最狂ハンバーグカット選手権(初回限定オーディオコメンタリー付)
――最狂ハンバーグカット選手権。
その字面になぜか誘われ、このDVDを購入してしまった。
けっこう高い衝動買いだった。
見てみたものの、何が面白いのかさっぱりわからなかった。
途中で審査員の一人がつまみだされるシーンくらいしか盛り上がらないし、終始なにが行われ、それがどう評価されているのかわからない。
ただハンバーグをもてあそんだ挙句に食うだけの映像だ。
売ってしまおうかと思いながら裏面をみたとき、オーディオコメンタリーが入っていることに気づいた。
解説つきなら、わかるかもしれない。
リモコンを操作して、映像を再生した。
★
軽快な音楽とともに、甲高い叫びが鳴り響いた。
「サイキョウぅうぅ! ハンバァアアアグ! カットォオオオ!」
やかましかった。ちょっと音量が高いかと思って下げたが、今度は効果音やBGMがきこえなくなってしまった。再び音量を上げた。
「さあ、始まりました。司会を担当いたしますのは、今日も元気をみんなにお届け、エッグシェイプ・デミグラスでございます!」
画面の中央に置かれたテーブルには、すでに鉄板があり、新書本サイズはあろうかという大きなハンバーグが載せられている。今後、再三にわたって映される角度だ。
オーディオコメンタリーの声は落ち着いた丁寧な声で言う。
『ご覧ください。すばらしいハンバーグです。たっぷりのソースを着込んで、挑戦者を待ち受けています』
本編の映像には、こんな丁寧な解説は無かった。
オーディオコメンタリーに、期待が広がった。
そういえば、いまの声、きいたことがある。
審査員の一人だ。最も耳に残っている。激怒してつまみ出された和服の男だ。
続いて画面は、横並びの人物たちを映し出した。豪華なイスに座った三人の審査員だった。
「ワンカットごとに感謝のハンバーグ包丁研ぎ! 大場料理長!」
和服を着て、最初から最後まで渋い表情をしていた男だ。
「牛から育てた究極ハンバーグを喰いつくす! リンダ―ハック師範!」
師範という呼び方に似合わず、カウボーイハットをかぶってサングラスをかけた口ひげの男だ。
「最高の配合計算で正解ハンバーグをはじき出す! ツヴィーベル准教授!」
チェック柄のシャツの上にエプロンを装備していたスキンヘッドの男だ。
テンションの高い正装の司会者は、それぞれがハンバーグ家元・ハンバーグ師範・ハンバーグ教授の呼び名を持つと紹介した。
オーディオコメンタリーは、落ち着いた声で言う。
『ハンバーグ家元などと、恐れ多いことです。私は、いちハンバーグ職人にすぎません。このような巧言令色は、むしろ礼節を欠いていると言わざるを得ません』
そうしたら、別のオーディオコメンテーターの声が割って入った。
『おいおい、また盛り下げんのかよ家元さんよ。いいじゃねえか。あんたは家元、俺は師範。そんで、あんたは教授でいいだろ?』
『あ、はい、そうですね、まだ僕は准教授ですが、はい、ハンバーグをですね、切ることにかけては、名誉教授にも負けない審美眼がありますので、はい』
家元と師範と教授が出そろい、三人の振り返りとともに映像は進んでいく。
さっそく一人目の挑戦者である。
一礼をしてから静かに椅子に座った女は、カバンから細長いものを取り出した。
「あーっと、これは研ぎ石だ! 家元に敬意を表したか? 用意されたナイフを研いでいるぅ!」
『まずは正統派でしたね。緊張があるなか、よくわきまえていました』
『そうかぁ? 俺には、何が何だかさっぱりだった。熱いうちにさっさと切れやと思ったね。な、教授』
『僕は、はい、少し時間を無駄にしたように感じましたね。ただ、この焦らしてくる感じも、はい、嫌いじゃなかったです。でも家元は、この長い待ち時間の何がよかったんですか?』
『わかりませんか。これは「呼吸」です。単に間をとっているとか、焦らしているとか、そういうものではありません。食レポや調理ではなく、「切る」という行為そのものに宿る豊かさと神聖さと――』
『御託はいいからよ、こいつの呼吸とやらの何がいいのか教えてくれってんだ。正直、このトップバッターは地味すぎてな。番組の価値を下げちまったんじゃあねえかって心配になるほどだった』
