第9話 硝子瓶の聖女
王都から遠く離れた、潮風の香る港町セレン。石畳の坂道の途中に、小さく、いつもハーブの爽やかな香りが漂う店がある。店の看板には、『薬屋エルセ』と簡素に記されていた。この店の名前については、様々な議論が繰り広げられ、最終的にエルセリアが押し切られる形でこの名になった。
「……はい。この煎じ薬を、食後に三回飲んでくださいね。お大事に」
エルセリアが微笑んで薬袋を手渡すと、漁師の男は顔を赤くしながら大きな手を振って去っていった。
家を出てから数年。彼女はここで、「エルセ」という名で平穏な日々を過ごしている。前世で学んだ薬草学の知識が、まさかこんな形で人々の役に立つとは思わなかった。
「エルセ。今あの男、あなたの指先に触れようとしていました。……追いかけて指を詰めてやりましょうか」
店番のカウンターのすぐ横、影に溶け込むように立っていたギルベルトが、氷のような声で呟いた。あれからもっと成長した彼は、今や町中の女性が振り返るほどの美青年に仕上がっている。だが、その中身は相変わらず……いや、年々重くなっていた。
「ダメよ、ギル。彼はただ、お釣りを受け取ろうとしただけなの」
「お釣りの受け渡しに時間がかかるのは、明白な誘惑です。……次やったら、あいつの漁船、全部沈めてきます」
「物騒な冗談はやめて」
エルセリアが苦笑いしながら彼の頬を突くと、彼はふにゃりと相好を崩す。
「……エルセが触れてくださるなら、船の一隻や二隻、見逃してあげてもいいです」
彼はエルセリアの手に自分の頬を擦り寄せ、恍惚とした表情を浮かべる。その時、店の奥から小気味よい足音が響いた。
「ギルベルト。また仕事中にお嬢様に発情しているのですか。不潔ですよ。外でバケツの水を浴びて頭を冷やしなさい」
現れたのはいつもと変わらずメイド服を完璧に着たマルタだ。彼女は相変わらずの毒舌を吐きながら、薬草の詰まった籠をカウンターに置く。
「マルタ、おかえりなさい。仕入れはどうだったかしら?」
「ええ。バルドスという男が仕切っている商会から、質の良い月光草が入りました。……あそこのボス、三十代後半くらいの妙に色気のある男ですが、お嬢様の噂を聞いて『一度、店主を拝んでみたいもんだ』などと抜かしていましたよ」
バルドス。この街の裏社会も実質的に牛耳っているという、新興商会の長。その名を聞いた瞬間、ギルベルトの金色の瞳が、獲物を狙う獣のように細まった。
「……そのバルドスとかいう男、俺が消してきましょうか? お嬢様に不純な興味を持つ不逞の輩は、存在そのものが罪ですので」
「あら、珍しく名案ですね。ですが、今のところ彼は貴重な仕入れルートです。殺すのは、お嬢様に直接手を出してからになさい」
二人の物騒な計画が始まりそうになったので、エルセリアは慌てて二人を宥めた。
◇ ◇ ◇
その日の午後。店の前に、一台の馬車が止まった。慌てて見せに入ってきたのは、身なりの良い、けれど服を乱した一人の男だった。
「ここか! どんな病も治すっていう薬師の店は!」
彼の腕の中には、顔を真っ赤にして苦しそうに呼吸する少女が抱かれている。
「娘が、急に倒れたんだ! 頼む、助けてくれ。礼なら何でもやる。だからどうか、この子を……!」
男性の目には、涙が浮かんでいた。一目見て、少女を侵しているのがただの病ではないことがわかった。少女の首筋には微かに紫色の斑点が浮き出ている。
(……これは、『沈黙の蔓』の毒。前世で、ミレーヌが私に盛ろうとした毒と同じだわ)
エルセリアは反射的に立ち上がった。ギルベルトとマルタが、瞬時に戦闘態勢で彼女の前に出る。知らない男が突然主人の領域に踏み込んできたからだろう。しかし、彼女は二人の背中を押した。
「二人とも、下がって。……ギル、奥の棚から『銀の滴』の瓶を持ってきて。マルタ、お湯と清潔な布を準備して。……すぐに治療しないと」
「エルセ……」
「ギル、お願い。この子は、まだこんなにも小さいのよ」
エルセリアの真剣な眼差しに、ギルベルトは一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに「分かりました」と短く答えて影のように動いた。彼女は男性から少女を受け取り、店の奥のベッドに寝かせる。男性は圧倒されたように、呆然と立ち尽くしていた。
「あの、あんた……」
「大丈夫ですよ。……この子の命は、私が必ず繋ぎ止めます。ギル、銀の滴を頂戴」
彼女は受け取った薬を、自分の指先につけて少女の唇に塗った。そして、前世で学んだ毒と薬の相互作用を思い出しながら、的確に処置を施していく。マルタは完璧なタイミングで必要な道具を差し出し、ギルベルトは外からの視線を遮るように動き、彼女が集中できる空間を作った。
約一時間後。少女の荒かった呼吸が、静かな寝息へと変わった。紫色の斑点は、ほとんど見えない程度に薄れてきている。
「……もう大丈夫ですよ。山を越えました」
エルセリアが額の汗を拭って微笑むと、男性はその場に崩れ落ちた。彼は大きな手で顔を覆い、子どものように号泣する。
「……ぁ……ありがてえ……。あんた……あんたは、俺の神様だ。……この恩は、一生忘れねえ……っ」
それを見るギルベルトの瞳には、相変わらず冷ややかな光が宿っている。彼はエルセリアの肩をそっと支え、耳元で囁いた。
「エルセは、本当に……罪作りな方ですね。また一人、あなたの信者を増やしてしまった」
その言葉の意味を、彼女は深く考えなかった。ただ救えた命があることに安堵し、彼から差し出された温かいお茶を受け取る。
この時、彼女は知らなかった。助けた少女が、裏社会の王・バルドスの唯一の愛娘であったこと。そしてこの出会いが、彼女にとっての最強の盾となることを。
「……さて。エルセ、お疲れでしょう。後の片づけは先輩にやらせて、あなたは俺の腕の中で休んでください」
「ギルベルト、どさくさに紛れて抱き着かない。お嬢様、寝室へ。私がハーブを焚きましょう」
潮風が吹く小さな薬屋で、彼女たちの新しい戦いの準備が、静かに整いつつあった。




