第64話:覚醒する怪物の牙と、孤高の泥沼戦
一九九八年、八月。
北海道の夏特有の乾いた空気など、とうに湿潤な熱気へと塗りつぶされていた。
函館市民体育館のメインコートを包むのは、耳をつんざくような大歓声と、数千人の観客が放つ皮膚を焼くほどの熱気。
電光掲示板のタイマーが、非情な速度で刻限を削り取っていく。
第4クォーター、残り3分11秒。
スコアボードの数字は――
黎明高校 68
帝王山高校 63
5点リード。
タイムアウトのブザーが鳴り響き、赤黒のユニフォームを纏った帝王山の選手たちがコートへと戻ってくる。
その先頭を歩く男の瞳には、先ほどまでの統率された冷徹さなど微塵も残っていなかった。
帝王山の絶対的エース、神宮寺猛。
御子柴監督がベンチから放つ厳しい指示の手振りを、神宮寺は完全に無視した。
視線すら向けない。
精密な時計仕掛けのように相手を追い詰めていくはずだった帝王山の「システム」。
規律と再現性を極限まで突き詰めたその鉄の規律を、コート上の王自らが完全に破棄した瞬間だった。
ベンチ際でスコアブックを抱きしめる葵は、神宮寺の纏う異様なプレッシャーに息を呑んだ。
隣でストップウォッチを握る涼香の細い指先が、わずかに震えている。
「……神宮寺の気配が変わった。システムを捨てたわ」
涼香の冷徹な声が、乾いた喉から絞り出された。
「前半、うちが集めたデータ――左足軸のターン、ゼロステップの角度、フェイク時の重心移動。全部、神宮寺自身も自覚してる。その上で……あいつは力業で全てを粉砕しに来る」
コート中央。
ボールを受け取った帝王山のガードに対し、神宮寺は低く唸るような声で要求した。
「寄越せ」
それはサインプレーのコールではなかった。
他の4人に対し、「全員コーナーへ退け」と命じる、剥き出しのアイソレーションの宣告だった。
帝王山のチームメイトたちが戸惑いながらもウイングへスペーシングを取る。
トップオブザキーでボールを保持した神宮寺の前に立ちはだかるのは、黎明のエース・如月蓮。
1年生ながら黎明の攻守の心臓としてコートに君臨する蓮は、腰を深く落とし、研ぎ澄まされた視線で神宮寺の胸元を射抜いた。
「黒木、陣内、鮫島、白石!」
蓮の鋭い声がコートに響く。
「ヘルプのラインは変えるな! 俺が抜かれても慌てて突っ込むなよ!」
「おうよ!」
インサイドで巨躯を構える鮫島が吠え、黒木が静かに重心を沈める。
神宮寺の重心が、わずかに沈んだ。
キュッ、とフロアを抉るスキッド音が響いた瞬間、怪物が解き放たれる。
初速が違う。
前半のどのドライブよりも深く、鋭い踏み込み。
涼香の分析通り、神宮寺はわずかに左足を深く踏み込んで右へのカットを狙う。
蓮はその軌道を完全に読んでいた。
半歩早くコースへ身体を滑り込ませ、胸で受け止める――はずだった。
ズンッ!
鈍い衝撃が蓮の肋骨を軋ませる。
(重い――!)
予測通りのコースに入ったにもかかわらず、神宮寺は進路を変えない。
自らの右肩を蓮の胸元へ容赦なくぶつけ、その反作用と強靭な体幹だけで蓮のディフェンスをミリ単位でこじ開けた。
理屈を超えたフィジカルの暴虐。
「どけえぇッ!」
吠えながら神宮寺がペイントエリアへ強引に侵入する。
カバーに入った黒木が長い腕を広げて壁を作った。
しかし、神宮寺は急激にブレーキをかけると、左足を軸にして強引に空中へ跳び上がった。
バランスを崩しながらの後方への跳躍。
フェイダウェイジャンパー。
黒木の指先がボールの直前まで迫る。
だが、空中で異常な粘りを見せた神宮寺の右手首が、極限のタフショットをリングへと押し出した。
バツンッ!
