第75話:死角を射抜くコーナー・スリーと、5ファウルの危機
真夏の熱気が充満する北海道立総合体育センター。
耳をつんざくようなメガホンの轟音と、フロアに擦れるバッシュの鋭い摩擦音が、天井の高いメインアリーナに反響していた。
一九九八年八月、全国高校総体男子バスケットボール決勝。
前半終了間際、黎明高校は司令塔・如月蓮の指揮のもと、近代NBAの戦術体系である『スペイン・ピック&ロール』を完璧に機能させ、王者・聖稜大付属を相手に「38対40」のわずか2点差にまで肉薄していた。
しかし、ハーフタイムを挟んだ第3クォーターの幕開けとともに、王者の冷徹な逆襲が始まった。
聖稜のキャプテンであり「皇帝」の異名をとる鳳院は、表情一つ変えずに自軍のベンチからコートへと歩みを進める。その鋭利な眼光は、黎明高校が抱える致命的な弱点を正確に捉えていた。
ベンチには小林や高橋、中村たち控えの1年生7人も控えているが、聖稜大付属が展開する超高校級のトライアングル・オフェンスと『皇帝』鳳の圧倒的な重力に対抗するには、主力5人の連携が不可欠だった。もしインサイドの要である鮫島豪や白石岳がファウルアウトで欠ければ、ゴール下の均衡は一気に崩壊し、事実上の終戦を迎える。
「……インサイドだ」
第3クォーター開始直後、ボールを保持した鳳は、低く冷たい声で味方にサインを出した。
黎明の外郭警戒をあざ笑うかのように、鳳は自ら鋭いファーストステップを踏み込み、ペイントエリアへ猛然とアタックを開始する。
ターゲットはただ一人。
黎明のゴール下を守る唯一の巨漢センター、鮫島豪だった。
ドッ、と骨の軋む重い衝突音が響く。
鳳はファウルを誘う狡猾なボディコントロールで鮫島に肉薄し、空中で接触を受けながらも強引にシュートをねじ込んでバスケットカウントをもぎ取った。
「白・四番、ブロッキング! カウント・ワンスロー!」
無情なレフェリーのコールが響き渡る。
すでに前半で2つのファウルを背負っていた鮫島は、第3クォーター開始わずか3分で3つ目を喫した。
そして、その悪夢は連鎖する。
聖稜の執拗なインサイド攻略に焦りを募らせた鮫島は、続く鳳のペネトレイトに対し、カバーに入った瞬間に手の平で相手の腕を払ってしまった。
ピッ――!
「白・四番、プッシング! チームファウル4、パーソナルファウル4!」
コートサイドのTO席から無慈悲に掲げられた『4』のファウル表示板。
会場が大きくどよめいた。
5ファウルで即時退場。
残り時間は第3クォーターの約半分と、丸々残された第4クォーターの計15分以上。
黎明高校のインサイドの要である鮫島豪が、あと1回のファウルで退場となる絶対絶命の窮地に立たされたのだ。
「しまっ……た……!」
鮫島はその場に立ち尽くし、己の右手を震わせながら見つめた。額から滴り落ちる汗が、コートの木目を濡らす。
(俺が……俺が退場したら、ゴール下の壁が崩れて聖稜に蹂躙される……。もう、絶対にファウルはできない……!)