『僕は、食べ方以前に、この女の人が、すごく美人だと思いましたね、はい』
『あなたたちは、本当に下品だ』
『何言ってやがんだ。ハンバーグだぞ』
『ええ、はい、品性がそんなに大切なら、はい、どうして家元は審査員を引き受けたのでしょうか』
家元は黙り込んだ。
まだ刃は研がれ続けている。
進行に不安がよぎったのか、司会の実況は心配そうに腕時計を見つめてから、
「ああ! いつまで続くのでしょうか! このままでは、カチコチの冷めハンバーグになってしまいますが!」
その言葉が気になったのだろうか、ついに彼女は研ぐのをやめた。
懐から布を取り出して刃をひと拭き。ハンバーグを左端から切り落とした。流れるような所作だった。
よく見れば、ハンバーグの切断面からは、ほとんど肉汁が出ていなかった。彼女はフォークで切り離された部分を刺し、すばやく口に運んだ。恍惚の表情で飲み込んでいく。本当にうまそうだ。
ところが、オーディオコメンタリーの評価は低い。
『これはいけませんね。呑むはずが、呑まれました』
『ああ? なんだよ家元さんよ。司会のエッグシェイプが悪いってのか? 緊張させやがってってか?』
『いいえ師範。そうではありません。まだハンバーグ側が切られることを受け入れていないうちに、刃を入れてしまいました』
『そうは言ってもよ、司会の言う通り、あんなに待たせたんじゃあ、ハンバーグが冷めちまう』
『そんなアツアツ信仰は捨ててしまいなさい。私にはわかるんです。まだ時が来ていなかった。彼女は、外からの圧力に耐え切れなかった。まだ若いですし、次回は集中を乱されず、ハンバーグと向き合ってほしいですね』
教授はウンウンとうなずいた。
『そうですね、はい。いかにハンバーグと場をともに創り、いかにハンバーグを切り、食べ、味わうか。技術のみならず心理や演出も勝敗を決定づける要素になるというわけです。はい』
テーブルが素早く片付けられ、新たな巨大ハンバーグが運ばれてくる。
続いて二人目は、若い男だった。
ライースという名だ。
司会の男の紹介にも熱が入る。
「ここで早くも、優勝候補の登場だァ! 瞬光のライース! 今日は、どんな早業でハンバーグを平らげてくれるのかぁ!」
ライースが席に着くと、すぐに立ち上がった。かと思えば、もうハンバーグはサイコロの形に切られ、閉じ込められていた多くの蒸気が立ちのぼっていた。
はじめに見たときも、今も、何が起きたのかマジでわからないんだよな。
司会は興奮気味に実況する。
「あーっと、どんな手品を使ったのか! もう切れているゥ!」
会場は驚きの歓声をあげ、中には黄色い声援も混じっているように聴こえた。
スターハンバーグカッターの一人なのかもしれない。
ライースは腰につけられていたホルスターのようなものからナイフを回転させながら取り出した。右手には赤いナイフ、左手には紫色のナイフだった。赤と紫を交互に刺して、次々に口に運んでいった。
そして画面には険しい表情の家元の顔が長いあいだ映し出されていた。
『家元さんよぉ、振り返ってみてどうよ。これは邪道ってやつじゃねえのか? 険しい顔しているし、やっぱ不快だったか?』
『そうではありません。さきほどの顔は技術が素晴らしいと称賛している時の顔です』
『おいおい嘘だろ?』
『嘘ではありません。ライースさんが、ハンバーグと向き合った結果、ハンバーグを多刀で切る腕を磨くのが最高の礼儀だと考えたことがわかります。生半可な努力では、こうはなりません』
『たしかにな。二刀流で食い出す人間も、まあいるといえばいるが、ああも綺麗なサイコロカットにするなんざ、なかなかお目にかかれるもんじゃあねえ。なあ、教授』
『はい、そうですね。芸術的二刀流です。はい』
しかし、家元は眉間のしわを深めたような声を出した。
『二刀流? ですか』
『は? なんでそこに引っかかるんだよ。どう見たって二刀で切って、二刀で突き刺して食ってるだろうが』
『今は二刀で突いていますね。しかし、切った時を思い出してください。六刀……いえ、七刀ですね。青や黄色もありました。色とりどりのナイフでした』
