第66話:陥落する絶対王者と、ベスト8への切符
北の大地に熱気が渦巻く、一九九八年八月の北海道インターハイ。
メインアリーナの天井を覆う反響音は、もはや耳朶を打つ歓声という枠組みを遥かに超え、地鳴りのような咆哮となってコートに降り注いでいた。
電光掲示板が冷徹に告げる現実。
【第4クォーター 残り18秒】
【黎明 72 ― 72 帝王山】
同点。
インターハイ連覇を掲げ、高校バスケットボール界の頂点に君臨し続ける絶対王者・帝王山高校。
対するは、部員全員が高校一年生、創部一年目にして全国の舞台へ駆け上がってきた無名の新星・黎明高校。
帝王山の猛攻をしのぎ、リバウンドをもぎ取った黎明のポイントガード・如月蓮が、フロントコートへとボールを運ぶ。
ベンチからタイムアウトの要請はない。
ベンチを守るマネージャーの橘葵も、綾瀬涼香も、拳を痛いほど握りしめて静かに戦況を見つめていた。
タイムアウトを取れば、歴戦の知将である帝王山・御子柴監督に万全のセットディフェンスを構築する猶予を与えてしまう。
足が止まり、頭が冷えれば、選手層の厚い王者に分があるのは明白だった。
コート上の五人だけで、この十八秒を使い切る。
最後のワンポゼッションで試合を終わらせる――それが、蓮とチームメイトたちがコート上で交わした無言の合意だった。
ドリブルをつく乾いた音が、静寂と喧騒がせめぎ合うフロアに響く。
ト、ト、ト……。
蓮の視線は冷静沈着そのものだった。
全身の筋肉は極限まで張り詰めながらも、思考の回路は絶対零度のように研ぎ澄まされている。
残り14秒……12秒……。
相手陣内のトップ・オブ・ザ・キー付近で、蓮はあえてペースを落とし、ショットクロックとゲームクロックを同期させながら時間を削っていく。
マッチアップするのは、帝王山のエースにして絶対的支柱・神宮寺。
その双眸には、鬼気迫る闘志が宿っていた。
「ここがお前の限界だ、如月蓮……! このインターハイ、絶対に王座は渡さん!」
神宮寺の重心は完璧だった。
ドライブにも、ステップバックのスリーポイントにも即座に対応できる極上のディフェンススタンス。
帝王山ベンチから御子柴監督の鋭い指示が飛ぶ。
「ラストショットは如月だ! 外の白石と陣内への警戒を怠るな! 残り5秒で挟み込め!」
帝王山ベンチの読みは盤石だった。
第4クォーターに入り、蓮は一人でチームの窮地を救う驚異的なスコアリングを見せていた。
ロゴ付近からの超長距離ディープスリー、鋭いステップインからの高弾道フローター。
あらゆるスキルをこれでもかと見せつけ、帝王山のプライドをズタズタに引き裂いてきたのは他でもない蓮自身だった。
『最後は如月蓮が自ら打ってくる』
百戦錬磨の帝王山の選手たち、そして指揮官の脳裏に、その確信が強烈に刻み込まれていた。
しかし――それこそが、蓮の張り巡らせた蜘蛛の糸だった。
(……そうだ。寄ってこいよ、帝王山)
蓮は心の中で冷徹に呟いた。
第4クォーターで自ら得点を量産し続けた真の意図。
それは個人の栄光のためでも、得点王への執着でもない。
この最後の数秒間、帝王山の五人全員の意識、重心、そして恐怖の対象を、完全に『如月蓮』という一点に集約させるための――究極のデコイ(撒き餌)だった。
残り7秒。
蓮がわずかに右へ肩を揺らす。鋭いヘジテーション。
神宮寺の足が一瞬反応する。
残り5秒!
