五話 金を生みだす粉
目の前に広げられた羽には、全体にほのかな線がうかびあがっていた。
描かれた幾何学模様。自然がおりなす緻密なデザインは、見るものの感性の良し悪しを越えて、思わず息をついてしまうくらいに見事だ。
空気の揺れを敏感に感じた蝶羽がびくりと揺れる。
思わず呼吸をとめて、羽に触れないよう呼吸を横に送りながら、ささやく。
「――いくぞ」
「はい」
答えた声が、緊張していてわずかに硬い。
そして、同じくらいこっちも緊張していた。
手に持ったブラシを、そっとその羽に近づけて――触れる。
「あ――」
「っと」
びり、と指先に痛みがはしった。
「あ。すみません……」
「痛かったか?」
振り返ったシィが小さく首を振る。
「いえ。少し、びっくりして。……大丈夫です」
「わかった。じゃあ、もう一回。怖かったらこっち見てていいぞ。ちょっとだけ、表面に触れるだけだからな」
「はい、マスター」
毛先のばらついた、お世辞にも上等とはいえない使い古したブラシの先端を、薄く広がったシィの羽に触れさせて、
「んんっ」
「いてて」
やっぱり、ブラシの先が触れた瞬間に痛みがはしる。
そんなに強烈な痛みってわけじゃないが、我慢して作業し続けるのはちょっと辛い。
「すみません……」
申し訳なさそうにシィが肩をおとした。
わざとやっている様子じゃなかった。どうやら触れられた瞬間、身体が反応してしまうらしい。
背中の羽は、妖精には魔力の源になる。
それを無意識に守るための生理的な反応だろう。
適当に推測しながら、さてと考える。
――どうやって触ろう?
◇
朝になって、人間たちの時間になった。
『初心者用ダンジョン』と揶揄される我が家にも、いつ冒険者どもの襲撃があるかわからない。
俺たちは大人しく洞窟の隠し通路のそのまた奥、慣れてない探索程度じゃまず見つからない隠し扉の先にある部屋にひきこもることにした。
自分の家なのにコソコソしなきゃいけないのは屈辱だが、それももう少しの我慢だと自分をなぐさめる。それに、正直いうと、今までいつもそうだったからけっこう慣れっこだったりもした。
手馴れた様子でひきこもる準備を整える俺のことを、スラ子が哀れむような目でみていたのにはもちろん気づいていたが。
……隠し部屋とはいっても、そこには生活空間や研究スペースなんかも含まれているから、決して手狭だったりはしない。
日がのぼっているあいだの長い時間に、やっておくべきことがあった。
数日後にやってくるあこぎな連中にみかじめ料を支払うために、金をつくらないといけない。
昨日の夜、外で薬草類をけっこう採集できたから、それを調合して人間たちの町に売りにいけば少しは金になるだろう。
そして、そんなものよりもっと大金になりそうなのが、シィの背中に生えた蝶羽、そこから得られる妖精の鱗粉だ。
稀少な魔法道具の材料として知られるそれは、市場での価値は非常に高い。
気まぐれな妖精が他人に羽を触らせることがめったにないから、流通している絶対数が少ないということもあるが、鱗粉そのものが魔力の結晶といってもいい純度の代物でもある。研究や触媒。その利用できる幅はかなり広かった。
「マスターの研究にも使えますか?」
興味ありそうに訊いてくるスラ子に向かって、俺はふっと笑ってみせた。
「ザ・ビンボーこと俺の家にはろくな設備がないからな。宝の持ち腐れだな」
堂々と宣言すると、可哀想なものを見る眼差しで見られる。いっててなんだが、自分でもちょっと悲しかった。
「……まあ、あれだ。加工できたらもっと高値で売れるんだろうが。なにせ妖精の鱗粉だ。無加工の天然ものってだけで十分にいい値がつくだろうよ」
むしろ、こんなレアものは本当なら近くの町なんかじゃなくて、もっとちゃんとしたところに売りにいきたいくらいだ。
けど、そんな大きな町なんて近くにはないし、そういうところにはそういうところで、やっかいことだったり危険があったりもする。
俺も世話になっている魔物アカデミーなら一応のツテがあるから、そういう面倒を抜きにして安全な取引ができるだろう。
ただし、アカデミーは遠い。すごく遠い。
行って戻ってくる日数を計算すれば、次の支払いにはとうてい間に合わない。今から向かったら、帰ってきた俺が見るのは、暴力の嵐にあって廃墟と化した我が家というはめになってしまう。
