第32話:湯気立つ食卓、決戦前の静けさ
体育館を出ると、初夏の夜風が火照った首筋を心地よく撫でていった。
県立総合体育館からの帰り道。
街灯がまばらに照らす住宅街を、俺――如月蓮は一人、一定の歩幅を崩さずに歩いていた。
足の裏全体で地面を捉え、股関節を使って衝撃を逃がす歩行動作。
北嶺高校、そして東山高校との連日の激闘を戦い抜いた十五歳の肉体には、ずっしりとした鉛のような疲労が沈殿している。
だが、サブアリーナで徹底した『PEACE & LOVE』のプロトコルのおかげで、筋膜の過緊張や関節の炎症は最小限に抑え込まれていた。
(ベスト4……決勝リーグか)
見上げる夜空には、澄んだ月が静かに浮かんでいた。
前世でアキレス腱を断裂し、失意の底でコートを去ったあの日から、どれほどの月日が流れただろうか。
世界最高の理論とデータを持っていても、コートに立つ身体がなければ何も成し得ない。
その悔しさを胸に刻み、二度目の人生で丹念に創り上げてきたこの肉体が、いま、高校バスケの激戦区で確実に結果を手繰り寄せている。
角を曲がると、見慣れた二階建ての我が家の窓から、温かなオレンジ色の明かりが漏れていた。
カチャリ、と玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
靴を脱いだ瞬間、奥の廊下から、ふわりと出汁と生姜の香ばしい匂いが漂ってきた。
「おかえり、蓮! 遅かったわね、お疲れ様!」
キッチンからエプロン姿で小走りに現れたのは、母だった。
心配そうに俺の全身を見渡し、足元や歩き方に不自然なぎこちなさがないかを素早く確認している。
「怪我はしてない? どこか痛むところはないの?」
「大丈夫だよ、母さん。どこも痛めてない」
「本当? 神崎先生から夕方にお電話があったのよ。『東山高校との大激戦を制して、ベスト4の決勝リーグ進出を決めました』って。……あんな伝統校に勝っちゃうなんて、本当におめでとう!」
母の顔に、心からの誇らしげな笑顔が咲いた。
「さあ、すぐお風呂に入る? それともご飯にする? 蓮が言ってた通り、消化に良くてタンパク質がしっかり摂れるメニューにしてあるわよ」
「お風呂を先にさっと済ませるよ。交感神経を落ち着かせたいから、三十八度のぬるめのお湯に十五分浸かってくる」
「はいはい、お湯加減はちょうどぬるめにしてあるわよ。ゆっくり温まってきなさい」
◇
脱衣所でユニフォームのジャージを脱ぎ捨てる。
鏡に映った自分の身体を、冷静に観察した。
身長百七十八センチ、体重六十四キロ。
打撲の痕や擦り傷こそ点々とあるものの、皮膚の下の腫脹はない。
ぬるめの湯船に身体を沈めると、全身の筋肉から「ふぅ」と強張りが抜けていくのが分かった。
温水による水圧が下肢の静脈還流を促し、溜まった乳酸や疲労物質を心臓へと押し戻していく。
風呂から上がり、リビングへ足を踏み入れると、仕事から帰ってきた父が新聞を片手に食卓に座っていた。
「蓮。勝ったそうだな」
父は眼鏡の奥の目を少しだけ細め、穏やかな声で言った。
口数の多い人ではない。
だが、中学時代、理不尽な顧問のシゴキで万年補欠の雑用係に甘んじていた頃も、一度も俺を責めることなく、静かに見守り続けてくれた人だった。
「ああ。苦しい試合だったけど、みんなで我慢して勝ち切ったよ」
「そうか。お前が高校に入ってから、本当にいい顔をしてバスケをするようになった。……飯を食え。母さんが腕によりをかけて作ったぞ」
食卓には、湯気を立てる大皿が並んでいた。
鶏むね肉と根菜の黒酢あんかけ。
豆腐とワカメの味噌汁。
山盛りのブロッコリーとトマトのサラダ。
そして、消化吸収を助ける麦飯。
中学の夏、俺が運動生理学に基づいた栄養管理を始めて以来、母はスポーツ栄養学の本を図書館から借りてきては、毎日の献立を試行錯誤してくれていたのだ。
高タンパク、低GI、抗酸化作用のあるビタミン群、そして適度なミネラル。
