、土気色に染まりきろうとしたその時
「楽しかったよ。ありがとう」
力が消えた。
彼は、どれほど力を入れて生き抜いたのだろう。
私に嘘をつき続けて、時には隠そうともごまかそうとも思えないへたなそれでも、間違いなく散りばめて。
いつしか、それが二人の自然になったとき、あなたは教えてくれたんですよ。
続けた嘘は真実になる、って。
ああ。
幸太。
幸太。
幸太。
私はあなたに、何も本当のことを言ってあげられませんでしたね。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ああ。
「大好きですよ、あなた」
手を握ると、そこに涙が零れた。
強い風が吹いた。
庭のいちょうの葉が、駆け抜けるように鳴いていた。




