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第7話 死神の抱擁


 園遊会から帰宅した別邸の自室。鏡の中に映るエルセリアは、泥を投げつけられた惨めな姿のままだった。母の形見のドレスは汚れ、アメジストの瞳は疲れ果てている。


 しかし、心は不思議と静かだった。これでいい。この辱めが、彼女の未練を完全に断ち切ってくれたのだから。


「——お嬢様。……その汚れは、何です」


 背後。影が揺れるよりも早く、低く、美しく、それでおて地を這うような冷気を含んだ声が響いた。振り返るまでもない。ギルベルトだ。


 数年の月日は、あの日の痩せていた少年を変貌させている。艶のある黒髪は無造作に整えられ、切れ長の金色の瞳は夜目にも鋭く発行している。少年期の幼さは消え失せ、今や彼は着やせするしなやかな筋肉を宿した、一級の騎士——あるいは、伝説の暗殺者のような佇まいを持っていた。


「ただいま、ギル。これはね、少し……転んでしまったの」

「嘘だ」


 一歩。音もなく距離を詰めたギルベルトが、彼女の前に跪く。彼は、白い手袋を付けた綺麗な指先で、エルセリアのドレスにこびりついた渇いた泥に触れた。その瞬間、彼の周囲の空気がピキリと凍り付く。


「これは、意図的に汚された痕です。……誰ですか。あの愚かな男ですか? それとも、出来損ないの妹ですか」

「ギル、いいのよ。もう、終わったことですもの」


 エルセリアはそっと彼の頬に触れようとしたが、彼はその手を掴んで、壊れ物を扱うように、その指先に己の額を押し当てた。


「よくない。……お嬢様を汚す者は、俺がすべて排除します。今夜、あいつらの寝床に入って、舌を引き抜いて二度と笑えないようにしておきます」

「ギルベルト!」


 エルセリアは努めて厳しい声を出した。彼は顔を上げ、彼女を見つめる。その金色の瞳には、前世で彼女を殺した時と同じ無機質な虚無とは違い、隠されていない殺気が渦巻いている。


 彼は彼女の手を握りしめる。その力が強すぎて、少しだけ痛むほどだ。


「お嬢様。あなたは俺に、『憎しみだけを映してほしくない』と言ってくださいました。だから俺は、あなたの前では善き人でいようとしました。……でも、あなたが泣いているのを、黙ってみていろと言うのですか?」


 そう言われ、エルセリアは自分が涙を流していることに気が付いた。ギルベルトは愛おしそうに、細い指で彼女の目元を撫でる。


「泣いてなど、いないわ」

「嘘です。お嬢様、とても辛そうだ」


 ギルベルトは、震える彼女の手を包み込んだ。成長した彼は、彼女よりもずっと背が高くなり、肩幅も広くなった。それでも、彼女を見つめる時の彼は、あの路地裏で震えていた少年のままなのだ。


「ギル、お願い」

「お嬢様のお願いであれば、何でも叶えます」

「私を、ここから連れ出して。……私を、自由にして」

「……自由」


 ギルベルトが、咀嚼するようにその言葉を繰り返す。そして彼は、躊躇しながらも腕を広げて彼女を抱きしめた。エルセリアも、恐る恐ると彼の背中に手を回す。


「勿論です。お嬢様がそう望むなら、俺はあなたの足となり、影になりましょう。……でも、覚えていてください。俺から離れることだけは、絶対に許さない」

「……ええ。頼りにしています、私の騎士様」


 エルセリアは彼の頭を優しく撫でた。ギルベルトは勢いよく顔を上げ、彼女の頬を撫でる。


 その時。部屋の扉がノックもなしに開いた。


「いつまでいちゃいちゃしているのですか。出発の準備が整いましたよ」


 現れたのは、旅装に着替えたマルタだ。彼女の手には、公爵邸の宝物庫から「失敬」してきたばかりの服と大量の金貨が詰まった袋が握られている。


「マルタ……。ついに、きたのね」

「ええ。今夜のうちに、ここを離れます。お嬢様、その服を脱いでください。ご安心を、もちろんそのドレスの汚れは落としておきますので」


 マルタはギルベルトの襟首をつかみ、無理やりエルセリアから引き剝がした。


「狂犬。感傷に浸るのは夜を越えてからにしなさい。さっさとお嬢様の荷物を運ぶのです」

「……相変わらず、空気が読めない女だ」

「あら。あなたの『お嬢様に対する不純な感情』がびしばし伝わってきたものですから」


 二人のいつもの言い合いに、エルセリアはようやくクスリと笑った。そして、彼女は用意していた、質素だが動きやすい旅服を手に持つ。


「行きましょう。……自由な空の下へ」


 私の言葉に、ギルベルトが深く微笑んだ。その笑みは、救済者のようでもあり、獲物を愉しんで追い詰める捕食者のようでもあった。

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