現代のトップアスリートのクラブハウスで提供されるリカバリー食と、何ら遜色のない完璧な食事だった。
「いただきます」
箸を取り、黒酢あんかけを口に運ぶ。
柔らかな鶏肉の旨味と、ほどよい酸味が、疲弊した五臓六腑に染み渡っていく。
「美味しいよ、母さん」
「よかった! 明日も試合なんでしょう? しっかり食べて、グリコーゲンを蓄えておきなさい」
母は嬉しそうに目を細め、お茶を注いでくれた。
「中学の時はね……毎日泥だらけで帰ってきて、足を引きずっている日もあって、お母さん、本当に心配だったの。でも、今の蓮は自分で自分の身体を一番大切にしているのが分かるから。……安心して応援できるわ」
「……ありがとう、母さん」
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
前世のケビン・ウォーカー時代、俺の周りにいたのは、金と契約、勝利の数字だけを求めるビジネスの大人たちばかりだった。
怪我をすれば使い捨てられ、痛みに顔を歪めても誰も抱きしめてはくれなかった。
だが、この二度目の人生には、無条件で自分の帰りを待ち、温かいご飯を作ってくれる家族がいる。
(絶対に、壊れるわけにはいかない)
この温もりを守るためにも。
自分を信じてくれた両親を、二度と悲しませないためにも。
俺は絶対に怪我をせず、健康な身体のまま、世界の頂点へと駆け上がらなければならないのだ。
◇
食後、自室に戻った俺は、部屋の明かりを暖色系に落とし、ベッドの脇にストレッチマットを敷いた。
静的なストレッチで筋肉を無理に引き伸ばすことはしない。
足の指を一本ずつ手で広げ、足底腱膜のアーチを丁寧に揉みほぐす。
股関節をゆっくりと内外旋させ、骨盤の傾きをニュートラルへと整える。
自律神経を副交感神経優位へと導くための、ミリ単位のモビリティワーク。
机の上には、一冊の大学ノートが開かれていた。
そこには、神崎コーチから共有されたデータをもとに、俺自身が手書きでまとめたスカウティングレポートがびっしりと書き込まれている。
『決勝リーグ第1戦:県立海浜商業高校』
『チーム特徴:伝統的な堅守速攻。全ポジションの走力が高く、ターンオーバーからのトランジション速度は県内屈指』
『警戒ポイント:相手エースガードのファストブレイクへの初動。ペイントエリアへの収縮が早く、外角シュートのスペースを一瞬で消しに来る』
指先でノートの文字をなぞる。
明日の試合、相手は間違いなく、こちらの連戦の疲労を見抜いてハイペースな走るバスケを仕掛けてくるはずだ。
こちらの足が止まれば、一気に点差を広げられて呑み込まれる。
(だが、走るバスケには必ず『スペースの歪み』が生まれる)
相手が前に走れば走るほど、バックコートには広大な空白が残る。
こちらのペースを乱さず、白石のハイポスト配球と、小林たち控えメンバーを前半から賢くローテーションに組み込めば、40分間を全員で生き残る勝機は十分にある。
時計の針は、夜の十時を指していた。
睡眠時間は厳密に九時間を確保する。
成長ホルモンの分泌ピークであるノンレム睡眠を深く取るため、部屋のエアコンを二十四度に設定し、遮光カーテンを引いた。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
暗闇の中、静かな呼吸を繰り返す。
心拍数は五十二。
張り詰めていた神経が、深い海の底へと沈んでいくように、穏やかな眠りへと誘われていった。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日で、自然と目が覚めた。
目覚まし時計が鳴る五分前。
身体を起こし、足首と膝の感覚を確かめる。
――軽い。
昨日の鉛のような重さは完全に抜け、関節の可動域も滑らかに保たれていた。
体内環境のリカバリーは、完璧だった。
リビングへ降りると、すでに母が朝食とお弁当の準備を整えていた。
「おはよう、蓮。よく眠れた?」
「おはよう、母さん。完璧だよ」