『へぇ……でもよ、家元じゃなきゃ見逃すような速さにしちまったら、客を楽しませられねえけどな』
『ええ、まさにそこなんですよ。彼は、私へのアピールとして、七色のハンバーグカットを行ったのです。彼の美学ではなく、審査員の私に合わせて、得点を取りに来た。少なくとも、私の目にはそのように映りました』
七刀とか嘘だろと思い、巻き戻してスロー再生してみる。
本当に七刀だった。
右手に四本、左手に三本。指の間に挟んだ色とりどりのナイフで一度ずつ切断してから、腰のホルスターに一度すべてのナイフを収めていた。普通の再生速度だと、本当に目にもとまらぬ速さだ。ハンバーグ家元の言ったとおりだ。
『たしかに美しかった。切るところ、食べるところを見せないことが、このさき彼なりの美学になっていけば、彼はすべてを超え、ハンバーグ神にまで手が届く可能性さえあると思います。しかし、今のままではね……。ハンバーグを真に美味しく味わうところから再出発する必要があると思います』
『厳しいなぁ、おい』
『はい、厳しすぎです、はい。二刀とみせかけて実は七刀だったという事実も含めて、ええ、かなりいいパフォーマンスだったのに』
鉄板に湯気を残したままライースはスマートに立ち上がり、手を振って去っていった。
続いて三人目の挑戦者は、ビーヤゴーデンという屈強な男だった。
長身で、ぶっとい腕には血管が浮き上がり、真っ白なTシャツが破けそうなほどにのびてしまっている。
ビーヤゴーデンは、なんと席に座らず、立ったまま片手で巨大ハンバーグをつかみ取った。
言うまでもなく、鉄板に載った熱い状態で出されているのだが、我慢したのだろう。鼻息は荒かったものの、余裕の表情だった。
そのまま熱いはずのハンバーグを口に運んでしまった。
「あーっと! やけどがこわくないのかぁ? 出されたばかりのハンバーグを噛まずに丸のみだァー!」
切らなかったのだ。
口や鼻から湯気が噴き出て、汗が流れだしていた。それでも余裕の顔を崩さない。
一度も噛むことなく胃に放り込んでから、ビーヤゴーデンは不敵に笑った。
これだけでは終わらない。
観客と審査員のどよめきの中、人差し指をクイクイと曲げて要求している。
何を?
次の鉄板を。
「なんと、今度は、できたてを……そのままいったぁー! また丸のみだぁー! お? しかも? なんと? 今度は両手で次を要求している! すぐに三つ目と四つ目が来るぞぉー? だが、これはいいのか? 全く切っていないが!」
画面の中では審査員の師範と教授が目を見合わせていた。
家元は眉間のしわを深くして、ひじ掛けに置いた手を強く握りこんでいた。
挑戦者ビーヤゴーデンは運ばれてきた三つ目と四つ目を、同時に口に放り込み、あっと言う間に平らげた。
また指だけで、五つ目のハンバーグを要求した。
その瞬間、会場がどよめいた。
司会者が何事かと顔を上げ横を向き、目を見開いた。
「ど、どうかしましたか、家元?」
カメラが動き、天井を向いた。すぐに映像が切り変わった。
早歩きで挑戦者のもとに向かう家元の姿が映し出された。
悲鳴まじりのどよめきが場を支配していた。
スタッフが慌てて立ち上がり、力づくで止めようとしている。
それでも止まらない。引きずりながら進んでいく。
司会者は、あわててビーヤゴーデンを隠すように前に出た。
「あっ、えーと、ちょっとトラブル、ですかね。家元、落ち着いてください」
家元は、司会者をどかした。
机に置かれる前の五個目のハンバーグを挑戦者から遠ざけた。
呆然とする挑戦者。
司会は、「おい、何やってんだ! まだ競技中だぞ!」と小声で叫んだ。
家元は落ち着いた声で、
「ハンバーグを切っていない。こんなもの、映してはいけなかった」
そう言いながらも、ついに羽交い絞めにされた。
「放せ、ふざけるな。私を止めるんじゃない」
顔を真っ赤にしたまま、暴れようとする。
だがスタッフの腕もまた太い。二人の男に拘束されて、連れ去られていった。
この部分は、一回目にみたときも面白かった。
あらためて見ても、やはり面白い。怒らなさそうな人が急に怒って、それによって変な空気になっているのが、なんだか笑える。
