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第8話 彼女が知らない裏話


 深夜。着きに隠れた満月の夜は、逃亡にはおあつらえ向きの闇に包まれていた。エルセリアたちは、マルタが手配した簡素な馬車に揺られ、数年過ごした別邸を後にする。


「……本当によろしいのですか、お嬢様。未練はありませんか?」


 御者台に座るマルタが、淡々んと尋ねる。エルセリアは馬車の窓から遠ざかる別邸を見つめ、静かに首を振った。


「ええ。もう十分だわ。ただ……あの家をそのままにしていくのは、少し忍びないけれど。管理人のおじ様とおば様には、十分な退職金と次の仕事を紹介しておいたし、これであの場所はただの空き家として静かに眠るのでしょうね」


 彼女は、自分が消えた後、数日もすれば「令嬢失踪」の騒ぎになるだろうと考えていた。創作が始まり、やがて見つからずに立ち消える。それが彼女の描いていた、「エルセリア・ロシュフェルト」の静かな幕引きだった。


 彼女の隣で影のように座るギルベルトは、何も言わずに彼女を見つめている。その瞳は暗く、深く、何かを隠すような妖しい光を宿している。


「お嬢様。もう、振り返る必要はありません。これからは、俺たちがあなたのすべてになりますから」


 その声は甘く、どこか陶酔を含んでいるようだった。

 



 ◇ ◇ ◇




 馬車が国境を越え、ひとまずの宿屋に着いた頃。


 エルセリアが深い眠りに落ちている間のこと。ギルベルトとマルタは、主人の前では決して見せない掃除人の顔で、静かに言葉を交わしていた。


「——仕込みは済みましたか、狂犬」

「あぁ。エルセリアの部屋、糞男(ヴィンセント)からの手紙、そして身代わりも用意はできている」


 ギルベルトの声は、エルセリアに向けるそれとは似ても似つかぬ氷のような響きだ。彼が用意したのは、数日前に志望した身寄りのない身投げ死体。エルセリアと似た体格、同じ髪色。そこにエルセリアが常に付けていた指輪をはめ、彼女が愛用していた香水を振りまいた「偽物」だ。


「エルセリアは静かに去りたいようだが、それでは甘い。あいつらが、生きている可能性を追ってくる隙を与えてはいけない」

「珍しく意見が合いましたね。その方が、お嬢様の安全は保障されますので」


 マルタは冷徹に、エルセリアの寝室のカーテンに特殊な燃焼剤を振りかけた。ギルベルトは、エルセリアが泥を投げつけられたものと同じ色のドレスを、わざとらしく床に散らした。まるで、悲嘆に暮れた令嬢が、自ら命を絶とうとしたかのように。


「……エルセリアを侮辱した報いだ。あいつらには、一生消えない後悔の灰を吸わせてやる」


 ギルベルトが指を鳴らす。刹那、火の手が上がった。

 魔法で増幅された炎は、瞬く間に豪華な別邸を呑み込み、夜空を赤く染め上げる。


 エルセリアと共に大切な日々を過ごした場所は、彼女の生存を隠ぺいするため、巨大な火葬場へと姿を変えた。




 ◇ ◇ ◇




 家を出てから三日が過ぎた。エルセリアたちは隣国の国境に近い宿波町にたどり着いていた。


 朝食の席で、マルタが何気ない様子で一枚の新聞を彼女の前に置く。


「お嬢様。どうやら、大きな火事があったようですよ」

「えっ……?」


 新聞の紙面には、黒く焼け焦げた建物の残骸が大きく写し出されていた。


 ——『ロシュフェルト公爵別邸、全焼。エルセリア令嬢、焼死か』


「そんな……っ、どうして! 火の気なんてなかったはずなのに……。おじ様達はご無事かしら。それに、私はここにいるのに……」


 エルセリアは、目の前が黒くなるのを感じた。あんなに綺麗だった家が。思い出の場所が。


 呆然とする彼女の肩を、ギルベルトが背後から優しく抱きしめる。


「悲しいですね、お嬢様。爺さん達は無事だったと報があったので、その点はご安心ください。……きっと、ヴィンセント殿下の不実や、あの家での扱いに絶望したお嬢様が、天に召されたと……世間はそう思うのでしょう」


 彼の声は、どこまでも悲しげに響いた。しかし、その腕の中に閉じ込められた彼女は、彼の胸の鼓動が驚くほど穏やかで、むしろ歓喜に震えていることに気づかなかった。


「……これで、お嬢様を縛るものは何もなくなりました。あなたは一度死に、そして俺の手の中で新しく生まれたんです」


 マルタは、何食わぬ顔で紅茶を注ぎながら補足した。


「火災の調査では、殿下からの酷い手紙や、泥のついたドレスが見つかったそうです。……今頃、王城は大騒ぎでしょう。あんなに尽くしてくれた令嬢を自分たちが追い詰めて殺したのだと、彼らはようやく気づいたのではないですか?」


 エルセリアは震える指で新聞を握りしめる。彼女は、エルセリア・ロシュフェルトは、悲劇の令嬢として死んだことになってしまった。


(自由……になったのね)


 安堵と、そして自分でも気づかないほどの小さな恐怖が混ざり合う。目の前で微笑むギルベルトの金色の瞳が、炎の色に似て見えたのは気のせいだろうか。


「これからも俺は、あなただけの守護者です、お嬢様。……いえ、これからは『エルセ』とお呼びしても?」


 ギルベルトがエルセリアの手を取り、跪いて口づけを落とした。その感触は、前世で心臓を貫いた刃よりも鋭く、深く、私の魂に刻み込まれる。


「ええ。……よろしくね、ギル、マルタ」


 こうしてエルセリアは、自由という名の未知の荒野へと踏み出した。


 ――この時、彼女はまだ知らない。ヴィンセントが彼女の死を前に狂乱し、ロシュフェルト家の結界が正常に保たれなくなったことを。そして、彼女の隣にいる青年が、夜な夜な彼女の寝所に侵入して彼女の頭を撫で、「俺だけのエルセ。一生離さない」と至福の表情で呟いていることを。

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