その恐怖は、鮫島の身体から獰猛な野生を完全に奪い去った。
次に鳳がドライブを仕掛けてきた際、鮫島はファウルを恐れるあまり、無意識に半歩後退して身体を引いてしまった。
強烈なブロックショットを警戒する必要がなくなった聖稜オフェンスは、容赦なくゴール下を蹂躙し始める。
50対60。
一瞬にして点差は10点へと開き、会場の空気は「黎明の終戦」を予感して重く沈み込んでいった。
「――タイムアウト! 白、黎明高校!」
神崎コーチの鋭い声が響き、主審の笛が試合を中断させた。
ベンチへ引き上げてくる5人の足取りは重い。
鮫島は大きな肩を落とし、ベンチのパイプ椅子に崩れ落ちるように腰掛けた。呼吸は浅く、視線は彷徨い、極度のプレッシャーで過呼吸寸前の状態に陥っていた。
「鮫島くん、私の目を見て」
冷えたタオルを手渡しながら、マネージャーの橘葵が静かに、しかし芯のある声で語りかけた。
葵は鮫島の前に膝をつき、呼吸を合わせるように誘導する。
「息を吸って……そう、4秒かけて。4秒止めて、4秒かけて吐き出して。もう一度4秒キープして。ボックス・ブリージングよ。焦らないで、酸素を脳に送り込んで」
同時に、葵は手早く氷で冷やしたクエン酸配合の電解質ドリンクを鮫島の口元へ運ぶ。
「筋肉の乳酸を散らして。あなたはここまで、チームのために身体を張ってきた。怖がる必要なんて何一つないわ」
鮫島の荒い呼気が、徐々に規則正しいリズムを取り戻していく。
その横で、もう一人のマネージャー・綾瀬涼香が冷静にクリップボードを叩いた。
「データ通りね。聖稜は鮫島くんのファウルアウトを狙い撃ちにしてる。でも、それは裏を返せば『鳳の突入口がインサイドの一点に固定された』ってことよ」
蓮がタオルで顔の汗を拭いながら、力強い瞳で仲間たちを見渡した。
神崎拓也ヘッドコーチが腕を組み、力強い眼差しで頷いた。
「蓮の言う通りだ。鮫島、お前を下げるつもりはない。ここで引けば聖稜の思う壺だ。俺たちがペイントエリアの守り方を変える」
「守り方を……変える?」
鮫島が顔を上げた。
「ああ。これからは鳳に対して、鮫島一人で壁になるな。鳳がペイントに足を踏み入れた瞬間、黒木と陣内、白石が周囲のパスコースを完全に遮断する。鮫島、お前は跳ぶな」
蓮は鮫島の太い腕を両手で掴み、真っ直ぐに見据えた。
「『バーティカリティの原則』だ。シリンダーから腕を出さず、両腕を真上に伸ばして直立していれば、相手から突っ込んできてもディフェンスの正当な権利としてファウルは取られない。お前はただの『動かない壁』になれ。抜かれたって構わない。後ろには俺たちがいる」
「……跳ばずに、真上に腕を伸ばすだけ……」
「そうだ。そしてリバウンドを拾ったら、一気に走るぞ。陣内、白石。昨夜のグリコーゲン・ローディングが効いてるはずだ。足はまだ動くだろ?」
蓮の問いに、シューターの白石岳とパワーフォワードの陣内誠が不敵に笑った。
「当たり前だ。脚にたっぷり炭水化物を詰め込んできたからな。ガス欠なんてとっくの昔に忘れたよ」
「おうよ。コーナーまでなら何十回でも全力疾走してやるぜ!」
黒木凌もまた、無口ながら力強く鮫島の背中を叩いた。
「……鮫島。お前の5ファウル目を恐れるな。俺たちが守る」
鮫島の瞳に、再び獰猛な光が宿った。
「……すまねえ、みんな。俺、逃げねえよ。もう一歩も引かねえ!」
「黎明、行くぞ!」
「――オオッ!!」
ピーッ!
ブザーが鳴り響き、運命の第3クォーター後半が幕を開けた。
コートに戻った聖稜・鳳は、黎明の陣形に微かな違和感を覚えた。
(……鮫島を下げないばかりか、ゾーンでもない。マンツーマンのままか。ならば、もう一度ペイントを突いて退場に追い込むまで)
フロントコートでボールを受けた鳳が、鋭いドリブルチェンジから一気にペイント内へと侵入する。
待ち構えるのは、4ファウルを背負った鮫島豪。
鳳はファウルを誘うべく、鮫島の胸元をめがけて空中へ身体を投げ出した。接触を恐れて逃げるか、あるいは手を出して退場になるかの二者択一を迫るアタック。
だが――鮫島は跳ばなかった。
足の裏をコートにしっかりと密着させ、両腕を天に向かって垂直に伸ばし、不動の巨木のようにただ直立した。
激しい衝撃が鮫島の胸板を襲う。
しかし鮫島の腕は一ミリも前方に倒れず、完全に自らのシリンダーを守り抜いていた。
(なっ……跳ばないだと!?)
空中で体勢を崩したのは、ファウルの接触を前提にシュートを放とうとした鳳の側だった。
無理な姿勢から放たれたボールは、バックボードの角を叩いて虚しく弾け飛ぶ。
笛は鳴らない。正当なディフェンスだ。
「リバウンドッ!!」
鮫島が背後へ振り返り、両手でがっちりとオレンジ色の革球を抱え込んだ。
「よしっ、走れえええっ!!」
葵の絶叫がベンチから響く。
その瞬間、聖稜の選手たちが誰も予測していなかった速度で、黎明の2つの影が左右のサイドラックを駆け抜けた。
陣内誠と、白石岳。
昨晩の入念なエネルギー補給と水分管理によって、試合後半に入っても乳酸の蓄積を感じさせない強靭なスプリントが炸裂する。
二人が目指したのは、リング下でもウイングでもない。
ディフェンスの視界から最も外れやすく、かつ3ポイントラインの中で最も距離が短い死角――『両サイドのコーナー』だった。
鮫島からアウトレットパスを受け取った蓮は、聖稜のバックドロップが一瞬遅れた隙を見逃さず、ハーフラインを越えた位置から鋭利なバウンドパスを右コーナーへ突き刺した。
待ち構えていたのは白石岳。
完璧なキャッチ・アンド・シュートのセット。
チェックに来るディフェンスの手が届くよりも早く、白石の指先から放たれたボールが、美しい放物線を描いて札幌の空気を切り裂く。
ザシュッ!