アカデミーの利用は、次回以降に考えておこう。
どうせここにいる限り、みかじめは払い続けなければならないのだ。うう、泣けてきた。
ともかく。
妖精の鱗粉は、赤貧にあえぐ俺にとってはまさに降って湧いた宝石にも等しい。
なんとしても、それを手に入れる必要があるのだが――
「っく」
三度、挑戦。そして撃退。
シィの羽は、いくらそっと触ろうとしても、俺が持ったブラシの毛先を受け入れようとはしなかった。
これはまずい。
妖精の鱗粉が手に入らないとなると、俺の成金計画が頓挫してしまう。まずい、非常にまずい。
「シィに、ぱたぱたって羽を振ってもらえばいいんじゃないですか?」
スラ子がいった。
「それじゃ、地面に落ちちまうんだよなあ。全部は拾えないし。もったいない」
感心したようにうなずかれた。
「さすが、長年にわたって貧乏してきただけあって、考えることがセコいですねー」
「ふ、そんなに褒めるな。シィの身体をすっぽり覆うくらいの袋を下においたりとかすれば、いいんだろうが――」
妖精の鱗粉は小さくて、きめが細かい。
そんなちゃんとした大きな袋なんて、俺の家にはなかった。
「貧乏だからですね」
「そうだ。全部、貧乏が悪い」
ふと思い出して俺はスラ子に訊ねてみる。
「そういえば。昨日、お前はシィの羽に触れてたじゃないか。あれ、どうやったんだ?」
触ってたというか。後ろから包み込むようにしていた。
「私ですか? 別になにもしてないですけれど……」
小首をかしげたスラ子が、ぽんっと手をうつ。
「マスター、準備してください。シィ、口をあけて」
「はい」
シィが素直にひらいた口に、スラ子は自分の人差し指をさしいれた。
「っ……?」
「舐めなさい」
柔らかい声が、命令を強制する。
苦しそうに眉をひそめて、シィはそれでも従順に口をすぼめる。
小さな口のなかでスラ子が動く。それになにかをからめて、シィが鼻にかかった声を漏らす。
艶美な光景に心をうばわれていると、こちらを見るスラ子の視線に気づいた。今のうちに、とその目がいっている。
あわててブラシを羽にもっていくと、痛みは――ない。
口のなかを蹂躙されているシィは、スラ子の愛撫に意識を奪われて羽どころじゃないらしかった。
そうとなれば、さっそく鱗粉を手に入れよう。
シィの綺麗な羽に傷がついたりなんかしないよう、繊細に、慎重に。ブラシをつかって表面の鱗粉をこそぎ落としていく。
「あ……く。んぅ……!」
徐々に熱を込める喘ぎ声が容赦なく集中力をかき乱す。
ほとんど悟りの境地に挑戦するような気分で、俺は目の前の行為に集中した。
◇
十分な量の採取がおわったころには、シィは立っていることもできないくらいにぐったりしていた。
「おい。やりすぎだぞ」
非難するように見ると、スラ子もそう思ったらしく、力のぬけたシィを抱きかかえるようにしながら、
「そんなに激しくしたつもりはないんですけど……。特別、感じやすい子なんでしょうか」
たった今までシィのなかをいじっていたスラ子の指先が、シィの唾液にまみれて光っている。スラ子はそれをまじまじと見つめて、ぱくり。自分で口に含んだ。エロい。
「俺に聞かれても知るか、そんなもん。とにかく、シィは休ませるぞ」
「はい、マスター。私が――あ、やっぱりマスターがベッドまで連れていってもらえますか?」
「わかった」
うなずいて、小さな身体を受け取る。
見た目には子どもくらいしかない小柄な身体は、見た目どおりの重さで軽かった。
一人暮らしの家に余分なベッドなんてない。
俺の部屋のベッドを使うことにして、そこまでの暗い道を歩きながらふと気づく。
シィの目尻に透明なものがあった。
「泣いてるのか……?」
返事はない。気を失っているのかもしれない。
複雑な気分になった。
捕まえられて、魔力の補充のためにもてあそばれて、そのうえ身体からでる鱗粉まで金儲けに利用される。
それはどう考えたってひどいことで、それをやってるのが俺だ。スラ子にやらせてるのも俺だ。
別にそれをどうこうってわけじゃない。
可哀想とか、後悔とか、そういうつもりはちっともない。
俺は魔物の世界に生きている。
弱肉強食。弱いものはひたすら搾取され、蹂躙されるのがその厳正で絶対のルールだ。
――ただ、なんでシィは仲間たちのところから飛び出したりなんかしたんだろう、と。
そんなことを本人に聞いてみたいと思いはしたけれど。