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九話 恐るべきスラ子

 自室に戻った俺のもとにスラ子がやってきたのは、話し合いの続きは明日に、と食卓で解散してしばらくしてからだった。


 ダンジョンの隠し扉から続く生活空間の一つが、ひとまずスラ子とシィの部屋ということになっている。ろくな家具もおいてやれない甲斐性のなさだが、そこは今後の努力といったところだ。

 恐らく今日の分の「食事」を終えてきたのだろうスラ子は、どことなく血色のいいように見える肌つやで、


「マスター。ご報告というか、ご相談というか。もしかしたらというような話なんですが……」


 俺は眉をひそめた。


「どうした? なにか問題か?」


 シィになにかあったのだろうか。

 シィの存在はスラ子の維持のためだけでなく貴重な収入源としても重要だ。陽気な妖精らしくない暗い表情を思い出しながら訊ねると、


「ええとですね。今、シィからもらってきたところなんですけれど。やっぱりあの子、とても感じてしまうみたいで」

「……そりゃ、なんつうか。よかったな」


 そうとしか答えようがない。

 はい、と微妙な感じにうなずいたスラ子が続ける。


「お昼のこと、おぼえてますか? 鱗粉を採取したときです」

「鱗粉?」

「はい。私が気をひいて、そのあいだにマスターが採取した。あのときも、シィはとても敏感でしたよね」


 ああ、と思い出す。

 たしかに採取が終わったあと、シィはほとんど気を失ってしまうくらいにぐったりしていた。


 それがどうかしたのか、という視線にスラ子はうなずいて、


「マスターは、私の身体は私の意志で変化するとおっしゃいました。それも一つの魔法だって。それで思ったんです。もしかしたら、私から分泌されるものに、なにかそういう効用があるのかもしれません」