家元の姿が見えなくなって、司会がなんとか場をとりつくろっていた時、ようやくオーディオコメンタリーが沈黙を破った。
『それで、家元さんよ、あらためて自分のブチギレをご覧になって、どんな気分だ?』
『師範は、あの丸のみを見て何とも思わなかったのですか』
『いやぁ、そりゃな。けどよ、まったく切らないってのも、切る表現の一つだと解釈したさ』
『わかっていませんね。あれは、もはや、ハンバーグカットの表現ではなかった。ただ、私はこれでも後悔しているんですよ。私は審査員として、あるまじきことをしてしまったとね』
師範の音声はハハハと豪快に笑った。
『まあ、あそこはグッと我慢しなくちゃだよな。なっ、教授』
『はい、ええ、そうですね。僕も、はい、ハンバーグの丸のみは、もったいない気分になってしまいますね。じっくり味わってですね、はい。執拗に観察したい性質でして』
『あなたたちは、全くわかっていない』
『あ? なんだよ、またかよ。何がわかってないってんだ』
家元は、落ち着いた声のまま、語りかける。
『我慢をするべき? いいえ、逆です。私は、一切の我慢をするべきではなかった』
『一体、なに言ってやがる』
画面では、次の挑戦者が薄切りに挑んでいる最中だったが、まだ副音声では退場した場面の振り返りが続いていく。
『場を保とうとしてしまったのは、怠慢でした。あらためて見返すと、私は五個目で止めに入っています。でも本当は、一個目を飲み込んだ瞬間に、カメラを破壊するべきだった』
家元の言葉に、教授は納得をみせた。
『なるほど、はい。つまり、僕が考えるに、家元は、丸のみ男に怒ってるのではなく、自分自身に怒っているんですね、はい』
『そういうことです。この後の挑戦者を見るのは、初めてになります。楽しみです』
『気楽に言ってくれるがよぉ、家元さんがいなくなった後の大会は、もうすっかり暴れ馬だったぜ』
『それでも、乗りこなしたのでしょう?』
『へへっ、なんとかな』
それからの映像は、すこし険悪だったイメージがある。
なぜなら師範の言う通り、家元の退場によって、意見が対立した際の調停役がいなくなり、教授と師範の口論が多めになったからだ。
それなりに盛り上がっているようにも見えたが、変な格好をした審査員が、意味のわからない議論で喧嘩をする絵面が続き、はっきり言って退屈だった。
一方、オーディオコメンタリーは、延々と続くハンバーグカットセレモニーの意味を詳しく解説してくれた。
だから、なんだろう、わかった気にはなれた。
異常なまでに丁寧に切る者、腸に詰めて茹でてソーセージにしてしまった者、美しい彫刻を削り出した者、それらすべてに意味があった。
丁寧に切ったのをみて教授が『地質学だ』と褒め、ソーセージにした者を師範が『ハンバーグの拡大だ。宇宙を吞み込む気かよ』と笑い、彫刻にした者についても師範が『祈りにまで高めたな』と激賞した。
家元の解説も、鑑賞方法を解説するような興味深い見解が多かった。
やがて、残すところ三名となった。
最後の三名は、DVDを一回目に見たときは本当に全く意味がわからなかったので、どんな解説がされるのか楽しみだ。
師範は溜息を吐いて言う。
『こっからが、大変だった。クセが強いチャレンジャーばかりだ』
『僕は、でも、はい、楽しかったですけどね、ええ』
挑戦者が使ったのは、プロジェクションマッピングだった。
映像と音楽に合わせてハンバーグを切るというパフォーマンスを見せた。
わけのわからない模様の連続だったが、とても刺激的だった。
人間が最もうまそうと思う映像を研究し尽くした成果なのだという。
確かに。
集中して見ていたら、今すぐハンバーグをかきこみたくなってきた。
しかし、一つ気になったのは、その過程で、ハンバーグにかかっていたソースが洗い落とされ、かわりに映像を反射しやすいホワイトソースがかけられたことだ。
映像の中での師範と教授の論争が一区切りついたところで、家元が視聴者の疑問に答えるように、教授にたずねてくれた。
『そういえば、あのデミグラスソースを作ったのは、教授でしたね。何日も寝ずに配合を考え抜いたものだとか。あのように洗い流されて、不快には思わなかったのですか?』