合図だった。帝王山のガードが、コーナーに控える白石のマークを一瞬捨て、猛然と蓮へとダブルチームを仕掛けてくる。
神宮寺とガードの二人が長い腕を広げ、蓮の視界とシュートコースを完全に遮断しにかかる。
「囲んだ! 打たせるなッ!!」
神宮寺の叫びが木霊する。逃げ場のない罠。
二人の巨大な壁に挟まれ、蓮のシュートセレクションは完全に消滅したかに見えた。
誰もが、蓮のタフショットか、苦し紛れのキックアウトを予想した。
会場全体が息を呑み、息の詰まるような緊張感がアリーナを圧迫する。
残り3秒。
蓮が二人の壁の間を裂くように、力強くフロアを蹴って宙へと跳び上がった。
ジャンパーのモーション。完全に空中でシュート体勢に入る蓮。
神宮寺とヘルプディフェンダーが、そのボールを叩き落とさんと共に跳躍する。
(打たせない……ブロックだ!)
神宮寺の指先が、蓮の掲げたボールへと迫る。
だが、空中で完全に制空権を支配されたかに見えたその刹那――蓮の口元が、わずかに吊り上がった。
神宮寺の眼が見開かれる。
蓮の視線は、リングを見ていなかった。
蓮の両腕が、シュートのフォロースルーから一変し、まるで手品のようにボールを手首のスナップだけで下方へと叩きつける。
ノールック・バウンドパス。
神宮寺の股下、そしてヘルプディフェンダーの足元を鋭くすり抜ける、針の穴を通すような回転のかかったバウンドパスだった。
「なっ……!?」
神宮寺の喉から引き攣った声が漏れる。
ボールの先には、誰もいないはずだった。
いや――帝王山の意識が蓮に吸い寄せられたその瞬間、弱点となったゴール下へ、一直線にスリップ(ダイブ)してくる巨影があった。
黎明高校のインサイドを泥臭く支え続けてきた男、黒木凌。
蓮がダブルチームを引きつける直前、ハイポストで鮫島豪が強烈なオフボールスクリーンを掛け、帝王山のセンターを一瞬だけ足止めしていた。
コーナーでは白石と陣内誠がワイドに開き、相手のヘルプサイドを極限まで引き伸ばしていた。
誰一人として傍観していなかった。
一年生五人全員が、蓮の描いた唯一の勝利の絵図を完全に理解し、寸分の狂いもなく連動していたのだ。
蓮のパスは、完璧なバックスピンを伴い、ノーマークでリング下へと飛び込んだ黒木の胸元へと吸い込まれるように弾んだ。
「――黒木ッ!!」
着地しながら、蓮が叫ぶ。
残り1秒。
ボールを捕球した黒木は、迷うことなく跳躍した。
どれほど泥にまみれようと、どれほど全国の猛者に身体をぶつけられようと、愚直に磨き上げてきたゴール下のリバウンドとインサイドワーク。
黒木の頭上に、リングが迫る。
帝王山のセンターが必死に振り返り手を伸ばすが、すでに遅すぎた。
「うおおおおおおおおッッ!!」
黒木の魂の咆哮とともに、両手で掴んだボールが真上からリングへと叩きつけられた。
ドガァァァァァンッッ!!!!
会場の空気を破裂させるような、痛快無比なダンクシュート。
ネットが激しく跳ね上がり、ボールがフロアへ落ちるのとほぼ同時に、スコアボードが【74 ― 72】へと書き換わる。
【残り0.4秒】
赤く灯るバックボードのランプ。
そして、すべてを告げる試合終了のロングブザーが、アリーナ全体を震わせた。
ブォォォォォォォォンッ――!!