朝食のテーブルには、消化に優しい温かい和食。
鮭の塩焼き、納豆、出汁巻き卵、そして具沢山の豚汁。
さらに、テーブルの端にはアルミホイルに包まれた特大のおにぎりが二つ並んでいた。
「これ、試合の合間の補食用ね。中身は梅干しと鮭よ。電解質のタブレットとバナナもバッグに入れておいたから」
「ありがとう。助かるよ」
「決勝リーグ、お父さんと一緒に午後から応援に行くからね。無理だけはしちゃダメよ」
「ああ。しっかり戦ってくるよ」
通学用のスポーツバッグを肩にかけ、玄関でバッシュケースを抱える。
見送りに立ってくれた両親に「行ってきます」と告げ、俺はドアを開けて外へ出た。
雲一つない、初夏の青空が広がっていた。
◇
午前八時三十分。
決勝リーグの会場となる県立総合体育館へ到着すると、周囲の空気は、昨日までのトーナメントとは完全に一変していた。
アリーナを取り囲むように並ぶ、各校の大型応援バス。
広場を行き交う観客の数も倍以上に膨れ上がり、地元テレビ局のカメラクルーや、バスケットボール専門誌の記者たちが通路を行き来している。
全県六十四校の頂点を決める、上位四校による総当たり戦――『決勝リーグ』。
その独特の重圧と熱気が、会場全体を肌が痛くなるほどピリピリと支配していた。
地下の控え室。
重い扉を開けると、そこにはすでにユニフォームに着替えたチームメイトたちの姿があった。
「おう、蓮!」
パイプ椅子から立ち上がった鮫島豪が、鋭い野獣の眼光で声をかけてきた。
右脇腹には、昨夜の指示通り丁寧にバンテージが巻かれている。
足取りに痛みによるかばい動作はない。
「昨日の夜、蓮の言った通りに風呂で動かしてバンテージ巻いて寝たらよ……今朝起きたら、脇腹の痛みが半分以下に引いてやがったぜ!」
「当然だ。組織の血流を止めなかったからな。だが無理はするなよ、鮫島」
「へっ、分かってるよ! 今日もゴール下は全部俺がもぎ取ってやる!」
その隣では、白石岳が念入りに足の指をグーパーと動かし、足底アーチのストレッチを繰り返していた。
「蓮くん、おはよう。僕もね、足の裏をほぐしたら、今朝階段を降りる時全然膝が痛くなかったんだよ。……今日も、いっぱいパスを配給するからね」
「頼むぞ、白石」
陣内誠は、目を閉じて壁に背を預け、静かに右膝の感触を確かめていた。
目を開けたその瞳には、かつて怪我に怯えていた頃の弱気な影は微塵もなかった。
澄み切った、研ぎ澄まされたシューターの眼差し。
「蓮。膝の軋み、完全に消えたよ。……いつでも打てるぜ」
「ああ。相手が寄ってきたら、迷わず打て」
そして黒木凌は、誰よりも早く靴紐を二重に結び終え、静かに立ち上がった。
その長い両腕を広げ、無言のまま、力強い頷きを返してくる。
控えの小林や鈴木、佐々木たちも、緊張した面持ちながら、しっかりと目を輝かせて準備を整えていた。
ガチャリ、と扉が開き、ヘッドコーチの神崎拓也が入ってきた。
手には、分厚いスカウティングバインダー。
「全員、集まれ」
神崎の引き締まった声に、全員が円陣を作った。
「いよいよ決勝リーグ初戦、県立海浜商業高校戦だ。相手は百戦錬磨の古豪だが、浮き足立つ必要はまったくない。昨日の東山戦を制した君たちの知性と我慢強さは、すでに県内トップクラスだ」
神崎は俺と視線を合わせ、力強く頷いた。
「事前の計画通り、前半から小林たちを積極的にコートへ送り込み、全員でタイムシェアを行う。誰一人として足を止めることなく、全員で泥臭く40分間を駆け抜けるぞ!」
「「「オオォッッ!!!!」」」
地鳴りのような咆哮が、狭い控え室をビリビリと震わせた。
家庭の温もり、昨夜の入念なケア、そして互いの背中を預け合える仲間たちの信頼。
すべてを力に変え、如月蓮の率いる開明高校が、全国への扉をこじ開けるための最終決戦へと足を踏み出そうとしていた。
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