教授は、はいと即答した。
『ええ、全く気にしていません、はい。僕にとってハンバーグはですね、出されたらもう挑戦者のもの。それをどう扱おうと、挑戦者の自由です、はい』
次に歩み出たのは、ハンバーグ万華鏡という技術に世界一の自信をもつ、バゲットという男だった。
ハンバーグ万華鏡というだけあって、挑戦者がハンバーグを動かすたびに万華鏡のような多彩な模様が変化し続け、芸術的だと思った。
意味はよくわからないが。
意味がわからなかったのは、なんと師範と教授も同じで、
『たしかに万華鏡みてーに、ハンバーグが現れたり消えたりして、脳を刺激してくるけどよぉ、これは結果的にハンバーグとちゃんと向き合うことになるのか?』
『ええ、はい、僕も何がしたいやら。ハンバーグに光を集めて、さらに細かく火を通すみたいなことかなと思ったんですが、はい、どうも違うみたいですし』
そう言って、家元に解説を求めた。
家元は静かに語りだす。
『角度が悪い。カメラマンに想像力がないんですね。たくさん置かれた鏡の角度をみてください。挑戦者が座っている位置の視点からみれば、ハンバーグのみが、いろんな角度から見えているはずです』
なるほど、主役はあくまで、ハンバーグということかな。
『ハンバーグが主役ですからね』
家元の考えが読めたので、思わず笑ってしまった。
『視覚に頼りすぎという面もあるかもしれませんが、好感がもてます。なぜなら、鏡の中のハンバーグをね、同時に味わっている。非常に高度です』
最後の挑戦者は、逆点滴という技術をもつニーヒツという名の男だった。
点滴のようなものを伴って、健康状態を表示する心電図のようなものも一緒にあらわれた。
この人は順番が最後だったのと、医療機器を伴うという奇抜な演出もあって一応は印象に残っている。
とはいえ、素人の目には、病人が普通にハンバーグを端から切って、うまそうに食って、いつのまにか終わっただけで、特別なことは何も起きなかったように見えた。
逆点滴という言葉に何か秘密があるのかもしれない。
その答えは、ハンバーグ教授が知っていた。
『はい、正確に言うとこれは「逆ハンバーグ点滴」ですね、はい。ハンバーグ分の栄養素を事前に抜く、もしくは食べながら抜くことで、身体がハンバーグを求めましてですね、はい、ハンバーグを味わう味覚が鋭敏になるのです』
『サイエンスってやつかよ』
師範が少しだけ不快そうに言ったのだが、家元は案外好意的で、
『いいですね。本当に美味しく食べてくれています』
その言葉には師範も同意した。
『ああ、作った甲斐があったってもんだな』
『はい、本当にそう思います、はい』
やがて画面の中では司会が観客に拍手をうながしていた。
「さあ最高に、おいしそうに完食だー! ハンバーグカット選手権、これにてすべての挑戦が終了! 審査員のみなさん! どうでしたか」
師範と教授が総評して、特に気になった個人をそれぞれ褒めはじめたが、自由なオーディオコメンタリーは、とくに終わりの儀式に耳を傾けるでもなく、逆ハンバーグ点滴の話題を続けていた。
教授は言う。
『そうだ。はい、あとで知った話なんですがね、逆ハンバーグ点滴は僕が初めて開発した技術なのですが、はい、このニーヒツさんのほうが、僕よりさらに優れたものを作ったんですね、はい』
『それは、ぜひとも私も試してみたいものです』
『お、いいな。今度三人で、ハンバーグパーティだな!』
DVDは平和のうちに再生終了となり、再生メニュー画面に戻った。
優勝者については、まあ、いたのだが、ちょっと納得いかなかった。
個人的には、サイコロ状にカットするライースの多刀流くらいが、自分にはちょうどいいなと思った。
★
夕方、ファミレスに来てしまった。
もちろんハンバーグを頼んだ。
ハンバーグが届くのをわくわくしながら待っていると、隣の座席に座っていた若い男のもとに、先にハンバーグセットが運ばれてきた。
男はナイフを手に取ると、両手持ちをして、ハンバーグの中央部を円形にくりぬき始めた。
どう見たって普通ではない。異常な切り方である。
思わず身を乗り出して、男に話しかけていた。
「……あれ、見たのか?」