ネットが美しく跳ね上がる。
残り2分48秒、68対65。
その差はわずか3点。
「おいおい……マジかよ」
ベンチの控え選手たちが言葉を失う。
コースを完璧に防ぎ、タフショットを打たせたはずだった。
戦術的にもデータ的にも、黎明のディフェンスは成功していた。
それを、たった一人の男の規格外のエゴと身体能力が、力づくで正解へと書き換えてしまったのだ。
だが、ボールを拾い上げた蓮の表情に動揺はなかった。
「下を向くな! オフェンス、一本確実に使うぞ!」
蓮の声には、氷のような冷徹さが宿っていた。
ボールを運ぶ白石に、蓮は指を一本立てて指示を送る。
「クロック目一杯使え。24秒、泥沼まで引きずり込むぞ」
黎明の狙いは明確だった。
神宮寺の個の爆発を完全に防ぐことは不可能だ。
ならば、打ち合いに付き合って試合のテンポを上げるのではなく、徹底的にゲームスピードを落とす。
1回のポゼッションで24秒のショットクロックを極限まで消費し、オフェンスでは神宮寺に一切の休息を与えない。
白石からパスを受けた陣内が、ハイポストでボールをキープする。
黒木が執拗にスクリーンをかけ、神宮寺を蓮とのマッチアップから引き剥がそうとする。
神宮寺は苛立ちを露わにしながら、黒木の分厚いスクリーンを力任せにすり抜けて蓮を追う。
時計が進む。
20秒、21秒、22秒。
残り2秒でパスを受けた蓮が、神宮寺のブロックの上から放ったミドルジャンパーはリングに弾かれた。
「リバウンドォ!」
帝王山のリバウンダーが叫ぶ。
しかし、そのルーズボールに誰よりも早く飛び込んだのは鮫島だった。
泥臭くフロアに身体を投げ出し、マイボールを死守する。
「蓮ッ!」
鮫島が倒れ込みながら放ったパスが、再びトップの蓮へ渡る。
これでさらに24秒のリセット。
帝王山のディフェンス陣から、微かな絶望の息が漏れた。
オフェンスをやり直し、徹底的にパスを回し、最後に黒木がゴール下の混戦からねじ込んで2点を追加。
残り2分10秒、スコアは70対65。
「よしッ!」
葵がメガホンを握りしめて叫ぶ。
時間を極限まで削り、確実にリードを維持する。
これこそが、蓮が選んだ「冷徹な泥沼戦」だった。
しかし、帝王山の怪物は止まらない。
再びボールを握った神宮寺の目は、完全に血走っていた。
フロントコートへ運ぶや否や、蓮の密着マークを強烈なクロスオーバーで揺さぶる。
涼香がベンチで叫ぶ。
「蓮くん、ドライブの右ステップ! フェイクの確率が――」
神宮寺はその予測すらも踏み躙った。
フェイクなど使わない。
ただ愚直に、圧倒的なストライドで右サイドを抉る。
蓮が食らいつき、ヘルプの鮫島がインサイドで待ち構える。
神宮寺は跳んだ。
鮫島と空中で激しく接触しながら、強引に右手一本でボールをバックボードへ当て、ねじ込む。
ピピーッ!