一瞬の静寂。
あまりの出来事に、何千人もの観客が呼吸を忘れていた。
ボールがダム、ダムと力なく弾む音だけが響く。
次の瞬間、堰を切ったような爆音と地鳴りのごとき大歓声が、体育館の屋根を吹き飛ばさんばかりに爆発した。
「決まったあああああああああッ!!」
「ダンクだ! ブザービーター!!」
「嘘だろ……帝王山が……あの絶対王者が負けたのか!?」
「黎明! 黎明高校が勝ったぞォォォッ!!」
フロアに倒れ込んだ黒木の上に、鮫島が飛びつき、外から白石と陣内が叫びながら駆け寄って圧し折らんばかりに抱きつく。
「やったぞ黒木ィィィッ!!」
「すげえよ! マジで決めやがった!!」
「痛ぇよ、お前ら重い……! だが……勝った、勝ったんだよな!?」
黒木は荒い息を吐きながら、自らの拳を見つめ、それから歓喜の涙を滲ませて咆哮した。
蓮は腰に手を当て、深く、長い息を吐き出した。
心臓の鼓動がまだ耳の奥で激しく暴れている。
だが、その表情には張り詰めた緊張から解き放たれた、年相応の少年の爽やかな笑みが浮かんでいた。
コート中央で呆然と立ち尽くしていた神宮寺が、ゆっくりと蓮へと歩み寄ってくる。
帝王山のユニフォームを汗でびっしょりと濡らした怪物は、悔しさに唇を噛み締めながらも、やがて静かに右手を差し出した。
「……完敗だ、如月蓮」
掠れた、だが芯のある声だった。
「第4クォーターのお前のスコアは、すべて最後のパスを通すための布石だったというわけか。……高校生にあんな芸当ができる奴がいるとは、夢にも思わなかった」
「あれを決め切れる仲間がいるからこそですよ」
蓮は神宮寺の大きな手をしっかりと握り返した。
「あんたたち帝王山は、本当に高くて強大な壁だった。俺たち全員が限界を超えなきゃ、一歩も届かなかった」
「フッ……負けた相手に慰められる筋合いはない。だが、その強さは本物だ。……必ず頂点まで行け。俺たちを倒したお前たちが負けたら、承知せんぞ」
「言われなくても。俺たちの目標は、最初から全国制覇です」
二人の間に交わされた視線には、激闘を戦い抜いた者同士にしか分からない純粋な敬意が宿っていた。
整列を終え、深々と一礼を交わした両チーム。
黎明高校のベンチへ戻る蓮たちを、涙で目を真っ赤にした橘葵と、普段は冷静な綾瀬涼香が満面の笑みで出迎えた。
「みんな……っ、本当に、本当におめでとう……!」
葵はタオルを差し出しながら、堪えきれずに大粒の涙をこぼした。
「葵、泣きすぎだ。勝ったんだから笑えよ」
蓮が笑いながらタオルを受け取ると、涼香がスコアシートを抱きしめたまま誇らしげに告げた。
「如月くん、最終スコア74対72。……黎明高校、インターハイ・ベスト8進出決定です!」
「ああ」
蓮は仲間たちを見渡した。
息を切らし、全身打撲のように疲弊しながらも、全員の瞳には誇りと次なる戦いへの野望が輝いている。
絶対王者・帝王山高校の陥落。
そして、創部一年目、全員が一年生の黎明高校による、全国ベスト8への進出。
一九九八年の夏、高校バスケットボールの歴史が塗り替えられた瞬間だった。
【橘葵のマネージャーノート】
一九九八年、八月某日。
北海道インターハイ3回戦、帝王山高校戦。
74対72。
信じられないスコアボードを、私は何度も、何度も見返しました。
胸の奥が熱くて、手が震えて、スコアブックに最後のブザービーターの記録を書き込む時、涙で文字が滲んでしまいました。
第4クォーターの残り18秒。
タイムアウトを取らずにボールを運んだ蓮くんの背中は、信じられないほど大きく、頼もしく見えました。
相手の徹底的なマークを引きつけて、最後の残り数秒、空中で放ったあのノールックパス。
そして、それを完璧に予測して走り込み、リングへ叩き込んだ黒木くんのダンクシュート。
蓮くんだけじゃない。
鮫島くんの体を張ったスクリーン、陣内くんと白石くんが外へ開いてスペースを作った献身的な動き。
誰か一人でも欠けていたら、絶対に生まれなかった奇跡の1本でした。
試合後、帝王山の神宮寺選手と握手を交わす蓮くんを見て、私は確信しました。
このチームは、ただ強い選手が集まっただけじゃない。
お互いを心の底から信じ合える、本物の「チーム」になったんだと。
全国ベスト8進出。
連覇を狙っていた絶対王者を倒したことで、明日からはこれまで以上の注目とプレッシャーが黎明高校に集まるはずです。
でも、今の五人なら、どんな強豪が相手でも絶対に乗り越えられると信じています。
涼香ちゃんと一緒に、もっともっと選手たちを支えなきゃ。
私たちの夏は、まだまだ終わりません。
目指すは、全国の頂点――インターハイ優勝です!
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