 分泌。効用。

 ようやく俺にも、スラ子の伝えたいことが理解できた。


「――媚薬か」

「はい」


 スラ子はこくりとうなずく。


「自分でそう意識しているつもりはないんです。けれど、相手から吸収しやすいように、無意識に。そういうふうになっちゃってるのかもなあって」


 なんてこった。

 スラ子の冷静な考察を聞きながら、俺は愕然としていた。


 シィの容態を考えればたしかにその可能性はある。

 身体を維持するために必要な魔力を得るために、相手をその気にさせる。

 スラ子のような生態の生命体からすれば、備わっても妥当といっていい機能かもしれない。自然界にも、魔物にもそういう種はいる。


 それにしたって――目の前の人型スライムを恐々と見つめた。

 そんな能力まで発揮するなんて。それじゃあ、ほとんどサキュバスだ。吸精能力というのは、たしかに決してマイナーなものではないが。


 自分の意思、あるいは無意識で自分自身を変化させるということは、想像以上にとんでもないことかもしれない。


 あらためて底が知れない相手を見ながら思う。

 やっぱり、研究は新しいことに取り組むのではなくて、しばらくスラ子の経過を見ることに専念した方がよさそうだ。


 スラ子は安定しているように見えるが、気になることがないわけじゃない。それは、なんの根拠もない、勘みたいなものだったけれども。


「といっても、シィの様子を見ていて、もしかしたらと思っただけなんです」


 スラ子がいった。


「そうだな。そうじゃない可能性だってあるか。きちんと確かめてみないとな」

「ええ、それで――」


 スラ子の瞳がすっと細まった。

 殺気のようなものを感じて、思わずあとずさる。


「……どうして逃げるんですか?」

「……どうしてにじり寄るんだ?」


 ふふ、とスラ子は上品で邪な笑みを浮かべた。


「マスター。確かめるっておっしゃったじゃないですか」

「俺を。実験体にしろなんて一言もいってないだろう」


 俺が右に動くと、スラ子も右に動く。


「これも研究のためなんですよ、マスター」

「嘘つけ、面白そうっていうだけだろうが」


 俺が左に揺れると、スラ子もあわせて揺れた。


 緊迫した空気。

 媚薬を盛られるなんて冗談じゃない。昼間のシィのあのありさまを目の前で見ていれば、俺は男として断固この不定形生命体の魔の手から逃れなければならない。


 昨日の悪夢のような出来事が脳裏によみがえった。ああ、と苦く思う。あのときからそうだったのかもしれない。昨日は気が動転していてそれどころじゃなかった。


「私はただ、またマスターの可愛い顔を見てみたいなって。それだけなんです」

「それだけって、そんなことでお前は人のトラウマを再燃させるつもりなのか」

「そんなんじゃ駄目ですよ、マスター。風俗王になるんでしょう?」

「やめろいうな。ちょっとテンションがあがってただけだ。あれは」


 無言でにらみ合う。

 ふ、とスラ子がなにかに気づいたように目線を動かした。


「マスター。あんなところに新種のスライムが」


 俺は相手の浅はかさを笑う。


「馬鹿が、そんなあからさまな陽動にひっかかるやつが――」


 得意げに台詞をいいおえる前にスラ子が迫ってきた。陽動、関係ねえ。


 唇がおしつけられる。

 避ける暇もなく触れる。

 なにかが口のなかに流し込まれた。


 まっしろになりかけた意識をひきもどして、俺はスラ子を無理やりひきはがした。


「う……」


 くらり、と視界が揺れた。

 嘘だろう。即効性にしたって効きが早すぎる。


 スラ子から与えられたそれは、ほとんど呪いじみた効果だった。

 心臓がバクバクいっている。頬が熱い。

 発生した熱量が、そのまま体中に伝播してさらに高まっていく。


「マスター、どうですか?」


 目を輝かせて訊いてくるスラ子が、やけに艶めかしく見えた。

 いつも自然な色気がある相手だが、今はそれが尋常じゃない。


「ムラムラしてしまいます?」


 声が遠い。スラ子の表情がやけにくっきりと映る。そのくせその表情は惑うように揺れていて、スラ子以外への視界は極端にせまい。


 やばい。これは、やばい。


「スラ子、お前――」

「大丈夫です、マスター」


 スラ子は悪魔じみた慈しみの表情で、


「さっきシィからもらったばかりですから。魔力をいただく必要はありません。普通に、可愛がってほしいんです。マスターに」


 完璧な角度で小首をかしげてみせた。


「――可愛がってくれませんか?」


 その媚びるような声。眼差し。


 だから、そういうのは、ずるいだろうが――


 思考にもやがかかる。

 ふらふらと足が動き出す。そのまま、誘われるようにスラ子へと近づいて、


「……ぼ――」

「ぼ?」


 スラ子が聞き返す。その綺麗な瞳をのぞきこむように、


「ぼっちなめんなあああああああ!」


 叫んだ。


「きゃっ」


 身をすくめるスラ子をにらみつける。


「暗黒のアカデミー時代をおくるうちに鍛えに鍛え抜かれた俺のぼっち力をなめんな! こんな程度のリビドー、気合でねじふせてやる!」


 細い肩をつかんでまわれ右させて、背中を押してそのまま部屋の外まで送り出す。


「帰れ! 寝ろ! おやすみ!」

「あ、マスター。待ってくださいっ」


 抗議の声をあげるスラ子を無視して、扉を閉めた。


「勝手に入ってきたら本気で怒るからな! 歯みがけよ! いい夢みろよ!」


 スラ子はまだ扉のむこうでなにか言っていたが、俺はそれを無視してベッドにもぐりこんだ。頭から毛布をかぶって、ひたすら眠れ眠れと脳に命令をおくる。

 身体のほうでは、俺はやるぜやるぜといきり立ち、二つの食い違った神経伝達に意識が悲鳴をあげる。


 ごろごろと部屋中をころがりまわたい衝動におそわれて、実際にベッドの上で身もだえながら、ひたすら発作がおさまるのを待った。


 何百匹とスライムを数えてもまるで眠れず、ようやく動悸と発汗が落ち着いてきたのは、もう夜明けも近い朝方のころだった。




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