「バスケットカウント! 白7番(鮫島)、ブロッキング!」
ホイッスルが響き、体育館が揺れるほどの歓声が沸き起こった。
「うおおおおおおッ!」
神宮寺が咆哮し、ユニフォームの胸元を強く掴んで吠える。
鮫島が悔しそうに顔を歪めたが、蓮はすぐに鮫島の肩を叩いた。
「気にするな、鮫島。ファウル覚悟で体を当てたのは正解だ。あいつの脚に、確実に効いてる」
神宮寺がフリースローラインに立つ。
滴り落ちる汗が、コートの木目を濡らしていく。
息遣いが荒い。
ヒュー、ヒューと、喉の奥から乾いた笛のような呼吸音が漏れている。
それでも、放たれたフリースローは狂いなくリングを通過した。
残り1分50秒、70対68。
差は2点。
黎明のオフェンス。
蓮は再びクロックを消費しにかかる。
白石がドリブルで時間を使い、陣内と黒木がパスを中継する。
しかし、帝王山も死に物狂いのプレッシャーディフェンスを仕掛けてくる。
パスコースを狭められ、蓮にボールが渡った時点でショットクロックは残り3秒。
神宮寺が長いリーチを広げて蓮を完全にロックオンしていた。
蓮はステップバックからタフショットを放つが、疲労からわずかに軌道が逸れ、ボールはリングの縁を叩いて弾かれた。
ディフェンスリバウンドをもぎ取ったのは神宮寺だった。
そのまま自らボールをプッシュする。
「速攻止めろ! 戻れえええッ!」
白石と陣内が必死にバックランする。
だが、神宮寺の推進力は衰えない。
黎明のディフェンス陣を置き去りにし、フロントコートへ単騎で突進する。
戻っていたのは蓮と黒木の2人のみ。
神宮寺はトップスピードのままユーロステップを踏み、黒木をかわして宙へ舞う。
蓮が背後からブロックに跳ぶが、神宮寺は空中でボールを持ち替え、リバースレイアップを放った。
フワリと浮いたボールが、リングに吸い込まれる。
残り1分30秒。
スコアボードのランプが灯る。
70対70。
ついに、同点。
帝王山ベンチが総立ちになり、応援席からは地鳴りのようなコールが降り注いだ。
御子柴監督の緻密なシステムをかなぐり捨て、ただ己の肉体とプライドのみで5点差を追いついた怪物。
コート上で膝に手を当てた神宮寺は、獰猛な笑みを浮かべて蓮を見据えた。
だが――。
「……涼香ちゃん、見て」
ベンチの葵が、スコアブックから視線を上げ、神宮寺の異変に気づいた。
「肩の上下が……止まってない」
涼香は冷徹な視線をストップウォッチから神宮寺へと移した。
「ええ。限界を超えているわ」
神宮寺のユニフォームは、絞れるほど汗でぐっしょりと濡れそぼっていた。
胸の上下運動が激しすぎる。
1試合40分間、帝王山の絶対的支柱として組織の歯車を完璧に回し続け、そしてこの最終盤、たった一人で全てのオフェンスとディフェンスを担い続けた。
その代償。
蓮が仕掛けた「24秒を使い切る泥沼戦」と、毎ポゼッションで打たせ続けたタフショット。
それらは目に見えるミスとしては現れなかった。
だが、神宮寺の全身の筋肉と毛細血管には、莫大な酸素負債が確実に蓄積されていた。
太腿の筋肉がピクピクと痙攣し、呼吸のたびに喉が引きつっている。
1人で戦い続ける怪物の牙は、自らの肉体をも削り取っていたのだ。
蓮は汗を拭い、黒木と視線を交わした。
黒木が短く頷く。
「黒木、陣内、鮫島、白石」
蓮の静かで、確信に満ちた声が仲間たちを包む。
「追いつかれたけど、プラン通りだ。あいつの脚はもう限界だぞ」
電光掲示板のタイマーが、運命の残り1分30秒を刻もうとしていた。
コートの熱気は最高潮に達し、勝負の結末は、泥沼の底へと沈んでいく。
橘葵のマネージャーノート
一九九八年、八月某日。
北海道インターハイ3回戦、帝王山戦・第4クォーター終盤。
神宮寺くんのプレーは、見ていて鳥肌が立つほど凄まじいものでした。
涼香ちゃんが集めてくれた完璧なデータを前にしても、それをフィジカルと精神力だけでねじ伏せてしまう。
「これが全国の頂点に君臨するエースなんだ」と、恐怖に近い感情を抱いたのを覚えています。
でも、蓮くんたちは誰一人として絶望していませんでした。
相手のスーパープレーに付き合って熱くなることもなく、ただ淡々と、時間を使い、タフショットを打たせ、相手の体力を削る。
高校生とは思えないほど冷徹で、泥臭い戦い方でした。
残り1分30秒、70対70。
スコアの上では追いつかれましたが、コートに立つ神宮寺くんの呼吸は、明らかに乱れています。
チーム全員で仕掛けた泥沼戦の罠が、ついに怪物の脚を捕らえようとしています。
最後まで、絶対に全員で走り抜いてほしい。
信じて、ベンチから声を送り続けます。
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