ネットが小気味よい音を立てて跳ね上がった。
53対60!
「戻れっ! まだ終わってねえぞ!!」
息を吹き返した黎明ディフェンスは、続く聖稜のオフェンスに対し、黒木と蓮が連動したダブルチームでプレッシャーをかけ、苦し紛れのキックアウトパスを陣内が長い腕で弾き飛ばした。
ルーズボールを黒木がダイブして保持し、即座に立ち上がった蓮へと繋ぐ。
「走れ陣内ッ! もう一本だ!!」
聖稜のディフェンスは、先ほどスリーを決めた白石のいる右サイドへ意識を引きずられていた。
その間隙を縫い、左サイドのオープンスペースを全力疾走していた陣内が、左コーナーのわずか数センチの隙間にピタリと両足を揃えて静止する。
蓮のノールックパスが、陣内の胸元へ吸い込まれた。
「誠、打てええっ!」
ベンチの涼香が立ち上がって叫ぶ。
陣内は迷わなかった。膝のバネを滑らかに解放し、高々と宙へ舞う。
放たれたシュートは、バックボードの赤いランプが点滅するのとほぼ同時に、完璧な軌道を描いてリングの中央へと吸い込まれた。
バシュッ!!
56対60! 4点差!
怒涛の連続コーナー・スリー。
聖稜ベンチがたまらず立ち上がり、会場のボルテージは限界を突破して爆発した。
その後も一進一退の激闘が続き、聖稜も鳳の個人技で意地を見せて加点するが、黎明は鮫島が『バーティカリティ』を徹底してゴール下の壁となり続け、4ファウルのまま第3クォーターを耐え凌いだ。
そして、第3クォーター終了のブザーが鳴り響いた瞬間。
白石がファウルを受けながら放ったミドルジャンパーがネットを揺らし、スコアボードの数字が激しく点滅した。
【第3クォーター終了:聖稜大付属 64 ― 61 黎明】
点差は、わずかに3点。
10点差の絶望から這い上がり、王者の背中を完全に射程圏内に捉えた。
ベンチへと戻る黎明の5人に、会場全体から割れんばかりの拍手と歓声が降り注ぐ。
残り時間は、最後の第4クォーター・10分間。
奇跡を現実へと変えるための、最後の決戦が始まろうとしていた。
マネージャーノート
一九九八年、八月某日。
北海道インターハイ決勝、対聖稜大付属戦。第3クォーター終了。61対64。
鮫島くんが4つ目のファウルを取られた瞬間、ベンチの空気が凍りついた。
前半は小林くんや高橋くんたち控えメンバーも必死にタイムシェアで繋いでくれたけれど、この決勝の後半、聖稜の猛攻を止めるには主力5人の力がどうしても必要だ。インサイドの要である鮫島くんの退場は、即ちチームの崩壊を意味する。ファウルを恐れて身体を引いてしまう鮫島くんの姿を見たとき、正直に言えば私の心にも冷たい恐怖がよぎった。
でも、蓮くんも涼香ちゃんも、誰一人として諦めていなかった。
ボックス・ブリージングで心拍数を落ち着かせ、クエン酸ドリンクを流し込み、戦術をアジャストする。
鮫島くんに課されたのは「跳ばない勇気」――バーティカリティの原則。
自分のシリンダーを守り、ただ垂直に壁として立ち続けること。それは派手なブロックショットよりも遥かに強靭な、仲間を信じる心がなければ絶対にできないプレーだった。
そして、その献身が生み出したディフェンスリバウンドから、白石くんと陣内くんが射抜いた2本の『コーナー・スリー』。
昨日から綿密に計算して摂取させた糖質が、二人の足を最後まで止めさせなかった。科学的なアプローチと、コート上の5人の執念が、完全に噛み合った瞬間だったと思う。
3点差。
相手は高校バスケ界の絶対王者、聖稜大付属。
でも、今の彼らの目に怯えの色は微塵もない。
あと10分。この最高の仲間たちと共に、必ず全国の頂点へ駆け上がってみせる。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下にある【☆☆☆☆☆】の評価やブックマークをいただけると、執筆の大きな励みになります!
次回更新も頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。




